旅路

 ラウラが窓から部屋に戻った時、メルヒオール・ベルノルスが奥の椅子に座っていた。詰め襟の黒いスーツを着てカップとソーサーを手にしている。

 丸テーブルに椅子2脚。広い部屋だ。シャトー・ルナールの中層に不時着して魔術院の建物に運び込まれたあと、気づくとこの部屋に閉じ込められていた。見かけは豪華だが扱われ方は賓客といった感じではない。

「どこに行っていたのかな」メルが訊いた。

「まるで出ちゃいけなかったみたいな言われようだね」ラウラは窓を開けておくことにした。

「鍵がかかっていたはずだが」

「鍵? 転落防止用のストッパーに見えたね。幸い、私でも落下制御くらいは使えるんだよ。心配には及ばない」

 ラウラは自分でカップを出してメルの向かいに座った。メルは先にポットを持ち上げてカップが置かれるのを待っていた。

「やれやれ、客人を追い返すなんて、野暮なことをするものだね」

「客人?」

 ラウラはため息をついた。シラを切るか。

「今カイ・エバートが来ていたろう? 昨日今日と私がレゼに来るのを待っていたようだけど、一向に音沙汰がないものだから心配してくれたのさ」

「何を話したのかね」

「インレから逃げ出した天使を捕らえたと言っていたね」

「奇跡の回復手術に必要だという?」

「うん」

「結果も言っていたかね」

「上手くいったそうだね」

「なるほど」

「まったく、彼らの面倒を見るためにわざわざついてきたのに、一番大事なところで何もできなかった。こんなところに丸2日も閉じ込められているせいでね」

 この男が結果を知らないはずがない。私がどう答えるのかを知りたいのだ、とラウラは察した。


 メルはブロンドのかっちりした髪を手のひらでもって耳の上から後頭部の方へ撫でつけた。脚を組み替える。

「ところで、エクテがゼネラルとラゾワールを脱獄させた際、覚醒剤注射を行ったのを知っているかな」

「いいや。まあ、想像はつくけどね」

「エクテは注射器を残していった。ガワはサンバレノ製だが、中身はネス社の製品に近い組成だった。近い、だ。この意味がわかるかな」

「サンバレノの――あるいは他国のコピー品ということかい?」

 メルはゆっくりと首を振る。

「その線は潰してある」

「では自家調剤かな」

「君の調薬は昔随分見させてもらった。メタンフェタミンの分子構造が君の有機化合物の特徴に合致していたよ。魔素は使わないように気をつけていても、そこまでは気が回らなかったようだね」

「有機構造なんてそんなに個性が出るものかねぇ」

「やはり無頓着か」

「でもさ、彼女は思いつきで覚醒剤を用意したわけじゃないだろう? 本国で準備してくるわけでもなく、私から調達した、と考えるのはちょっと非合理的じゃないかい? それならこの近辺で薬品庫に忍び込む方が彼女にとっては楽さ」

 メルはニヤリとした。

「何も、今回わざわざ君から直接調達したとは思っていないよ。ただね、まだ我々が把握していないところでかの国・・・が君から学んだ製法を確立している可能性はある、と踏んでいるだけでね」

 メルは足元から小さな瓶を取り上げてテーブルに置いた。香水瓶のような多面体で構成された縦長の瓶で、これまた細長いガラスの栓が嵌め込んであった。ラウラがよく知っているものだ――というかラウラの持ち物だ。

「かの国はある意味では能力重視で知や言論を軽視する傾向にある。が、美術に関しては時にこうした優れたものを作り出す。憎い才能だ」メルは言った。

「なかなかいいところさ。私が人間でなかったらもっと観光を楽しめただろうね」

「そう、君のものだ」

「勝手に私の鞄を開けたね?」

「天使たちもまた薬品の組成に気を遣わなかったのか、あるいは協力者を切り捨てる目的であえてその薬を使ったのだろう。どうかな、本当のことを話してみる気にはならないか?」

 ラウラは首を振った。

「私が話せるのは知っていることだけさ。知らないことは話しようがないからね。もとより無関係なものに裏切られただのと言われても動揺のしようがないだろう?」

「果たして、言葉通りならいいが」メルは香水瓶をラウラの方に少し滑らせ、カップの底に紅茶を少し残して席を立った。戸口で給仕を呼んで出ていく。


 入れ替わりに入ってきた給仕――古風なメイド服を着た天使だ――はポットを持ち上げて重さを確かめる。

「君は飲まない方がいいよ」

 給仕は少し手を止めてから「はい」と頷いた。紅茶には消化器系から直接作用する出力魔素が混ぜ込まれていた。さしずめ自白系だろう。抵抗手段の用意がなければ危険な飲み物だ。

