エンド・オブ・モラトリアム

「ラーフュール!」

 カイは杖を構えたまま甲板の外側に向かって走り込む。

 杖の先端から火炎放射のような赤い光線が迸り、ヴィカの目の前で人の背丈を超える大きな火球に変わった。

 ヴィカも小声で何かを唱える。握った携杖から火球の陽炎を突き抜けて火線が走り、カイの足元を撃ち抜いた。

 カイはそれを避けた拍子にバランスを崩して甲板に転がった。

 倒れたまま「フュール!」と叫ぶ。

 ヴィカの周りにいくつも小さな火球が生まれ、破裂して消えていく。

 ヴィカはそれをするすると躱して30mほどの距離を一気に詰め、起き上がろうとしていたカイの頭を膝で押さえつけて首筋に携杖を突きつけた。

 カイは横目でどうにかその杖の先を見て息を飲んだ。


「距離の調節が甘い」ヴィカはそう言って拘束を解いた。立ち上がってズボンを払い、携杖をホルダーに戻す。

 ヴィカは本気ではない。恰好も革ジャンにジーパンの普段着だし、何なら髪すら結んでいなかった。

「あれじゃ避けなくても避けられる。全然当たってない。勝手に疲れてるだけじゃないか」

「そう言ったって、咄嗟に設定を変えられるものじゃないでしょ」カイは仰向けになって答えた。

「パターンを覚えさせて詠み分けるんだよ。どう詠めば何が出るか、あとは感覚だ」

「そんなぁ」

 ヴィカはカイを引っ張り上げて立たせる。カイはもう汗だくだった。腕を擦り剥かないようにジャケットを着ているのもあるだろうけど、とにかく息が上がっていた。ヴィカとは対照的だ。

 ただ気力ではカイが勝っているようで、

「もう一本」

「まだ?」

 という具合で稽古が続いていた。 


「戦闘用に教えたわけじゃないんだけどね」とラウラ

 クローディアとラウラは飛行場の端で2人の稽古を観戦していた。最下層の飛行場ならカイの家の目の前だし、開けていて運動には都合がいい。何より上に甲板が重なっているので大きな音を出しても響かない。

 嵐からひと月経ってカイの魔術もかなりサマになったと思う。でもまだ火の系統しか使っていないし、防御系の技も全然覚えていない。ヴィカに言わせると「実戦レベルには程遠い」。まあ、その「レベル」というのが一般の兵士基準なのか特殊部隊基準なのかはわからないけど。


 2人が魔術の応酬を始めると飛行場の周りにツバメの群れが降下してきて地面を掠めるように飛び回っていた。驚いて草陰から飛び出した虫を狙っているのだ。

 塔の中にコロニーを作っているイワツバメとはまた別の種類のツバメらしいツバメで、ここ数週で見かける数が増えてきた。どこか南の島から繁殖のために渡ってくるようだ。

 塔の上にはきちんと季節があるんだな、と思う。


 ラウラはクローディアを椅子に座らせて髪を梳いていた。ブラシで頭を撫でられたりするのは気分がよかった。

「最初に会った時はもういくらか短かったね」

 いくらか伸びたな、とクローディアにも自覚があった。

「切ってあげようか?」

「ううん、このままでいい」

 ヴィカやラウラの髪を見ていると、長いのも綺麗だな、と思えた。タールベルグに来る前は手入れの面倒しか考えていなかったけど、塔の上の生活ならそれくらいさほど負担にはならなそうだった。

