見えざる天使

 夕刻、エトルキア首都都市群東端、工業島フェスタル。東部とを結ぶ大洋航路の一大拠点であり、大小の民間貨物機が24時間ひっきりなしに発着している。

 また1機、東部から飛来したスフェンダムが滑走を終え、誘導路を抜けて広大な駐機場の一角に停止する。すぐさまコンテナトレインを曳いたタグカーが走り寄り、開いたカーゴドアに横付けする。機内からは貨物室床面のコンベアに沿って大きなコンテナが続々と吐き出される。作業員たちは荷物の扱いに細心の注意を払っている。破損や誤配はもってのほかだが、スピード勝負でもある。それ以外のことを気にかけている暇はない。

 そう、たとえ密航者がいても目につかない限り彼らは気にも留めない。


 ふとカーゴドアの隅から何かが外に這い出し、機体の東側に伸びた陰の中に飛び込んだ。夕方の長く大きな影と低い太陽の幻惑は肉眼の監視能力を大幅に低下させる。

 何か・・は陰を辿りながらスフェンダムの翼の上に飛び乗り、主翼の端から端まで駆け抜けて隣の飛行機の翼上に飛び移った。

 今度は貨客混載機らしく、胴体の片側にボーディングブリッジが接続していた。何か・・はそれに目をつけてブリッジの上に移り、そこから塔本体まで一気に距離を詰めた。上を目指しているようだ。あとは塔外壁の構造物を辿って上昇していけばよい。東側の濃い影の中では全てが闇の中に沈んでいて動くものも目立たない。


 何か・・は恐るべき俊敏さで外壁を駆け上がり、ものの5分ほどで塔の先端に到達した。

 塔の先端ではさすがに日が当たる。何か・・の姿もはっきりと太陽に照らし出された。それは天使だった。ミディアムショートの薄茶の髪、天聖教会の黒い外征服。小柄でいかにも利発そうな容姿をしている。彼女は西日に目を細め、懐から楕円形の眼鏡を取り出して耳にかけた。いや、レンズは確かに透明だが、状況からすればサングラスだろうか。彼女はなお額に手を翳して目を細めたまま西側に広がる景色を眺めた。首都都市群の塔が林立し、その1本1本から長い影がくっきりと伸びている。

「首都っていうのはこういう密度なのね」と彼女は呟く。「しかし、黒い」

 彼女はひとしきり眺めたあと、体の重心を前に倒して翼を広げた。翼は単色ではなく、残雪のような白と茶の斑模様だ。猛禽のような先端の広がった形。降下の勢いを使って西へ滑空する。隣の塔まで40㎞もない。夕風も背中を押している。ほとんどひとっ飛びという感覚のようだ。


 目指した居住島の最下層と中下層では仕事を終えた人間たちが中心街に集まったりトラムに乗って家路を急いだりしていた。天使は人気の疎らになった中層甲板の裏をめがけ、半アーチの構造材に飛びついた。肉抜き穴がちょうどいい足場になる。近くで休んでいたハトたちが驚いて一斉に飛び立った。

 にわかに足元がざわめく。天使を見つけた人間たちが騒いでいるようだ。

「おーい、降りてこいよ」

「逃げた捕虜じゃないか」

 そんな声が聞こえるような、聞こえないような。

 天使は「理解に苦しむ」といった感じで首を傾げたあと、いかにも焦ったふうに再び飛び立った。来た道を引き返す。今度は初めから水平飛行、しかも向かい風。スピードは出ない。

 

 天使の左手からエンジン音。ローターがドタドタと空気を叩くヘリコプター特有の音だ。天使は首を巡らせて方角を確かめた。

「来てくれたね」

 2分ほどで機体の形がくっきりと見えるところまで近づいてきた。カストヘリオス・メロ。全長20m弱、側面にドアのついた汎用ヘリだ。ダークグレイの塗装にエトルキアの国籍マーク。空軍機で間違いない。天使は羽ばたきを増やして加速、フラムスフィアまで高度を下げる。

