アフター・フィア

「外は恐かっただろう?」ボスが訊いた。

「うん」クローディアは頷いた。

「そうか」

 それだけだった。勝手に外に出ていったことに対するお咎めはなかった。強いて言えば、暴風の中に放り出されて塔に戻れないかもしれないと感じた恐怖がその代わりだった。ボスはクローディアが命からがら戻ってきたということをきちんと理解していた。

 この男には「ボス」と呼ばれるだけの器がある。停電以降の彼の行動からクローディアは十分そう思えるようになっていた。


 廊下に入ると通風口から溢れたピンク色のウレタンの泡がいくつもボールのようにころころ転がっていた。閉塞用なのだから時間経過で消滅するようなものであってはならない。廊下はともかく、外壁裏のバックヤードはどうやってクリーニングするのだろう? 後のことが心配になった。先の想像ができるのは当面の懸念が解消された証拠かもしれない。

 クローディアは懐中電灯を切った。廊下の明かりが点いていることにしばらく気づけなかった。照らしているのに明るくならないな、と思ったけど、もともと明るいのだ。

 吹き抜けまで行き当たるとちょうど左手のエレベーターの扉が開いて工員たちが出てきた。

 ボスが両手で丸を作って押し戻すジェスチャーをする。こっちはもう大丈夫、という合図だ。

 トランシーバーを失くしてしまったので全部は聞き取れなかったけど、ボスたちは「東側の排気管を開けた」とか「圧力を逃して温度を下げた」とか、そんな話をしていた。塔の中でも上の層にフラムを昇らせないための対処を頑張っていたのだ。

 本来の防護システムも正常に動き始めたようで、フラムモニターの数値はすでに50ポイント台まで下がっていた。

 工員たちが止めていたエレベーターに乗って中層に向かう。B18階(そういえば階数表示は最下層甲板が1階で、そこから基底部までは1〜100階にBを冠するようになっていた。ボタンを節約するための工夫だろう)で一度止まり、先に階段で退避していた1人が加わった。

 ボス他工員4人、ヴィカ、クローディア。基底部に下りた全員が欠けることなく帰還する。床にはひと仕事終えた工具たちが無造作に置かれていた。

 間もなくフラムモニターの警報も完全に沈黙した。すごく久しぶりの無音だ。逆に耳鳴りがするくらいだった。


 工員たちは憔悴して壁に寄りかかったり目を瞑ったりしていたけど、ヴィカは長杖を立ててウェットティッシュで拭っていた。化け物じみた体力だ。

「結晶の留め金が嫌にややこしい形をしてるだろ。に持っていくとここが汚れるんだよ」ヴィカはクローディアの視線に答えてそう言った。ヘルメットのバイザーは警報が消えた時点ですでに開けていた。

「魔力がスカンピンなんじゃないの?」

「その通りさ。もうロウソクほどのエネルギーも残ってない」

 ヴィカは携杖を顔の高さに翳して「フュール」と唱えた。火を浮かべるスペルだ。

 でも杖の先から線香花火のようなちゃち・・・な火花が散っただけで火は起きなかった。魔力と体力には全然相関がないってことなのだろう。


 中層に着いて扉を開けると待っていた工員たちが大勢で出迎えた。ボスは手で彼らを追い払った。「いいから、いいから、下がってろ」

 吹き抜けに面した南側に浴場があって除染設備を兼ねていた。フラムまみれになったグラウンドスーツや作業着を蒸し洗いするためのボイラーがついているのだ。洗濯機とはまた別物のウォークインクローゼットくらいの小部屋で、ヘルメットでも靴でもその中に洗い物を引っ掛けておけばまとめて洗浄できるらしい。

 脱衣所や浴室は極めて無機質な白いパネル張りで、不潔なところはちっともなかった。たくさん泡の出るジャグジー槽に2回潜り、シャワーを浴びながら念入りに体を洗う。

 裸になって熱いシャワーを浴びているとまるで解凍したみたいに基底部の光景がフラッシュバックしてきた。

 突然目の前に現れた暗い水面、内壁ロボの青白い探照灯、外界を吹き荒れる暴風の轟音……。それら記憶は実際に体験した時以上の質感を伴って五感に訴えてきた。シャワーの熱で溶けた殻を易々と貫いて突き刺さってくるようだった。

 クローディアはできるだけ速く体を洗って水気を拭った。着替えは入院患者みたいな水色のワンピースだった。

 急いだつもりだったけど、ヴィカには先を越されていたし、廊下に出ると工員たちもホカホカした顔で歩き回っていた。翼の分だけ洗いにも乾燥にも時間がかかるのだから考えてみれば当然だった。


 廊下にはスープの匂いが漂っていた。朝食の炊き出しをしているのだろう。匂いの方へ歩いていくと食堂があって、中でモルが配膳用のトレーを並べていた。

「クローディア! よかった、無事だった」

 きちんと睡眠を取ったのだろう、モルは元気そうだった。

「そんな簡単に死んだりしないよ」軽口が出た。自分でも意外だった。

「カイなら医務室だよ。アルルの手伝い」

 どうしてカイを探していると思ったのだろう? でも言われてみるとそれは当たっている気がした。


 手術室と隣接する医務室は北側にあって、明かりは点いているものの食堂よりずっと暗かった。意図的に暗くしてあるようだ。

 人気がない、と思ったけど、違った。ベッドが6台あって、手前から4つは人が眠っていた。まるで死んでいるみたいに静かだった。いや、本当に死んでいないとも限らないのだけど……。

 ……?

