黒嫌い文化
血中魔素エネルギー容量75%、やはり数時間変身を解いただけではこの程度か、とラウラは思った。使い切っても半日ほどで回復するから一晩置けば、と期待してみたのだが、常時出力は思ったより負荷が高いようだ。明日起きてまた数値が落ちていなければいいけど。
小数点以下の値が動くのを見守って、76になったところでラウラはタブレットから手を離した。
人間は魔素の消耗を直に感じることはできない。天使はラディックスが体力に直結するという。こういう時には疲れを感じるのだろうか。体感でわかるのは便利だけど、体調が左右されるのは不便だな。まあ、長い付き合いだ。人間式の方が
コンコンコン、と扉が叩かれる。ラウラは静かに急いで翼を用意して髪色を確かめてから「どうぞ」と答えた。
世話係のチェルヴェットが入ってくる。翼は白いが髪は淡い栗毛だ。歳は20前後だろう。エンジェルだそうだ。建前としてはアークエンジェルの下仕えなのだからサンバレノなら当然だ。
が、ペトラルカの考えることだ。本当にエンジェルだとしても監視係を兼ねているのだろう。態度はややおどおどした感じだが、演技かもしれない。
「食事をお持ちしました」チェルヴェットはテーブルにお盆を置いた。
ホットケーキに目玉焼き、ドレッシングのかかったサラダ、澄ましのコンソメスープ、ヨーグルトに紅茶のポットとカップ。
「豪華だね」ラウラは言った。
「ありがとうございます」
「ヨーグルトは今少し気分じゃないんだ。昼に改めて出してくれるかな」
「かしこまりました」
「ペトラルカ様は起きていると思う?」
「ええと、ええ、おそらく。カーテンが開いていましたので」
「カーテンの開け閉めをきちんとするタイプなんだね」
「あの、私からは何とも」チェルヴェットはおどおど答えた。やっぱりわからない。
「うん、ありがとう」
ラウラはさっそく朝食に取り掛かって、歯を磨いてから廊下に出た。内陣の弧状の廊下にいくつも部屋の扉があるが、中に気配があるのは世話係とペトラルカの部屋だけだ。ラウラはペトラルカの部屋のドアをノックした。
返事はなく、扉が勝手に開いた。
「おはよう」ペトラルカは窓の桟に寄りかかってマグカップを持っていた。クリーム色のニットのワンピースを着ていた。
扉を開けたことで窓から風が吹き込んでレースのカーテンが膨らんだ。コーヒーの香ばしい匂いがした。……コーヒー? サンバレノの天使もコーヒーを飲むのか。
「昨日の疲れはとれた?」とペトラルカ。
「いいベッドでよかったよ。雲の上で眠っている夢を見たくらいだ」
「その恰好をするだけでも力を使うわけでしょう。魔素の消耗はどうだろう、と思って」
ラウラはギクッとした。まるでさっきの部屋の中を見ていたみたいな質問だった。
その時左手のベッドの中で何かがもぞもぞ動いた。他に誰かいるのか? ラウラはカーディガンを脱ごうとしていた手を止めた。
もぞもぞは掛布団の上の方へ移って、そこからぽこんと子供が顔を出した。白に近い透明感のある金髪がほとんど朝日に透けるようだった。肌も白い。目も淡い水色だった。
ラウラがまじまじと見ていると、子供は怯えたように後ずさりして一度伏せ、シーツで体の前を隠しながら立ち上がった。
「シャワーを浴びておいで」ペトラルカが言った。
子供は少し丁寧に頷いてそそくさと部屋の奥へ逃げていった。その背中には翼はなかった。人間だ。人間の男の子だった。
ペトラルカの息子? いや、それならなぜスッポンポンなのか。
「出てきちゃったか」とペトラルカ。
「まずいところを見ちゃったね」
「いや、だったら招き入れてない」ペトラルカはテーブルに置いてあったポットを覗き込んでマグカップをもう一つ用意した。
「天聖教会は人間も信徒にすると聞いたけど、そういうことかい」
