巨人の井戸
巨人の井戸
魔術師と智天使
サンバレノに来るのは初めてではなかったが、鋭鋒の合間に密集して建つ真っ白な塔群はやはり壮観だった。エトルキアの塔も各地でエクステリアが異なっているが、それらを一括にして対照できそうなほどサンバレノの塔は異質だ。きっと旧文明の建築家たちの中にもあえて主流派との差別化を図ろうとした派閥があったのだろう。
まずエトルキアではこんな山岳部に塔は建っていない。それにレゼ周辺でもここまで塔の密度は高くない。サンバレノの塔は最寄りの塔が5kmも離れていれば孤立した印象になる。要は1基の高さよりも互いの間隔が狭いのだ。まるで束になって天に突き刺さっているかのようだ。
そして1基1基の塔の見かけだ。エトルキアの塔の外壁は比較的黒くわずかに金属的な光沢を持っているが、サンバレノの塔はほとんど真っ白く、素焼きの磁器、あるいは割ったばかりの石灰岩のようなざらっとした肌合いをしていた。それこそ先端が100mも撓るような超強度剛体には見えない。打ったら砕けそうな質感だ。
しかも甲板にも上層〜下層という明確な区分がない。比較的大きな建物が塔の外壁からほとんど直接張り出し、その周りに付随する小建築を置くためのスペースとして皿のような小さな甲板が設けられ、甲板の間は梯子のような細くて急な階段が繋いでいるか、そうでなければ断絶していた。
天使にとって主な移動手段は飛行なのだ。もし広大な平面があれば歩行に頼っていたかもしれないが、塔の上だ。同じコミュニティの中で上下移動が欠かせない。結果的に甲板や建物の玄関ポーチ、あるいは上下移動中の休憩場所として飛び込み台のように細く突き出した構造物が塔のあちこちに見られ、塔の各所へのアクセスポイントとして機能していた。天使たちはそれを「桟橋」もしくは「とまり木」と呼んだ。いずれにしても、歩行だけでは辿り着けない甲板が存在している。人間には優しくない建造物だ。
とはいえ最初に降り立った軍事島は――そう、一見して軍事島と判別できるくらいだったわけで、質感こそ焼き物風だが比較的まともなエトルキア様式だった。サンバレノ様式の塔は中心部に密集した十数基にほぼ限られていた。要するにサンバレノという国の成立は甲板拡張期よりずっと後なのだ。国境はその時すでに完成していた島々の間に引かれたに過ぎない。当然のことだった。
最初の軍事島(名前は教えてもらえなかった)に降りたあと、天聖教徒の迎撃士はバルバルを預かると言った。
サンバレノでは乗り物禁止なのか、と思ったが、違う。自力で飛行する能力がないなら天使とは認めない、というテストだ。ラウラ・クレスティスは理解した。
何しろ国域の端にある島だ。小さな国だが、それでも中心部まではまだ80kmといったところ。天使にとっては苦になる距離ではないのだろう。とはいえラウラの方も自力飛行の練習は積んでいる。飛べない距離ではなかった。
入国の手続きか何か30分ほど待たされたので血中魔素の充電も十分。迎撃士の先導で東向きの桟橋から飛び立った。
風は順風、迎撃士はいくらか高度を上げてゆったり羽ばたいている。高速向きの翼形だが、そもそも翼が大きいのでハヤブサのようなバタバタした動かし方にはならない。ツルやコウノトリに近い静的な飛行だ。従って翼を並べて飛ぶのはさほど苦にならなかった。彼女の翼端の後流に乗ると揚力が高まる。それを体の中心軸に合わせて楽に飛べる位置を探す。浮かんでいる、飛んでいる、と強く感じる。ジェットバイクよりもさらに生々しい空気の感触だった。
1時間ほど飛んでいる間に眼下の地面が迫り上がり、山々のピークが近づいてきた。
「あれが私たちの教会です」迎撃士が振り返った。
中心部の塔群の左手、尾根を1つ隔てたところに3基の塔がまとまっていた。そのうち1基がやや高く、中層のレベルに大きな建物が張り出していた。その建物を下支えするアーチは非常に有機的なデザインで、建物本体の柱などと交わりながらさらに上部に向かって伸び、尖塔やとまり木の一部をなしていた。それはまるで木の幹に括りつけられた鳥の巣箱がそのまま忘れ去られ、木の成長に合わせて枝の根本に飲み込まれてしまったようなありさまだった。
その建物、その塔だけではない。比較的素朴な印象のサンバレノ様式の中にあって、その一画の3基は全体に有機的な意匠が施されていた。つまり、その差がそのまま
迎撃士は巣箱の建物正面の大きな桟橋に着地した。甲板表面は思ったほどざらっぽくない。エトルキア様式の甲板よりむしろ滑らかな質感だ。
巣箱――というより聖堂――の正面は非常に凝った造りで、全体に火炎模様のステンドグラスが施され、三つ口のエントランスはそれぞれランセット型の深い装飾の奥に設けられていた。
その中央で何かが揺れる。
人影?