 カイは右手手前側の壁に寄りかかって座り込んでいた。というか脱力していた。

 そんなところにいると思わなかったし、全然気配もしなかったからクローディアはかなり驚いた。でも眠っている人たちに悪いから声は上げなかった。代わりにゾワッと鳥肌が駆け上がってきた。

 疲れて眠っているのだろうか。そう思って覗き込むと、目が動いたのでまた少しびっくりした。

「ああ、クローディア。無事でよかった」

 カイはモルと同じことを言ったけど、トーンは全然違っていた。

 カイの手の甲が血で汚れていることに気づいた。かなりうっすらした痕跡だ。掌や指は洗ったけど手の甲までは意識が行かなかった、という感じだ。

「ケリーは助からなかった」カイは言った。

「ケリー?」

「工場と電源のバイパスをする時に頭をケガしたんだ。浮遊物に当たったって」

 クローディアは思い出した。ずぶ濡れのまま他の工員たちに担がれてきた2人のうち1人は頭に傷を負っていた。額を流れる血の筋、床に残った血痕……。

 そのあと色々なことが起こったせいでそれは随分昔の出来事のよう感じられた。

「別に悲しいわけじゃない。ただ、手を尽くして、できることは全部やって、それでもダメだった。意味がなかった。そのせいで少し気が滅入ってるんだ」カイは膝を抱えたまま言った。

 クローディアは目の前の繊細な問題にどう接していいかわからなかった。今まで雨だとか風だとか単純に暴力的なものと散々渡り合ってきたせいで力加減がバカになっているようだった。それは何も腕力だけの話じゃない。精神や心も同じだ。ラフになればなるほど繊細な機微は捉えられなくなっていく。自分は今その状態にあるとクローディアは感じた。下手に触れたら彼を――彼の繊細な何かを壊してしまうんじゃないかという気がした。

 そして自分の思い込みとおごりのようなものを自覚した。嵐とフラムに対する最前線は基底部にあって、中層の人々は何もできずにただじっと待っているだけで、自分たちが彼らを救ってやらなければならないのだと思っていた。あえてそう信じていたわけじゃない。ただ無意識のうちにそういう認識が出来上がっていたのを今になって自覚した。それは間違っていた。中層には中層の戦いがあったのだ。

 

 クローディアはカイの横に腰を下ろした。同じように膝を立てて壁に背中をつけた。そうしてまずはこの部屋の空気に慣れなければいけない。そう思った。

 アルルは手術室の方にいるようだ。微かに物音が聞こえた。金属の当たる音、水を流す音。カイがここにいるということは危急を要する患者ではない。たぶん彼女は動き回っていた方が揺れを感じずに済むからと看病を続けているのだろう。

 そういえば中層はまだ揺れていた。座り込むと余計にはっきり感じる。それもまた基底部に下りて忘れていたことの1つだった。


「その場にいる時は何も感じないのに、あとになって思い出した時に恐いものってあるんだね」クローディアは言った。

「基底部のこと?」とカイ。

「下にいる間は何でもなかったのに、シャワーを浴びている間になんだかゾワゾワしてきたの。溜まっていた水の感じとか、外の風や雨の音とか。お湯を浴びているのに、冷たい水をかぶっているみたいに思えた」

「恐い?」

「うん。たぶん、そうだと思う。明確な殺意を持った殺し屋とは違う。人間や天使とは違う。人間や天使がいくら頑張ってもそんなふうにはなれない。雨風は力を持て余していて、生き物の行き死になんかは全然どうでもよくて、ただ道の上を通り過ぎるのと同じように大きな力で踏み潰していくの」

「自然には意識がない。意図もない。機械と同じだ」

「私はアルルが吹き抜けや塔の高さを恐がるのを馬鹿にしていたのかもしれない。でもその恐怖はただ大勢の人間や天使が慣れすぎて忘れてしまっているだけで、この世界を生き抜いていくためには必要な機能だったのかもしれない。たとえ塔があったとしても、空そのものは昔から変わっていない。生き物が生まれ、成長し、生活していくための場所ではないのよ。かろうじて塔がそれを可能にしてくれているというだけのことなの。それを崩してしまうのはとても簡単なことなんだろうって」

 カイは少し時間をかけてクローディアの言葉を飲み込んだ。

「――そう。恐怖もまた生き延びるためにあるんだ。長い淘汰と進化の中でその環境に適応してきたことを意味している。押し潰されてはいけない。この程度のことで諦めて死を受け入れる必要なんかない。大丈夫なんだ」

 カイはクローディアの肩に手を回した。指先がまだ汚れていることを意識していたのだろうか、あまり手で撫でるような動きはなかった。

 おそらく彼はこの真っ暗な揺らぎの中で一晩中アルルを慰めていたのだろう。「大丈夫なんだ」その言葉にはそういった一生懸命な呼びかけのニュアンスが残っていた。

 クローディアはカイに肩を寄せた。少し血の匂いがしたけど、彼の乾いた温かさは気持ちよかった。

 瞬きするくらいにちょっと目を閉じただけなのに、いつの間にか意識を吸い出されるみたいに眠りに落ちていた。


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