夜空が回り、白い月光が甲板の上にくっきりと影を引く。その暗闇の側でキアラはネロの吐息を聞いていた。

 獣の息だな。

 そう感じていた。サンバレノに戻って最初の夜のことだ。

 目を瞑ると魔術院の記憶が井戸に溜まった水のように顎のすぐ下まで押し寄せてくるのを感じた。

 恐い。

 でも、どうして?

 その感情を肯定したくなかったし、ネロから離れるのはあの男たちに対する降服のように思えた。

 キアラは目を開けていた。

「ネロ」

 床がぶるぶると震えた。筋肉の震えだ。起きている。

 キアラは起き上がってグリフォンのつがいがそうするように尾羽の付け根を撫でたり、嘴の左右に頬を擦り合わせたりしてみた。でもネロからは興奮したような様子は少しも感じ取れなかった。

 時期的な問題ではない。グリフォンの繁殖期は春夏だ。見かけ上の性別差はほとんどないがネロはオスだ。

 あのエンジェルが言っていたように、薬で興奮させればあるいは……。


 グリフォンは男性器を持たない。オスもメスも総排泄口で交尾を行う。鳥類と同じだ。爬虫類も哺乳類も専用の性器を持っているのに、両者の進化の過程に挟まれた鳥類だけが性器を捨てた。飛行能力を得るための取捨選択なのだろうか。しかし鳥類が生殖に問題を抱えているようには思えない。抱卵を除けば孵化のプロセスにも違いはない。

 鳥類の性的興奮状態は一見して哺乳類に比べればよほど判別しづらい。それでも農場で生活していれば求愛の仕草くらい見慣れてくる。オスは喉元や冠羽を膨らませて姿勢よく相手の周りを歩き回るし、メスは受け入れれば伏せて腰を高くする。

 そういえばあの男と天使は鳥は連れてこなかった。ニワトリくらいなら選択肢にあったはずだ。体格差? いや、天使が人間と鳥のキメラだというなら、最も可能性が高いのは鳥じゃないか。交尾が成り立たないと思ったんじゃないだろうか。何か象徴的な意味を求めたんじゃないのか。

 大きな目が半開きになってキアラを見ていた。瞳孔が開いていた。その暗いガラス玉の上に自分の姿が映っていた。

「おまえは偉いね」

 キアラはネロの顎の下をなで、そのふっくらした羽毛の中に体を埋めた。

 もし、あの男が言ったとおり、異種交配が妥当で意味のある行為なら、私は他のどんな生き物より、当然人間より、おまえを選ぶだろう。でも、私が本当に求めているものが何なのか、おまえにはわかっているみたいだ。


……


 太陽が真上にあるのか、尖塔の中は異様に暗かった。ステンドグラスは血で塗ったように暗く沈んでいた。

 かつて人間は空に突き刺さるようなこの構造体を神の降臨の動線に見立てた。生命や恩寵などといったものはすべてここから人々の待つ聖堂の床に向かって落とされるのだ。

 人間には塔を崇める文化があるようだ。塔の内部は聖域であり、安易に立ち入ってはならない。要はその生産機能がなければ生活が成り立たないから荒らされないようにしている。

 天使もインフラを必要としているのは同じだが、塔に対する信仰はほぼない。どちらかといえばその対象は天であり、つまり空だ。塔は空の深部・・に近づくための足場に過ぎない。地形の一部とみなされていると言ってもいい。

 人間と天使の文化には大いなる逆転があるように思える。つまり、人間のしとねは塔であり、対して天使の褥は天、あるいはどこにも存在しない。人間は大いなる空を開拓して覇権を手にしたが、天使にとってそれは聖域の蹂躙に他ならなかった。