重そうな白い祭服で体を包み、逆台形の帽子を頭に載せた少女が歩いてくる。背後に10人ほどを付き従えている。お付きたちは整然と2列になって歩いてくる。格好は少女より二回りほど身軽だ。
少女の視線はラウラの爪先あたりに固定されていたが、2mほどの距離で立ち止まったところで少し顔が上がって真正面から目が合った。ズンと体が重くなるようなプレッシャーを感じる。青でも茶でもない、紫色の目だった。
ペトラルカ。姿を見るのは初めてだ。
「ラウラ・クレスティス?」ペトラルカは訊いた。
決して約束を取っていたわけではないし、まして彼女の指示でここに来たわけでもない。どこからどう話が伝わったのだろう?
「ええ」ラウラはとりあえず頷いた。少なくとも人違いではない。
「歓迎しよう!」
重たい祭服のスリットから両腕と2対の翼が現れぴんと伸びていく。見事なシンメトリーだが、一対一でやられるといささかシュールだ。お付きたちも何も見ていないし何も聞いていないといったふうで、拍手ひとつ起こらない。
ペトラルカはとてもゆっくりした動作で手と翼を祭服の下に仕舞い、ラウラの横にいる迎撃士に目を向けた。彼女はいつの間にか跪いていた。
「案内ありがとう。少し休んでから戻りなさい」
迎撃士はお付き数人に付き添われて先に建物の方へ歩いていく。
「行きましょう」とペトラルカ。
お付きの列がイモムシのようにぐるっと回ってついてくる。
聖堂は遠目に見るよりさらに巨大だった。尖塔はおろかエントランスのアーチさえまるで手が届く気がしない。塔という建築物のスケールはどうも人間の感覚を麻痺させる性質がある。
迎撃士たちは屋内に入ってすぐ右手の階段を下りていったが、ペトラルカは聖堂の身廊を直進した。
「皆、もう下がっていい」そう言うとお付きたちは散り散りになって離れていった。各々本来の持ち場があるのだろう。
ペトラルカは内陣の奥の小部屋に入り、帽子と祭服を脱いだ。中はクリーム色のシャツと白いズボンだった。白い、とは思ったが至ってカジュアルな格好だった。部屋もケルヴィムならもっと豪華な広間に住んでいるものだと思っていた。ソファやテーブルは大きいが、壁や調度の設えは極めて質素だ。客間か、と思ったが、それにしては生活感がありすぎる。本やサボテンなどの観葉植物がたくさん置いてあるし、さほど片づけられてもいない。私室だろう。
「ジリファが世話になったわね」とペトラルカ。
「大した手伝いはしていませんよ」
「あなたがいなければインレから逃れるのにもっと手間取ったでしょう」
ペトラルカは自分で紅茶を淹れてカップを用意した。銀の縁飾りのついた薄いカップだった。
「ルフトとのパイプも上手く機能したわ」
「それはただ単に勧めただけで、私のコネじゃありませんね」
「いいえ、それで十分よ。天使というのは奇跡の巧拙だけで裁量が与えられてしまう。私のような頭の固い天使にも難しい判断が任される。そして誰もそれを止めることができない。人の国は違うでしょう。相応の頭を持たない人間は排除される」
「どうですかね、小手先の求心力だけでわからず屋がてっぺんに座ってしまうのは同じじゃありませんか?」
「脱いだら? この部屋では少し暑いでしょう」
「いいえ、だいぶ体が冷えましたからね」
ペトラルカは「ふうん」と少し喉を鳴らし、肩の後ろに出していた第二翼を消滅させた。
「ああ、もう少しはっきり言った方がよかったかしら。この部屋では姿を偽る必要はないわ。ここにいる間ずっとその恰好でいるのも疲れるでしょう?」
思ったより癪に触る返事をしてしまったようだ。ラウラは少し考えてから上着を脱いだ。
「そういうことなら敬語はやめさせてもらおうかね」
ペトラルカは手ずからハンガーを取って上着をラックにかける。
「いいわ。あなたは人間だし、教徒でもないのだから」
「それは結構」
ラウラは安堵した。もしペトラルカがあくまで人間を天使の下に見るような器だったなら、サンバレノに来た意味はなかったかもしれない。
「きちんと翼として機能していて、かつ羽ばたき方も自然。よくできた翼だわ。でも服を脱ぐ時のこなし方はイマイチかしら」
ラウラは自分の左翼の羽根が数本逆立っていたことに気づいて手で撫でつけた。コートを脱ぐ時に引っ掛けてしまっていたようだ。
「背筋の動きを読ませているのさ。決まった動きはいいけど繊細で微妙な動きはできないね」ラウラは説明した。
「事前のプログラムに沿って、入力された操作に決まった動きを返している、ということね」
「その通り」
「インターフェースが見たいわ。構わない?」
「ええ」
