リレーションシップ・上

 夜を抜けて、遠く霞む地平線に朝日が昇る。

 じゅくじゅくと空の縁が震え、まるで血液のような赤い光がその切り傷から滲み出す。天頂の藍色と混じり合って不気味な赤紫に変わっていく。

 クローディアはベッドの上で体を起こしてカーテンの隙間から差し込む光に目を細めた。夜明けだ。日に日に日の出が早まっているような気がする。目覚めの気分がいい。覚醒とまどろみの塩梅というのだろうか。布団の中に戻りたいと思うほど気怠くもなく、飛び起きたいほど苛烈な衝動もない。

 ゆったりとした鼓動、冷たい空気、優しい光。

 素晴らしい塩梅だ。

 外の空気を吸いたい、と思った。


 ズボンを穿こうと屈んだ時、喉の奥に何かが突っかかった。

 咳が出る。音を立てないように口を閉じて5回くらい咳き込んだ。

 丸いものがポコンと飛び出してきて唇の裏に当たった。

 肺珠だ。ブドウの種のように抓み出す。直径が人差し指の指先と同じくらいあった。かなり大きい方だ。

 昨日も一昨日も肺珠が出てきたけど、間違いなく嵐の時に低高度に降りてたくさんフラムを吸ったせいだった。まず3日後の朝にいくつか出てきて、それで終わりだと思ったら毎朝出てくるのだ。1週間経ったからもう5日目だった。何だろう。寝ている間に肺の中を転がって喉の方へ上ってくるのだろうか。不思議なものだ。

 手の中で唾液を拭って鼻に近づける。匂いという匂いもない。光に翳すとそれこそ本物の真珠のような光沢がある。なぜ肉体の内部でこんなグロテスクさの欠片もない物体が生み出されるのだろう。他の排泄物とは全く似ても似つかない。


 擂るのはあとにしよう。ひとまず洗面台の水切りに置いて、ジャンパーを持って静かに外に出た。

 外は素晴らしい朝焼けだった。環礁のような形の小さな雲が黒い影を引いて浮かんでいた。影の向こうにはまだ星が見えた。圧倒的な空の奥行きだった。

 中層甲板の裏側が金色に照らされている。その手前に小さな鳥たちの影が羽ばたきに合わせてきらきらと輝いてた。

 いい天気だ。嵐のあとから快晴が続いていた。風もほとんど吹いていない。まるで嵐が通りがけに空の悪いものを塵一つ残さず掃除していってしまったみたいだった。続々と押し寄せるはずだった雲や雨も根こそぎ踏み潰されて死んでしまったのだろう。それくらい綺麗で寂しい感じのする空だった。


 けれど耳を澄ましていると「コォオオ……」といううっすらした唸りのような響きがどこからともなく聞こえてくるのがわかる。遠くを飛んでいる飛行機の騒音なのだろうか。風の音なのだろうか。いや、それとも宇宙と大気圏が擦れる音なのだろうか。そんな感じの、とてもとても遠くて、でも、すごくすごく壮大な響きだった。


 カイが室内用のモコモコした毛糸のガウンに首をうずめてまだ眠そうに歩いてきた。

「この音って何なんだろう」クローディアは呟いた。独り言みたいだったけど、カイが出てきたところで声になったのだから、たぶん訊いたのだろう。

「この音?」とカイ。

 クローディアは何も答えずに耳を澄ますように促した。

 カイはしばらく目を細めて朝日を見つめた。寝ぐせのついた髪が揺れて時折光っていた。

「ああ」

「まるで空が鳴いているみたい」

「これはね、衝撃波の名残だよ」

「名残?」

「そう。どこかで生まれた衝撃波が、ほとんど消え入りながら地球を何周もして、でも無数に積み重なって、いつもこれくらいの音に聞こえているんだよ。常に消えようとしながら、常に生まれている」

「それ本当?」

「わかんない。個人的にはそうだと思ってるけど」

「なぁんだ……」

「あ、この音は違う」

 カイがそう言ったすぐあと、何か喉を鳴らすような音が響いて、それが「フゥゥン」という明らかなジェットエンジンのファンの音に変わった。飛行機が近づいてきたのだ。なぜ飛行機の音って突然聞こえるようになるのだろう。それもまた空の不思議のひとつだ。