「翼の方もだいぶ戻ったね。この間帰ってきた時はバッサリ切られてたんで驚いたけどね」

 ラウラは翼の肘関節を持ち上げた。そうすると健の連動で翼端が簡単に大きく広がるのを知っているのだ。

「切れると生え変わるのかい?」

「うーん、あくまで季節的なものだと思うけど」

「風切り羽もかね?」

「もし夏秋だったら長いこと短いまんまだったと思う」

「しかし新しい羽根は綺麗だねぇ。艶が違うよ」

 まだ完全に換羽が終わったわけじゃない。でもネーブルハイムのあとの状態とはまるで違うし、なんならそれ以前の状態と比べてもまだ今の方が上等かもしれなかった。

 ラウラは抜けた風切り羽を喜んで持っていった。「こんなに大きな羽根はカラスには生えてないねえ」といった具合。

 何に使うのだろう? 机の上を掃く手箒にでもするのだろうか。でも一番しっくりくるラウラのイメージはもらった羽根を大釜に放り込んで紫色のスープを煮込んでいる姿だった。自分の体の一部だと思うとちょっと鳥肌が走った。もちろんただのイメージであって事実ではない。そんな気配すらない。


十…十…十…十…十


 駐留部隊の指揮官はきちんと約束を果たすタイプの人間だった。

 だいたい1週間後に発電機の外殻ただそれだけを積んだ軍のチャーター機が飛んできて、すぐに島の工員総出で基底部の修復にかかった。地表で作業するための準備は万全に整えてあったし、ハーネスなどラペリング用の装備もかなり数が揃っていた。大人数で一斉に降下するのはなかなかエキサイティングで、同じ景色でも外の天気がいいだけでこんなにも気の持ちようが変わるんだな、と感じた。


 途中でイワツバメのコロニーを通り抜けたけど、彼らは依然同じ場所で営巣していた。

 今回の嵐でさすがに外壁に刺さったパイプをそのままにしておくのはリスキーだということがわかったので、通風口の周りを加工してイワツバメがギリギリ通り抜けられる程度の穴をエアロックの上に開けておくことにした。それなりに高度があるし小さな穴なので外気の流入も許容範囲。塔にとっても問題ないだろうというボスの判断だった。新しい通り道が出来上がるとイワツバメたちは心なしか嬉しそうに活き活きと塔の中と外を出入りしていた。


 カイは仕事と魔術の稽古の他にナイブスの修復にも精を出していた。クローディアとの衝突、その後の不時着で出火したせいでエンジンのオーバーホールとプラグやシールパッキンの全交換が必要になっていた。要するに部品レベルまで分解していたのだ。それだけでも十分1ヶ月を費やすのにふさわしい作業量に思えたけれど、カイはひとつ新しい改造を施していた。

「見てごらんよ」

 中層の格納庫で久しぶりにナイブスを見た時、率直に「ライオンみたいだな」と思った。

 ナイブスは推進式にプロペラを装備している。つまり胴体の最後部にプロペラがあるのだけど、胴体の上、そのプロペラの前方を覆う形で半円錐形のざるのようなものが取り付けられていたのだ。実際の笊に使うにはさすがに目が大きすぎる。それでも人間くらいのものならぎりぎり引っかかりそうなルーバーだった。

「飛行中に乗り降りするとなると真後ろにプロペラがあるのは恐いでしょ」カイは誇らしげに説明した。

「私のために?」

「まあ、そんなところ」

「でもナイブスはシングルシートでしょ」

「コクピットの後ろは色々詰まってるから、前にスライドドアをつけたんだ。ちょっと小さいけど椅子も用意した」

 カイはコクピットの下に引っ掛けた梯子を上り、キャノピーに足をかけてクローディアを引き上げた。

 長い機首の上面に開いた四角い穴を覗き込むと骨組みと配線が剥き出しの内部にちょこんとオレンジ色の座面が据え付けられていた。

 小柄なクローディアでも肩を狭めないと入り込めないくらいの空間だけど、よく考えたらベレットもプロストレーターも同じようなもので、むしろ専用の出入り口が確保されているだけ優遇されているのかもしれない。


 ナイブスが飛べる状態になるとカイは一度テストフライトで機体の調子を確かめ、2度目のフライトでクローディアを乗せてフォート・アイゼンまで飛んだ。

 実際機首の席に収まってみると、座席もまるでお風呂の椅子みたいで、足の間には前脚を下ろすためのモーターとリンケージがぎっしり詰まっていた。左右には小さな窓をつけてもらっていたけど、それで満足に外が見えるわけでもないし、じっと縮こまっているとまるで自分が飛行機の一部になってしまったみたいな感じがした。