「とはいえ、他人を操ろうというのに飲み薬かい。ちょっと原始的だね。感覚に働きかけて神経物質の分泌を促す方がよほどスマートさ。ねぇ?」

「感覚、ですか」

「うん。視覚でも嗅覚でもいい。例えば――」ラウラは杖を掲げた。「汝、私の面前にあるものよ、従順な心を露わにしなさい」

 給仕の目の中に赤い光が点滅する。

「簡単な催眠だよ。さて、私の言うとおりにしてもらえるかな」

「何かしたのですか? 少し眩しかったような……」給仕は訝しがりながらも洗い物を続けた。

「いい魔術というのはかけられた方にも違和感がないものさ。さて、私の頼みだけど」

「はい」

「バルバルがどこにあるのか知っているかい?」

「バルバル?」

「少し形の違うジェットバイクが1台あっただろう?」

 給仕は「そういえば」といったふうにちょっと口を開け、「逃げるつもりですか?」と訊いた。

「そう思われるのも仕方がないね。でもちょっと出かけてくるだけさ」

「南館の広場に置かれたままになっているはずです」

「嘘は言ってないね」

「はい」

「連れて行ってもらえるかい?」

 給仕は食器を干して手を拭った。

 ラウラはベッドの上に広げていた持ち物を鞄に詰め、給仕に続いて部屋を出た。階段を降り、裏手から外に出る。真っ昼間のせいか人気はほぼない。万一見られても給仕と一緒なら良い訳が利くだろう。


 東館から南館までは500mほど。バルバルはジェットバイクの発着場の隅に置かれていた。きちんと正立に戻されているが、風防のガラスは割れてなくなっていた。

 ラウラはシートを上げてトランクを確かめた。一抱えほどのブリーフケースが寝かせてある。

「あったあった。ここに入れたままにしておいて正解だったね」

「何ですか?」

「一種の触媒だよ」

「どんな……」

 ラウラはバルバルのイグニッションを踏み込んでエンジンを回した。燃料は残り1/5程度。隣の島までなら持つだろう。

「さぁて、これで君の教えてくれたことが本当だとわかった。君の名誉のためにもここで眠ってもらった方がいいだろう」ラウラは草地に入りながら鞄の中から例の香水瓶を取り出した。だが今度のものは中身が入っている。「即効性の睡眠導入剤さ。ほとんど気絶するように眠ることができる。座ってから嗅いでごらん」

「その前に訊いておきたいのですが」

「なんだい?」

「あなたはあの部屋から簡単に抜け出すことができた。なぜもっと早くそうしなかったのですか」

「疑われているからさ。抜け出してあの2人のところに行ったら迷惑がかかる。全て決着がついたから今こうしているのさ」

 給仕は頷いて瓶の栓を抜き、鼻を近づける。表情が弛緩し草の上にバタンと倒れた。

「布団の上でなくてすまないね」

 ラウラは香水瓶を閉めて鞄に戻した。いささか遠くなった東館を見上げる。メルは見ているだろうか。

 髪をコートの中に入れ、ヘルメットを被りサングラスをかける。バルバルに跨り、主翼展張スイッチを切り替え。ロックランプ、点。スロットルを開いて滑走、ふわりと空中に飛び出す。足に踏ん張りがなくなった。浮いている。真下3km先に地表がある。なかなかスリリングだ。

 しかしそんなことより風防がないので風がモロに顔に当たる。コートの襟を立てて鼻まで覆った。

 度々振り返るが、追っ手は来ない。こちらも決して隠れてコソコソやってるわけじゃない。どうやら逃がすことにしたようだ。

「まったく、今になって泳がせるつもりかい」


 なにしろ風が冷たい。スピードを上げずに30分ほどかけて隣の島まで飛び、飛行場で燃料を買って(といっても金額の中身は全部設備使用料だが)さらに1時間かけてハブ空港のフェスタルまで飛んだ。

 カイとクローディアには申し訳ないけど、ここに残って魔術院からの疑いに巻き込むのもかわいそうだ。それにメルダース夫妻がついていれば多少滞在が長引いてもきちんと面倒を見てもらえるだろう。これも先ほどカイと話したことだった。今ラウラは1人で彼らから離れなければならなかった。