「いったい何時に離陸して――というか何時に起きて支度してるんだろう。そんなに早起きしなくたって、普通に10時くらいに来ればいいのに。軍隊ってわからないな」

 カイは言った。彼の着眼点はまた別のところにあるようだ。

「軍隊?」クローディアは訊き返した。

「バイパス比の小さいエンジンの音だ。戦闘機か高速輸送機だと思う」

「それって――」

「うん。駐留部隊が戻ってきたんだ」


 この1週間でタールベルグの甲板の上の復旧はかなり進んでいた。嵐の翌日には綺麗さっぱりものがなくなった中層甲板も翌日にはもう格納甲板から引き上げたスクラップの山でいっぱいになっていたし、3日後の朝一には運送会社のスフェンダムが下りてきてスクラップと再生マテリアルを交換していった。軍が戻ってきたのは4日遅れということになるわけで、要するに民間人の方がずっと逞しい。そういうことでしょ?

「いや、戦闘機っていうのは結構繊細なんだよ。スフェンダムみたいな頑丈な輸送機と違って脚も華奢だからさ、アネモスなんかはちょっとでも不安のある飛行場には降りたくないんだよ」というのがカイの見解だった。

「3日じゃ尚早だけど、1週間なら勝手に路面がよくなってるだろうってこと? 軍は自分では何もしてないでしょ?」

「いや、一昨日かな、軍の飛行場試験機がローパスしてたよ。真下にレーザーを当ててデコボコを検査するんだ。あれでアネモネが降りられる路面状態かどうか確かめたんだよ。あまり数がないはずだから、なかなか順番が回ってこなかったんだろう」

「それって結局後回しじゃない」


 パンとスープで軽い朝食にして、ある程度身支度を整えて中層に上った。

 飛行甲板に着くと、ちょうど着陸してきたアネモスが滑走路を猛スピードで走りながら減速しているところだった。滑走路の先には後続機のヘッドライトも見えた。

 ん、また? と思ったけど、さっき降りてきたのは輸送機だけだったらしい。すでにヤードの端に落ち着いてテントを広げていた。

 なぜこんなに時間差があるのだろう?

「さっき音が聞こえてから1時間くらい経ってるでしょ?」

「周りの島の偵察をしてたのかもしれない。燃料が余ってたんだよ」

 カイはまた辻褄の合う答えを持ってきた。飛行機のことでカイに説明されると「ふうん、なるほど」と思ってしまう。


 先頭の1機が誘導路を探すみたいなぎこちない動きで滑走路の端から走ってきて輸送機の横に止まった。エンジンを切ると途端に空が静かになった。

 パイロットが出てきてハシゴの上で周りを眺め、2人を目がけて小走りにやってきた。パイロットスーツの前で酸素ホースやらがじゃらじゃら揺れている。細身の男で、ヘルメットを外すと歳は30くらいに見えた。口の周りにくっきりとマスクの跡がついていた。

 クローディアは翼をぴったり背中につけてフードを持ち上げた。島の外のエトルキア人におおっぴらに天使アピールをするのはよくない。ジャンパーを着ていてよかった、と思った。

 男は立ち止まり、ヘルメットを脇腹に抱えて深く礼をした。

「もし、ボスという人はどちらにられるかご存知ですか」

「ボス……」

「ああ、申し訳ありません」

「いや、知ってます。ただ、ころころ居場所の変わる人だから」カイが答えた。「ヴィカ……あ、いや、ケンプフェル中佐に?」

「ああ、いえ、前任の指揮官に」

「ああ」

 なるほど。つまりこの男は新任の指揮官なのだ。

「案内します。ついてきて」


 カイは工場の事務所に男を連れていった。クローディアとボスが最初に対面したのも事務所だった。

 今度はボスは在室で、3人が歩いてくるのを見ていたのか、手を濡らして髪を整えていた。相変わらず黒い作業着だ。

「デュ・ゲクラン少佐です。タールベルグ分遣隊の指揮官に着任しました」

 同じ佐官でもこんなに態度が違うものか。ヴィカとは大違いだ。

「先日の嵐の際はお力になれず申し訳ありませんでした」

「いや、戦闘部隊にはどうしようもない問題だ。まして分遣隊ともなれば装備はさらに限られる。気にすることはない。ただ、まあ、代わりと言っては何だが、ひとつ融通してほしいものが」