 アイゼンの上空に着くとカイはエンジンパワーを落とした。手元を見たわけじゃない。音と振動でわかった。

「200キロまで下がった」とカイ。

 どうにか振り返ると計器盤の隙間から彼の目が覗いていた。

 スライドハッチを開いて外に出る。把手とってに掴まって足元を見ると、爪先のすぐ下にコクピットのフロントガラスがあり、その向こうに笊状のルーバーが見えた。当たったら痛そうだけどそれでもプロペラよりはマシだろう。

 翼を開いて揚力をつけ、一気に機体から離れる。空が開け、眼下に赤っぽい大地とまばらな雲が広がった。アイゼンはうっすらとしたコントラストの中に見えた。構造物として残っているのは根本から500mほどの高さまでで、あとの破片は塔の東側2km程度の範囲にドスドスと散らばっていた。

 根本の方は上から見ると塔の断面図そのものだった。ドーナツ状の内部空間、分厚い外壁。

 タールベルグで嫌というほど見た吹き抜けのシャフトに強い太陽光が当たってトラスや層状の構造が顕わになっていた。太陽の高くなる夏場には基底部まで光が入るだろう。まるで井戸だった。


 ナイブスが近づいてきて翼を振った。コクピットを見るとカイが機首を指差している。戻ってこいということらしい。ゆっくり近づき、ナイブスに追いつかれるような形でランデブー、胴体の中に滑り込む。

「仲間が来る。無線で声が聞こえた」カイが大声で言った。

 しばらく開けたままにしたハッチから顔を出して見渡していると、南の方から黒い点が3つ近づいてきた。いずれも細い機首にプロペラのある液冷の単発機、レーサーだ。形もカラーリングも思い思いで統一感のかけらもない。

「カイ、すごいな、そいつ直ったのかよ」

「あ、でもよ、なんだその……シャンプーハットみたいなカバーは。そんなものつけてたらスピード出ねーだろ」

「プロペラが恐いんじゃないか?」

 ゲラゲラ。

 そういえば無線が聞こえた。クローディアはヘッドセットをつけていない。スピーカーに繋いでくれたようだ。

「うるせー」カイは悪態をついて答えた。「飛んでる間に外に出るには必要だろ」

 スピーカーが笑い声で割れた。

「ウケる。曲技飛行士に転向か?」


「おい、黙れバカ野郎。レーダー警報だ」1人が言った。

 すると全員氷漬けにされたみたいにすっと押し黙った。

「空軍?」クローディアは振り返って訊いた。

 カイは計器盤の隙間から頷いた。

「まだ探知だ。遠い。高度もかなり高い」と続報。声の主の機体には警報装置が積んであるらしい。

 しばらくすると抜けるような晴天に2すじの飛行機雲が現れた。

「2機か。パトロールの戦闘機だな」

 レーサーたちは各々スピードを保ったまま旋回して様子を窺っていた。

「こんだけ堂々と飛んでるのになんで襲ってこない?」

「アイゼンが崩れた途端に用無しってか。なんか大事なもんでも隠してたのかよ」

「どうせ気まぐれだろ」

「おーい空軍のイヌッコロ、聞こえてんだろ? 不届き者のレース狂はここだぜ、かかってこいよ!」

「おいバカやめろ」

 散々挑発したものの結局戦闘機はそのまま通り過ぎていった。まるで卑小な生き物の世界を見下ろすドラゴンみたいに無関心だった。

 タールベルグにいるアネモスだったら気まずいな、と思ったけど、駐留部隊はスクランブルが主でパトロールは任務外だったはずだ。それを思い出して少しホッとした。逃げ込める閉所もないこんなところでジェット戦闘機に襲われたらひとたまりもないはずなのに、レーサーというのは本当に命知らずな人種だ。