「本気で逃げてるなら、こうでしょ」

 ヘリコプターはそれでも追ってくる。相対距離100m。右舷側面のドアが開き、フルフェイスのガスマスクをつけた兵士の顔が覗いた。その手に握られているのは捕獲用のネットランチャー――ではない。機体のしっかりした銃架に据え付けられた機関砲だ。

 砲口に十字の炎が光り、曳光弾の軌跡が周囲を掠める。

 何の勧告もなければ、投降の意思表示をする暇さえ与えられなかった。

「いきなり撃ってくるなんて、節操のない……」天使はロールして高度を下げながらぼやいた。

 ローブの下からP676カービンライフルを取り出し、ヘリコプターの腹の下に潜り込んで背面で連射。放たれた銃弾は底板装甲の表面をわずかに抉って跳ねる。ほとんど塗装を剥がしただけだ。

「7ミリじゃ効かないか」

 ヘリは左に旋回して回避機動に入る。

 天使はヘリの背後に回り、ライフルをローブの下に戻して姿を消した。

 ――雲もない。隠れたわけではない。大空のど真ん中で突如消失したのだ。


 ヘリがぐるりと旋回を終え、今度は左舷側のガンナーが天使の姿を探す。

 見えた。

 天使は消失点から100mほど離れたところを依然東へ飛んでいた。

 ガンナーは照準を合わせ、予測進路に偏差を取って発射ボタンを押す。曳光弾がしっかりとローブに突き刺さり、翼を貫く。しかし羽根も散らない。血も噴き出さない。

 そう、それは天使そのものではない。天使の光学的な「像」に過ぎなかった。

 ガンナーは銃口を巡らせて空を探した。だがもはやどこを見ても天使の姿はない。機体の外側には、どこにも。

 天使はヘリのキャビンの中に立っていた。左手に構えた拳銃を左舷のガンナーの首に突き付け、右腕に抱えたライフルの銃口を右舷のガンナーに向けていた。

 同時に撃つ。拳銃は1発、正確に狙いのつけられないライフルは連射。2人の血液が機外に飛び散る。右舷のガンナーは撃たれた衝撃で機外に放り出され、左舷のガンナーも意識を失って座席からずり落ち、そのまま外へ落ちていった。


 ヘリの乗員は4人。異変に気付いた2人のパイロットが振り向く。片方はすでに拳銃を構えていた。

 天使は一度ライフルを向けたが、機体の内側で銃弾が跳ねると危ないと踏んだらしい、飛び込み前転でパイロット席の間に割り込みながら右手に拳銃を持ち替えて左右を交互に撃った。左右の窓が血でべったりと汚れる。

 2人とも明らかに即死だったが、天使は片方の手に握られた拳銃を叩き落としてキャビンの方へ蹴り出した。パイロットの手を操縦桿から外し、オートコンソールの高度維持ボタンを押す。手慣れている。

「姿を消したとか、分身したとか、そういう報告が上がるのは面倒だから。先に手を出したのはそちらだし、文句はないでしょう」天使はそう言いつつパイロットシートの肘掛けに寄りかかって拳銃をホルダーに戻した。こちらはP490で、ライフルともにエトルキア製。あくまでエトルキア国内で手に入れた火器を使った、という設定にしておかなければならないらしい。

「あっ、痛い?」

 天使は肩の後ろに手を回した。指先に血が付く。自分の血だった。そう、天使は前転で避けたつもりだったが、まだパイロットが構えた拳銃の弾道に掠っていたのだ。

「ああ、向いてない……」

 天使は溜息をついた。止血ヘモスタシスの術式をかけ、傷口を触って出来を確かめてから腰を上げた。

 オートコントールを全て切ってからキャビン横の開口部に立つ。ヘリはここまで独りでに直線飛行を続けていたが、徐々に高度を下げつつあった。

「捕まえてもらうのはだめね。正攻法で忍び込むしかない、か」天使はそう呟いて空に飛び出した。

「待っててね、キアラ」

 また姿を消す術式を使ったのだろう、天使の姿はもうどこにも見えなかった。

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