 フェスタル港ともなると中層の大飛行場は発着が多く誘導なしで近づくのは危ない。下層の小型機用飛行場に降りて貨物エレベーターでバルバルを中層まで運び上げた。

 港湾事務局に入って人間と荷物を一緒に運んでくれる便を探した。当然手始めにカウンターの事務方に話しかけなければならない。小口貨物でしかも人間付きという、通常なら取り合ってもらえないような頼みをするのだから、こういう時はできるだけ古株で物知りそうなスタッフに当たるのが得策だ。倍くらい歳上だろうか、小柄な女性で、「少し待っていてもらえます?」と言って応接ブースに通し、お茶を1杯出してくれた。

 30分ほどして迎えに来たのは海賊船の船長みたいにモジャモジャのあごひげを蓄えた男で、毛色が薄いので年配に見えたが正味40代だろう。昔の航空会社の制服なのか、かなり古めかしいダブルのジャケットを着込んでいた。

「シュルメールまで飛びたいってのは」

 シュルメールというのは東部エトルキアの南に位置する都市だ。サンバレノ国境地帯では最も人口が多い。

「ああ、私だね。本当だよ」ラウラは答えた。

「まずカネの話をしちまおう。荷物ってのはジェットバイクだけか」

「ああ、あとは抱えられるものだけだね」

「いいだろう。3万だ。出せるか」

 3万エクス。旅客便なら相場の2倍だ。だが荷物を勘定に入れれば妥当な範囲か。お願いする立場で贅沢は言えない。

「2万5000」ラウラは値切った。言い値で受けて足元を見られるのも困る。

「2万8000だ」

「それでいい」ラウラはテーブルにお札を重ねた。それを差し出す前に「フライトプランを見せてもらえるかな」と訊いておく。

 船長は4つ折りの書類を胸ポケットから出して広げた。使用機材、積載燃料、そしてきちんとシュルメール行きと書いてある。ラウラは札束を持って船長に手渡した。

「離陸は14時ジャストだ。30分前になったら積み込んでやる」


 まだ3時間以上ある。ラウラは空港のラウンジで食事をとり、モールを歩き回って白基調の洋服を何着か買い、その代わりに持っていた服をいくらか引き取ってもらった。

 30分前になったら、と言われたのでよほど大荷物なのかと思ったが、船長の輸送機の荷室にはスクラップのコンテナが2つだけ、ほぼ半分までがらんどうだった。なんだ、見栄か。

 機体はスフェンダムより旧式のやつで、胴体断面がより真円に近かった。機体規模も小さい。何より、綺麗に白く塗装しているものの、近くで見ると外板がシワまみれで、内側はあちこちに錆が浮いていた。

 乗員は船長の他に副操縦士、航法士、機関士の計4人で、各自仕事がない時に休めるように操縦室の上に仮眠室が設けられていた。フライトの間ラウラはそこで横になって目を瞑ったり、荷室を歩き回ったりして時間を潰した。いずれにしろあまりに窓が少ないせいで内省的活動に始終する他ないのだ。旅客機のような気の利いたオーディオが用意されているわけでもなかった。


 巡航速度が旅客機より遅いのもあって所要約6時間、シュルメール到着は20時を回っていた。空港の案内所も閉まっていたので歩いてホテルを探した。それなりの街だが観光地というわけでもない。宿は限られている。空きがあるかどうかは利用者の波次第だったはずだ。1軒目は満室だったが2軒目は空きがあった。もはや格式は首都圏と比較するまでもないが、内装・設備はビジネスホテルとしては及第点だった。

 浴室の壁にはかなり大判の姿見が張られていた。手入れがいいようで、湯気で曇らないうちは全身がくっきり映し出される。

「天使で通すには少しばかり太すぎるね」ラウラは腰に手を当てて背中を映しながら独り言を言った。

 それは数日前から何となく感じていたことではあったものの、真っ向からサンバレノに行くと決めた今となってはもはや放ってはおけない問題だった。

 ラウラは髪を乾かしながら鞄を漁って香水瓶より二回りほど大きなボトルを取り出した。いわゆる「痩せ薬」だ。原始的・・・な飲み薬で、強烈な脂肪燃焼効果がある反面、肉体的にかなり苦痛を伴うので正直言ってあまり飲みたいものではなかった。

 しかしこの1本が自分の運命を分けるかもしれない。覚悟しないわけにはいかなかった。ぐびっと飲み干し、部屋のエアコンを冷房の最低温度まで下げる。水をなみなみと注いだポットをサイドボードに置き、ベッドに広げたバスタオルを2重に敷いてその上に仰向けになった。髪は結んで横に流しておく。