 尖塔から外に出る。やはり空は明るい。急に天気が悪くなったわけではなかった。なぜ暗かったのだろう。

 ネロは聖堂の屋根の上で待っていた。ヴェルチェレーゼからロタまで背中に乗せてもらったのだ。キアラはまだ翼が回復していない。塔を渡る時はネロ頼みだった。

 白いカラスの群れがネロを取り囲んで背中や尾羽から羽根を毟ろうとつついていた。ネロはかなり不機嫌そうに尾羽を振っていたが、積極的に追い払おうとはしていなかった。カラスくらいの力ではグリフォンの羽根は抜けないし、完全に追い散らすには体格差がありすぎた。グリフォンにまとわりつくカラスはヴェルチェレーゼの禽舎でも重大事案だった。侵入を防ぐのが難しいし、何よりグリフォンたちにとってストレスだった。結局人手を使って見張っておくしかない。カラスたちはなぜか天使や人間には寄り付かない。

 キアラが聖堂の棟の上を走っていくと、カラスたちは一応少し身構えてから飛び立った。

 ネロも立ち上がって身震い。翼を広げて2,3度羽ばたく。風圧に煽られてカラスの何羽か空中で体勢を崩した。

 キアラはネロの肩に回したハーネスを掴んで背中によじ登る。

「ああ、汚れてる。あいつら、フンまで引っ掛けて行きやがった」

 ネロの黒い羽根の上にべったりと白いシミがついていた。まだ生乾きでテラテラしていたけど、あいにく拭えるものを持っていなかった。帰ってから水浴びにしよう。

「エトルキアのカラスは黒いんだ。向こうじゃ黒い方が普通なのかもしれない」


 オルメト行の際もキアラはネロの背中に乗った。キアラだけが自力の飛行ではなかった。サンバレノでは何かに運ばれて空を渡るというのは自力飛行能力がないことを意味する。それでは人間と同じだ。他の3人は自力飛行なので肩身の狭い思いだった。

 1人目はペトラルカだ。職務中は白しか着ない彼女がやや紅色がかったフェリーコートを着ていた。それに、位階のステータスとなる2対目の翼も一切現していない。それはこの旅行が完全にプライベートなものであることを示していた。

 2人目はジリファで、これはペトラルカの言葉から十分察しがついた。ギネイスの追悼に行かせてやりたいのだろう。ジリファはオルメト戦役でギネイスの直属を務めた。2人のゆかりの地だ。

 問題は3人目、ラウラだ。キアラとジリファがエトルキアを抜け出したのを追うようにしてサンバレノにやってきた。脱獄に手を貸してもらった恩はあるけど、それがなぜなのか、どうやって亡命してきたのかはわからなかった。ペトラルカが彼女を近くに置きたがっているのも不可解だ。こういうプライベートなバカンスにまで連れてくるってことはエトルキアの情報を聞き出すのが目的ではないのだろうか。


 気流に乗って1時間ほどの飛行でオルメトが見えてきた。

 尾根と谷が入り組んだ地形の中に半円形にくり抜かれたすり鉢状の地形が見えてくる。近づくにつれてその巨大さがじわじわと実感に変わってくる。直径1キロは下らない。縁の高さは周囲のピークに迫るほどだった。一部の峠よりは明らかに高い。それがエトルキアの核が作ったクレーターだ。「オルメト」はもはや塔の名前ではなかった。今や爆心地も低木と草花で覆われ、さながら死火山の爆裂火口跡だった。

 一行はクレーターの縁に降り立った。風が吹くと花の蜜の匂いがした。ミツバチやアブが花々を巡っていた。いい天気だ。パラボラ型の地形だから内側に陽光が溜まるのだろう。下生えに光が照り返って空気そのものが仄かに黄色く染まっているような感じがした。上空の風で冷えた肺が温められていく。

 キアラはキャメルのフェリーコートを脱いだ。フェリーコートというのは厚手のベロアで設えたロングコートで、風を受けてもはためかず、毛並みが一方に揃えてあるので空気抵抗も抑えられる。長距離飛行用のマストアイテムだ。他の3人も各々着ていた。

 

 オルメトの周囲はかつて保養地として栄えていた。塔がひとつなくなったことを除けば今も鮮やかな景色に変わりはない。放射線に対する不安が天使たちを寄せつけなくなっただけだ。クレーターを見下ろす稜線には遺棄されたペンションが列をなしていた。

 その横に背中の曲がった老人が立っているのが見えた。老人はハンチング帽をちょっと持ち上げて稜線を歩き始めた。廃屋を回って手入れをしているようだ。確かに5年も放置されていたにしては状態のいい建物群だった。