十…十…十…十…十


 20番くらいも稽古をやってカイは起き上がれないくらいへとへとになっていた。一方のヴィカは涼しい顔で息さえ切らしていない。座布団みたいにくたくたのカイを引きずって連れてきた。

 クローディアはボトルに作っておいたスポドリをカランカランとかき混ぜて2人に差し出した。

 カイはともかく、ヴィカも案外くびぐびと飲んで一気に半分くらい開けていた。

「そういえば肺の調子もかなり戻ったんじゃないか? それだけ息が上がっても平気そうじゃないか」ヴィカは甲板の段に腰を下ろしてカイに訊いた。

「どこが、大丈夫そうに、見えるのさ」カイはまだ四つん這いだった。

「肺珠を飲ませてるのか?」今度はクローディアに訊いた。

「うん。だいたい毎朝」

「それが効いているわけだ」


 ヴィカは意味深にクローディアの顔を見た。ちょっと目を向けたにしては長すぎる間だった。

 それからポケットに手を入れ、紙の封筒を取り出した。軍の電報用紙だ。

「奇跡の件、調査結果が出た」

 クローディアは封筒を受け取った。

「空軍医科大学? ……バカンスだって言ってたのに」

「違う違う。本来はあの新しい指揮官が渡すべきものなんだよ。いいじゃないか、ついでなんだ」

「でも電報を渡されるような距離感で生活してるわけでしょ?」

「開けてみなよ」

 クローディアは仕方なく折り目を開いて中身の文章を読んだ。カイも体を起こして話を聞こうとしていた。

「『天使様、本学としては貴方の治療に血液脱換だっかんが有効な手段になるものと信じます。どうかこの知らせを頼ってシャトー・ルナールまでいらしてください。――イル・ド・ラン研究室』」

「おやおや、魔術院まで来いと言ってるのかい」ラウラが後ろから電報を覗き込んだ。長い髪がクローディアの頬にかかった。

「魔術院? 医科大学でしょ?」

「同じ島にあるんだよ。院も大学も権威はあるけど人口はさほどのものじゃあないからね」

「シャトー・ルナール」

「そう。それが島の名前さ」

「好都合だ。どうせ私もインレに戻る。連れていってやってもいい」とヴィカ。

 クローディアは翼を前に出して伸ばした。翼端まで新しい綺麗な羽根が生え揃っている。おかげで羽ばたきの揚力も十分強くなっていた。

 そう、ネーブルハイムのあとタールベルグに戻ったのは翼の回復を待つためだった。奇跡も使えない、飛行もままならないではエトルキアの内地で身を守れるか不安だった。

 飛行能力は戻った。もう潮時なんじゃないか?

 棚上げにしていた問題が目の前に落ちてきたような気分だった。

 気乗りするわけじゃない。でもするべきことは見えている。


「行くつもりだね」とラウラ。

「いけないと思う?」

「それはそうさ。何も反対するわけじゃあない。でも何しろエトルキアの中央は天使が堂々と出歩けるような文化圏ではないからねえ。きっと気分を悪くすることがあると思うよ」

「さあ、どうする」とヴィカ。

 クローディアはもう少し考えてからカイの顔を見た。カイは目を合わせて頷いた。

「俺も一緒に行く。悩むようなことじゃない」その目はそう言っていた。

「行くわ。今のところ奇跡を取り戻すにはそれしかないのだから」クローディアは電報を畳んで手の中に収めた。

「私もついて行っていいかい?」

 ラウラが言うとヴィカはニヤリとした。

「自分から魔術院に乗り込む気か」

「院は関係ない。顔を出すつもりもないねえ。ただ2人が心配だからさ。エトルキアの勝手を知っていて、かつ公平な・・・人間が必要だろう?」

 ヴィカはこれでもかというくらい眉間に皺を寄せてスポドリの残りを煽った。

「いいだろう。連れていってやる。各自、1週間以内に支度を済ませろよ」



 

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