 間もなく眠気を上回る暑さが襲ってきた。体内に入った魔素が貪るように脂肪の分解を始める。その活動が全身で同時に進行していく。その熱量は尋常なものではない。

 すぐに頭がぼーっとして思考能力が薄弱になり、脳細胞が死滅する寸前まで加熱されていく。全身から汗が流れ出し、肺は息を大きくして熱交換に努めている。体が水を欲しがる。意識がそれに従ってポットに手を伸ばす。少し体を動かしただけで筋肉が生んだ余計な熱が苦しみになってのしかかる。ひどい熱病に冒されているのと同じだった。


 結局、眠っているようでありながら頭も体も全く休まらない一晩だった。朝5時頃にようやく熱が下がってそれから40分ほどは眠れたが、今度は寒さで目が覚めた。体の表面が氷のようだった。汗が冷房で冷やされたせいだ。ひどい腹痛を感じた。早く体を温めなければ。

 ラウラは浴室に入ってシャワーを温めながら自分の体型を確認した。腰回りから膝にかけてが目に見えて細くなっている。が、急激に痩せたせいで余った皮膚がみっともなく弛んでいた。とてもじゃないが20代の体じゃない。

「こいつは今後の努力次第だね」

 皮膚に関しては魔術でどうこうするのは難しい。しばらくすれば中身に合った張り具合に落ち着いてくるだろう。幸い胸に関しては思ったほど萎みも垂れもしなかった。


 国境を越える準備は整った。

 すっかり濡れタオルになったバスタオルを絞って洗濯かごに投げ込み、湿ったシーツを剥がして掛け布団をバサバサとはたく。

 構造色魔素を混ぜ込んだクリームを髪に馴染ませ、バルバルのトランクに隠しておいたブリーフケースを開けて中に入っていたハーネスを身につける。ベルトを締め付ける時に自分の体が驚くほど細くなっているのがわかった。

 ケースの中のメインは2つの白い板状の物体で、ハーネスの背中にはそれを固定するためのラックがついている。しっかりと固定し、その上からシャツとコートを着る。いずれも昨日空港で買ったものだ。丈が短めのものを選んだのにはきちんと理由がある。


 ラウラは荷物をまとめ、フロントの夜番と早番が交代したタイミングを狙ってチェックアウトした。見かけの変化を怪しまれたくなかった。

 バルバルに燃料を入れ、東に向かって飛び立つ。霞む空気の向こうに連なる山々の白いピークがうっすらと浮かび上がる。あれがサンバレノの中心部だ。空にも地表にも国境など見えない。よくもこれで領土争いができるものだ。この辺りだな、と思ったところでラウラは杖を取り出した。数日前の実戦で調整は済ませてある。

「エンジェライズ」ラウラは唱えた。触媒に覚えさせておいたスペルだ。

 背中につけた触媒がシャツの裾から突き出して翼の骨格を形成し、そこから枝葉が茂るかのように羽根の1本1本が伸び、繊維の1本1本が伸びていく。それとともに根本側でも触媒が背中に張り付き、筋肉の配置に沿って根を伸ばしていく。筋電を読み取るためのインターフェースになる。

 同時に髪の上では構造色魔素が光を全反射する間隔で立ち上がり、見かけの髪色を白に染めていく。ラウラの姿は白い髪と翼を持った天使そのものに変わっていた。


 間もなくサンバレノ側の最寄りの塔から小さな点が飛び上がり、天に向かって真っ直ぐに白い煙を引いて上昇してきた。サンバレノにも機械化空軍はあるが、飛行機にしては小さすぎる。おそらくこちらの大きさとスピードに合わせて天使が生身で迎撃に上がったのだろう。煙はジェットバイクの類だ。垂直上昇では天使もジェットエンジンのパワーには到底敵わない。

 ラウラより少し高い高度を取った天使は斜め上方から刺すように接近してきた。2人。どちらも高速飛行向きの先細りの翼をしている。

 ラウラはヘルメットを外して膝のラックにかけ、翼を広げた。動作に問題はない。風を受けたせいで飛行が少し乱れた。

「何用か。所属を述べられよ!」横についた1人が叫んだ。生身なのでどうしても生声になる。

「エトルキアより逃れてきた。天聖教会のペトラルカにお目通し願いたい」ラウラも答えた。

「……ラウラ・クレスティスか?」迎撃士は訊いた。

 ラウラは訝しんだ。話が伝わっているのか、それとも漏れていると取るべきなのか。

「私も天聖教徒メシストだ」迎撃士は胸に手を当てた。純粋な誇りが垣間見える言動だった。

 いずれにしてもここで逆らったところで埒が明かない。ペトラルカはこちらの行動をどこかから見ているのか、少なくとも読み切った上でアプローチしてきたのだと思っておこう。ケルディムは侮れない存在だ。

「案内を頼む」ラウラは答えるとともに、短く振り返ってエトルキアの景色に別れを告げた。

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