「それはつまり、結婚を認めてるってことね。天使教会のような人工的な生殖方法はこっちではむしろ邪道扱いされる」
ラウラはペトラルカがテーブルの真ん中に置いたマグカップを受け取った。
「あの子はほとんど天使だよ。何代にもわたって人間と天使の子を天使と交配させてきたその末裔さ。天使としての形質が生殖遺伝子に刻まれている以上、男性天使というのは自然にはありえない。それでもそれ以外の特徴は次第に天使に近づいてくる。なぜかしらね、私はそういう子しか受け付けないのよ。生理的に無理、というのかしら。文化に基づく価値観を生理的、と言ってしまうのも誤謬なのだろうけど」
「人間っぽい男は嫌ってことかい?」
「なんかゾワゾワしちゃうのよ。
結婚を認める、より自然な生殖方法を貴ぶ、ということは人為的な交配もやはり天聖教会的にはグレーなのだろう。
「人工的な生殖方法、ってことは
「まあ、そうね。レズに関しては規定がないようだけど」
「ああ、なるほど、人間の男とやりたいだけの天使が改宗してくるパターンも多いわけだ。だから」
ペトラルカはラウラがそう言ったのを聞いてケラケラ笑った。
「だからって私の信徒をみんな絶倫みたいに思うのはやめてよね」
「それで、何か話があったの?」ペトラルカは息をついて椅子に座った。
「ああ、そうだね」ラウラも向かいの椅子を引いた。「キアラのグリフォン、ネロといったね」
「黒い子ね」
「ああいう飼い方だ。クレアトゥーラに関しても黒が好まれないっていうのはわかる。でもペトラルカの権限で生かしているわけだろう?」
「私、個人的に黒いものが嫌いってわけじゃないの。だからキアラは趣味が合うなと思ったし」ペトラルカは少しわざとらしくコーヒーを飲んだ。
「クローディアも黒羽だ。なぜクローディアを襲わせた?」
「ふふん」
「それとも狙いは黒羽としてのクローディアではなかったのかな?」
「いいや、そんなことはないよ。目的は紛れもなく黒羽だった」
「公人の振舞いとして筋が通らないね?」
「理由は色々あるわ。キアラの腕試し、正当な手段による天聖教会の権威向上、そして個人的な復讐心」
「復讐?」
ペトラルカはおもむろにニットの襟を広げて右の肩をはだけた。二の腕の上の方に皮膚を
「たとえケルヴィムの奇跡であっても、やはり万能ではない。完全に失った組織は再生しないし、貰い物の組織は自らがあった通りに復元しようとする。この継ぎ目は消えない。翼みたいに奇跡の作り物にしようとも考えたけど、記念にとっておきたくてね」
ペトラルカは襟を戻して愛おしそうに指の背に唇を当て、それから両手を組み合わせた。よく見ると右手と左手で爪の形が微妙に違っていた。
そうか、天使の再生能力があれば切断された腕同士を瞬時にくっつけることができるし、拒否反応も抑え込める。くっつけるものが何も
「自分から襲っておいて、復讐かい?」
「襲っちゃいないわ。私たちはクルキアトルじゃなかった。別件でただそこにいただけ。それをあの子が勘違いして先手を打つつもりで襲ってきたのよ。酷いもんだったわ」
「ケルヴィムを……」
「でも、まあ安心して。気が済んだというか、整理がついたの。それは他人にやらせることじゃなかったし、今の私の立場でやるべきことでもなかった。今はむしろ受け入れるべきだというあなたの意見にメリットがあると思っているわ」
「なかなかの変わり身だね」
「言ったでしょ。私は頭はよくないのよ。信じやすく、度々迷信に陥ってしまう」
「それだけ自覚的ならそれは謙遜か嫌味さ」
「あら、自覚的でも気づけないことってあるでしょ」
「別件というのが何なのか気になるところだね」ラウラは訊いた。
「確かに、全く黒羽に無関係というわけでもなかったね」ペトラルカは少し考えてから答えた。「そもそも、なぜサンバレノが黒を毛嫌いするのか、という問題もある。最初の黒羽、ラキのことはエトルキアではどう伝えられているのかしら?」