「塔か甲板の補修に?」

「ああ。発電機用のシールドなんだが」

「それは大物だ」

「どの塔でもそうそう造るものじゃない。方々に問い合わせてはいるんだが、軒並み納期の回答すら返ってこない」

「現状、危急を要するような……」デュ・ゲクランはそこで言葉を切った。タールベルグのメイン発電機が1基しか生きていないという話をどこかしらで聞いてきたのだろう。コンディション云々より、中央の人間にしてみればもうその状況の時点で「危急を要する」に違いない。

「死んでるタービンのシールドを移設してあるんだが、そいつももうヒビまみれだ。そのうち割れた破片をタービンが吸い込みかねない」ボスは一応説明した。

「そういうことなら手配しましょう。全国を見ればそう希少なものでもないですから」

「頼む」


 そのあと細かなご用聞きや島との取り決めの確認を済ませてデュ・ゲクランが出ていくと、ボスは窓のブラインドに指を引っ掛けて彼が離れていくのを見守っていた。

「末端は親身なんだがなあ。上がちゃんと話を聞くものか……」

 クローディアはなんとなくメルダースのことを思い出した。ネーブルハイムの心優しい司令官だ。軍人も役人。特にエトルキアの軍人は公僕としての性格も強い。天使に対する態度はともかく、市民には下手したてに出るのが普通なんじゃないだろうか。メルダースやデュ・ゲクランが珍しいタイプとは思えなかった。それでいて軍政組織の機能不全はクローディアにも体感できるレベルだった。よき・・人々で構成された組織が必ずしもよく・・機能するわけじゃない。

「本当は上も親身だけど、組織が大きいから話を伝言してる間に薄まっちゃうのかもしれない。なんというか、その情報の温かみみたいなものが。受け取る方にとってはだんだん取るに足らないぬるい・・・情報に変わっていく」

「そういうことも、あるだろうなあ」ボスはせっかく整えた髪をばさばさほぐしながら言った。


 居住区など甲板の上に比べると塔の内部の復旧は難航していた。外壁材など大半のものは塔の工場区画で賄えるのだけど、発電設備周辺だとか、むしろ塔の機能の根幹に関わる部分になると外から仕入れなければならないものが多いのだ。ただでさえ他の島との交流が乏しいタールベルグには酷な話だった。

「ねえ、他の島から持ってくるって、発電機の部品もどこかしらの塔の中で作っているんでしょう?」クローディアは訊いた。

「ああ。その通りだ」ボスは窓の外に目を向けたまま答えた。

「タールベルグのその機能を直すわけにはいかないの? 旧文明の装置だし、技術的な難しさがあるというのはわかるわ。でももしそれだけだったならとっくに全部の塔が駄目になってたはずで」

「曲がりなりにもああやって供給を維持しているのは主権を維持する目的もあるだろうよ」

「主権?」

「この島はエトルキア領だ、と主張したいわけさ。他の国になびかないように。それでいて辺境の島ってのは少しくらい貧しくて不便でなければならないんだ。下手に豊かさや利権があると隣の国に目をつけられるからな」

 ベイロンのことをイメージするとその事情はよく理解できた。ベイロンに関してはエトルキアが奪う側だった。

「だからって、わざわざ人手のかかるシステムを築いて、そのくせ人がいないとか輸送手段がないとかって」

「それがエトルキアさ」

 ボスはそう言い捨ててデスクに置いてあったコップを流しで軽く濯ぎ、道具入れのポーチを腰に巻いた。

 ちょっと悲観的な言い回しだったけど、この男は決して諦めているわけじゃない。ただ国とか権威とかいうものを信用していないだけなのだ。それでも使えそうなら軍人でも利用する。とことん現実主義者なのだ。あるいは持ち前の性格でなかったとしても、島を守るためには現実主義であらねばならない、ということかもしれなかった。

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