「目のいいおじいさんだね」ペトラルカはそう言って左の上翼を持ち上げた。挨拶だ。

「人間が管理しているというのは意外だね」ラウラが言った。

「そうかな」とペトラルカ。「天使が寄り付かなくなったんだ。塔のような監督も行き届かないし、何よりフラムの心配がない。人間のスパイにはまさしく楽園じゃないか」

「確かに。だから天使が寄り付かないというのが意外なんだけどね」

「ここにはもう天使を惹きつけるものはないのさ。景色だけならもっとフラムのリスクが高いところで構わないし、それより放射線が恐いんだ。見えない危険との付き合い方は長らくフラムに脅かされてきた人間たちの方が慣れている。フラムを恐れるがゆえに地上への憧憬もまた天使に勝る」


 廃墟は向かいの稜線にある。一行は再び翼を広げてクレーターの上に飛び出した。斜面に沿って風が上がってくる。羽ばたかなくても体が持ち上がる様子だ。

 クレーターの中には崩落した塔の残骸が岩塊のようになって所々に顔を出していた。塔の基礎部分は根こそぎ掘り返され、さらに深深度まで伸びる杭が地表に露出していた。

 高山植物はもとより貧しい土壌に適応している。瓦礫に着生した地衣類の上に根を張って枝葉を伸ばしていた。遠目に塔の痕跡があまり感じられないのはやはり植物のせいだった。

 ペトラルカは廃墟の外れに着地した。なだらかな稜線で、廃墟から伸びる細い踏み跡がそこで止まっていた。ネロが降りるにはちょうどいい広さだ。

 踏み跡の終点には天使の銅像が置かれていた。翼を広げて天に向かって剣を掲げる勇ましい姿だったが、剣は根元から折れ、翼の先端もあちこち欠けていた。

「誰かわかる?」ペトラルカがラウラに訊いた。

「英雄ギネイスだね」ラウラは少し考えてから答えた。

 キアラは振り返った。ジリファは少し引いたところから像を見ていた。何か近づくのが躊躇われるようだった。傷ついた像をまじまじと見るのが嫌だったのだろうか。

 キアラはジリファの後方から近づいてくる人影に気づいた。

 先ほどの老人か。

 ネロがちょっかいを出したらまずい。慌ててハーネスを掴みに戻った。

 ところが実際には互いにまるで興味を示さなかった。老人はネロの目の前を素通りしていったし、ネロも羽繕いをしていて老人の方を見なかった。

 老人はジリファの横で立ち止まった。

「以前は塔の上に置かれていたんだそうだ。撤去の話が持ち上がったのでその前に持ってきたと言っていた。ここなら壊されることもなかろう。一行も彼女を偲ぶ集まりか」

「私は、はい」ジリファが答えた。「オルメト以来、彼女を慕う者は影を潜めました。この国ではその死さえ伝えられない。こうして形に残してくれる同志があったことは私にとっても喜ばしいことです」

「死……そうか、亡くなられたか」

 老人は思いのほか動揺した。それから吸い寄せられるように銅像に近づいた。ジリファも続いた。像の高さは2m以上ある。実物より大きく作られているようだ。

「最後はこのような立派な姿ではありませんでした」

「そうか、そうか……」

「でも、あえなく獄死したわけではありません。武人の精神は最後まで健在でした」

 色々説明したい気持ちはあったのだろうけど、ジリファは言葉を控えた。老人も深くは訊かなかった。しばらく北西の山並みを眺めていた。


陸将ゼネラル・ギネイスとはね。渾名とはいえ、存外エトルキアにもアークエンジェルの素性に詳しい人間がいたということかな」

 ペトラルカはそう呟いて廃墟に向かって歩き出した。中が滞在に堪えるレベルかどうかさっさと確認したいのだ。老人はそれに気づいて像の前を離れた。

「ありがとう」ジリファは呼び止めた。「あなたが手入れしてくれているのでしょう」

 老人はちょっと振り返った。頷いたようにも見えたが、それだけだった。




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