「ラキ……、祖王の使い魔、か。エトワール1世の忠実な下僕として唯一人間に与し、天使の駆逐と建国に貢献した黒翼の天使。そんな具合だね」
「唯一は言いすぎだな。当時のアークエンジェルによる圧政に反感を抱いている天使も少なくなかったようだからね」
「聖書に書いてあるのかい?」
「いや、歴史書よ。この国では流行らないけれど」
「でもみんなラキのことを知っている」
「『ラキ』ではないわね。ゼタの名で聖書の創世記に登場する。もとは全てが天に住む天使だったのに、秘匿された地上をゼタが見ようとしたので神は彼女と彼女を信奉する者たちから翼を奪い人間にしたと。その人間たちが天使の領域である塔を侵略してエトルキアを建てたわけだね。ゼタは神への恨みを込めて終生作り物の黒い翼を身につけていたという。聖書があくまでゼタから天使である権利を剥奪したかったのがよくわかる」ペトラルカは言い終えたところでちょっと可笑しそうにフンッと鼻を鳴らした。
「ざっくりとした歴史のイメージとしては合ってるんだろうけど……」
「まあ、いいじゃない。お互い400年前の出来事を直接目にしたわけではないんだから」
「正論だね。そいつは歴史学が否定すべき正論さ」
「ともかく、ラキが我々の黒嫌い文化の根底にあるわけだ。ただ、エトルキアについた天使だけが黒羽だったというのはちょっと都合がよすぎるでしょう。黒羽だからエトルキアについたのか、それともエトルキアについたから黒羽なのか、どちらかが先だったとは思わない?」
「そうだね、確かに、言われてみれば」ラウラは口の中にコーヒーを入れて少し考えた。「でも、エトルキアについたから黒羽、というのは、どういうことだろうね。もとは白い翼だったという意味かい?」
ペトラルカは頷いた。
「もとより黒羽で、希薄な疎外感から他のアークエンジェルと
「だとするなら、作り物の黒い翼、という聖書もあながち間違いじゃないことになるね」
「純粋に考えれば、染めたということになるのかしら。旗印、敵味方の識別、天使の白に対する黒? それとも、もっと実利的に、エトルキアの黒っぽい島の上での作戦行動、夜間の行動に合わせて、かしら」
「エトルキアの特殊部隊は昔から黒い戦闘服を着てるね。サンバレノに対抗しての黒だと思っていたけど、そっちが先ってこともあるかもしれないね。人間でも色白の兵士は顔を黒く塗ったりする」
「ふふん」ペトラルカは面白そうに喉を鳴らした。
「でも、そうすると、突然変異の黒羽は建国記にも聖書にも無関係にそれ以前から存在しているはずで、ラキとも無関係ということになる。とんだトバッチリじゃないか」
「そう考えるのが自然ね。自然」
「自然?」
「ラキ以前にも突然変異があったというところよ。忌むべき毒として、国家の団結を再確認するための装置として、この国が作ったのでなければ、ね」
ラウラは少しゾッとした。
そうか、今のサンバレノの地域では旧文明以前からゲノム技術が発達していた。だからグリフォンのような生き物をサンバレノが確保しているのだ。人為的に黒い突然変異個体を生み出すことはおそらく不可能ではない。
「もっとも、個体ごとに君は白、君は黒、なんて面倒臭いことをしているわけではないでしょう。ランダムに発現するように仕込んだ、とかね。その作為は世代を超えて現れる。仕込んだ当人のことを誰も憶えていないとしても不思議じゃない」
旧文明の高度な工業技術を信奉するエトルキアの方が迷信的で低開発なサンバレノよりはるかに進歩的だと思っていた。しかしそれは違うのかもしれない。ただ発展の方向性が全然異なるせいでエトルキア的な尺度では測れなかっただけではないか、とラウラは思い始めていた。
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