ラウラが答えるとペトラルカはぱちんと指を鳴らした。するとラウラの背中でファスナーがすっと下がり、着ていたワンピースが足元にはらりと落ちた。触媒用のハーネスをつけているが、あとは完全に下着姿だ。
「あら? 急激な減量の痕跡が見られるわね」
「いきなり恥ずかしいね」
「謝るわ。思ったより綺麗にはだけちゃったわね」
「……つくづく思うけど、『謝る』というフレーズそのものは謝罪として機能するのかね」ラウラは両手を少しだけ持ち上げた。いまさら隠そうとしても仕方がない。
「なるほど、このバンドで固定して、ああ、この根っこのようなところで筋肉の動きを、ね」
ペトラルカはラウラの背中側に回って興味津々で観察していた。身分の高い人間特有の自分勝手だ。天使も同じか。
「聞いてないね?」
「この触媒は常にあなたの体と一体化しているの?」
「いんや。――コマンド:ディフォーム」
ラウラが唱えると翼は根元の方に収束して板状の形に戻った。髪も黒くなる。
「髪の色も変えていたのね」
「厳密に言うと色じゃないよ。微細構造で反射光の波長を制御している。いわゆる構造色さ」
「では作用しているのはやはり形状なのね」
「そうなるね」
「奇跡というのは基本的に結果を与えるもの。状態を固定するのは不得手なのよ」ペトラルカは第二翼を一瞬だけ出現させ、肩に手を回して指の背で撫でた。「こうして物質を自在に操るのは魔術の羨ましいところだわ」
「だからこそ天使にとって第二対の翼は高位の象徴たりうる」
「その通り」
「どちらかと言うと本当に寒くなってきたよ」
「失礼、座りましょう」
ラウラがしゃがんでワンピースを拾おうとするのとペトラルカが奇跡を使ってワンピースを持ち上げようとしたのがブッキングして、ラウラは目の前に上がってきた襟口に頭を突っ込む形になった。ペトラルカは背中を向けていて気付いていない。
「いきなり客人をすっぽんぽんにするとはね」ラウラは何とか袖を通しながら言った。
「あら、確認が足りなかった? それとも私のも見たい?」
「そういう意味じゃない」
だがラウラはどちらかといえば感心していた。案外ペトラルカが魔術に理解を示しているからだ。天使の大半は魔術を奇跡の下位互換程度にしか捉えていないはずだ。
「ところで、あなたはなぜジリファに手を貸してくれたのかしら」
ラウラはペトラルカの向かいに座ってから質問に答えた。
「いや、ね、ただ、あなたと話がしてみたかったんだよ」
「話」ペトラルカは紅茶に目を落としたままそこだけ繰り返した。
「ケルヴィムならクローディアが奇跡を取り戻す方法にも心当たりがあるんじゃないか、と」
「……でも、結局彼女はギネイスの生命によって奇跡を回復してしまった。結果を知ったあとでここへ来る目的にはならないわね。それとも……魔術院か軍に私とのつながりを見抜かれたのかしら」
「それだけならエトルキアのどこかに隠れていていれば十分だっただろうね」
「では私たちがあなたをエトルキアに売ったと唆されたのかしら」
「ケルヴィムに復讐を仕掛けて見返りが釣り合うとは思えないね」
ペトラルカは目を上げてラウラを見た。
ラウラは続ける。
「彼女が奇跡を取り戻したことで黒羽狩りの好機は失われた。私はそもそもあなたが黒羽狩りをやる意味はないと思っていたよ」
「あなたは彼女が可愛いのね」
「可愛いね。可愛い。でも私はきちんとあなたの利益も考えている」
「ふうん?」
「あなたは天聖教会を国教にしたいんだろう? それなら天使教会のロジックに乗っかるのは悪手だと思うね。人間を聖人に列したのと同じように、黒羽の天使も受容できないのかな」
「私が彼女を擁したら天使たちは酷く憤慨するでしょうね。メシストも含めて」
「はじめのうちは仕方がないだろうね」
「それがなぜ私の利益になるの?」
「ルフトの理念に近づけるだろう? 何らかの形で給油機の借りも返さなきゃならない。そちらさんは今天使教会ともエトルキアとも関係を悪くしてるんだ。まだ逃げ道というほど狭まっちゃいないだろうけど、そこがくっつけば孤立するのはむしろ天使教会の方さ。違うかい?」
ペトラルカはテーブルに置いた自分の手のあたりに視線を落として少し考えた。
「天使教会がエトルキアと手を組むのはありえない。そうね、確かに。でも、あなた、エトルキアの人間よね?」
「そうさ。でも、私も魔術院が嫌いなのさ」
「なぜ?」
「魔術と奇跡は本来対立すべきようなものじゃない」
ペトラルカはもう少し話が続くのを待っていたが、ラウラは今はまだ言葉を抑えておくことにした。
「面白い。いいわ、しばらくここへ泊っていきなさいよ。部屋は用意してあげる」
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