デイブレーク
視界がぐるぐる回り、重力の方向は上下左右に目まぐるしく変化する。暴風に流され吹き荒れる雨も上下を見定める手掛かりにはならなかった。どだい暗すぎて地面が見えないのだ。星空も月も分厚い雲に覆い隠されているようだった。
視界はアテにならない。翼をV字に広げて風に体を立て、ゆっくりロールしながら風と重力の境目を探る。ロールが速まり、遅くなる。その境目が水平。揚力中心の真下に体がある。それが水平だ。瞑っていた目を開ける。幸い懐中電灯は手首に通したバンドが引っかかっていた。
気づくと地面はすぐそこにあった。地面、というか水溜りだ。森が消えて保水力を失った地面は雨の度に水浸しになっていた。水面に雨が跳ね黒い波紋が広がる。降りられそうな地面はまるで見当たらない。
風に流されてどんどん塔から遠ざかっているように感じた。いくら羽ばたいても水面が前の方に流れていくのだ。
風はどこからそんな音を出しているのか理解できないくらいの音量でびゅうびゅう震えて唸っていたし、雨は巨大な龍のようにうねりながら激しく地面に打ちつけていた。まるで自分が人間サイズではなく蚊のような小さな生き物になってしまったようだった。目の前で生じている現象は人間スケールの生き物が生身で体験してはいけないもののように思えた。その巨大な力が今にも自分の体を粉々に砕いてしまうんじゃないかという気がした。
私は恐いのだろうか。
自分にはないと思っていたアルルの不安と同じようなものを感じているのだろうか?
そうかもしれない。
少し冷静になれた。
塔から放り出されたということは風の流れに乗せられてしまったわけで、風上に向かって飛ばなければ塔には戻れない。
そうだ、超低空なら風は地面との摩擦で流速が落ちる。水面ギリギリに飛べば進めるかもしれない。
クローディアは翼を畳んで頭を下げた。緩降下で加速、水面に滑り込むくらいギリギリで翼を開き、水面を叩かないようにツバメのように浅く羽ばたく。
やっぱりだ。風圧は相変わらずゾウのようにのしかかってくるけど、それでも風を分けて前に進めているのを感じた。雨が翼を濡らし、水面の跳ね返りが顎や首筋に降りかかる。早くしないと翼が重くなって羽ばたけなくなる。スピードを上げたいのは山々だけど、地面に跳ね返った風が気流を乱して体を揺さぶる。その度に姿勢が崩れる。
雷が空を割った。衝撃波で体が水面に叩きつけられそうなくらいの音が鼓膜を打った。思わず一瞬目を瞑る。でもその直前に雷光を受けた塔のシルエットが浮かび上がるのが見えた。11時方向だ。少し右に流されたらしい。針路を少しだけ左にずらす。
塔の根本の周りにはぽっかりと円形の窪みが広がっていた。何もない地表ではほぼ均一に積もる砂も塔付近では風に抉られて擂り鉢状を呈する。今は雨のせいでその円錐形の中に
外壁に張り出したキャットウォークを数え、7階を見定める。
僅かな斜面で加速をつけ、塔の外壁にぶつかるギリギリで頭を上げて上昇、壁を蹴って体を持ち上げた。羽ばたいて体を押さえつけ、濡れた外壁にどうにかグリップを効かせる。
手摺を掴んだ時には息が上がって喉の奥が焼けるようだった。支柱の隙間からキャットウォークに転がり込む。翼の根本の筋肉に乳酸が溜まってキリキリ痛んでいた。とてもじゃないけどもう羽ばたけない。翼を畳むにも難儀するくらいだった。
おそらく塔の東側だろう。戻るには反対側に回らなければ。塔の内側通るわけにはいかない。そんなことをしたらまた扉に弾き飛ばされてしまう。
手摺を掴み、風に耐えながらキャットウォークを進む。前から吹く風、外壁と床の隙間から吹き上がる風、それが不規則に強弱して体を煽った。力いっぱい手摺を掴んでいないと簡単に飛ばされてしまいそうだった。
目の前に光が見えた。
誰かがこちらを照らしている。
相手は光線を下げて手を振った。扉の前で待っている。
近づいていくと相手はグラウンドスーツの窓をクローディアの頭に押しつけた。窓とヘルメットがカチンとぶつかる。
「なぜ返事をしない?」
ボスの声だった。それが窓と頭蓋の振動を通して耳に入ってくる。そうでもしないとこの嵐の中では声が通らないのだ。
クローディアはトランシーバーを探した。胸ポケットに入れておいたはずなのに、どこにも見当たらなかった。放り出された時のはずみですっ飛んでしまったのか。
それと同時に自分がすごく余計なことをしたのだということが身に沁みてきた。ボスは相当なリスクを冒して塔の外に出てきているのだ。いくらグラウンドスーツを着ていてもフラムに晒されるリスクは塔の中より外の方が遥かに高い。
「クラックはそこだ」ボスはまた窓をくっつけてそう言ったあと、扉の向こうを指した。
懐中電灯を向けるとキャットウォークから3〜4mの高さに横向きの亀裂が走っているのが見えた。長さは2m以上ありそうだ。幅は細いが塔の揺れに合わせて広がったり閉じたりしている。それはなんだか大きなお化けの口みたいで不気味だった。笑っているみたいなのだ。
ボスは扉の横のハッチを叩いて開いた。中に消火装置のようなホースが巻いてある。
「閉塞剤の強いやつだ。おまえが先端を持ってあそこに差し込んでくれ。電気が来てないから人力でポンプを回さなきゃならない」
そう言われてもこの風圧に逆らってホバリングをするなんて不可能だ。だいたい翼を動かす体力が残っていない。
「ロープある?」クローディアはボスの窓に頭をくっつけて訊いた。
ボスは腰のズックからカラビナ付きのロープを取り出した。10mくらいはありそうだ。求めていたものがそこにあった。
クローディアはそれを持って風上の方に5mほど這いずり、手摺と腰のベルトにカラビナをかけた。ボスのところに戻ってロープを掴んでぴんと張り、脇にホースの先を挟む。
太いホースにバズーカのような大きな口金。見るからに携帯用のスプレーとは段違いの威力が感じられた。これなら穴を塞げるかもしれない。
翼を半分ほど広げる。それだけで風を受けて簡単に体が浮き上がった。ロープを張りに任せて送り出す。クローディアは凧の要領でみるみる高度を上げた。しかしただでさえ荒れた風は外壁と干渉して一層複雑にうねっていた。姿勢を保ちながら亀裂に近づくのは簡単じゃない。少しでも気を緩めれば一瞬で逆さまになって外壁やキャットウォークに激突してしまいそうだった。
しかもホースが風で煽られてパニクったアナコンダみたいに暴れてのた打ち回っていた。どんどん挟みが浅くなり、とうとうスポッと抜け落ちた。ロープを押さえるのに気を取られていたせいだ。
落ちただけならいい。拾い直せば済む話だ。ただホースの先端には重い口金がついていた。
ボスに当たったら?
怪我はしないかもしれない。でもスーツが傷ついたらまずい。ここは外界だ。塔の中とはフラムの濃度が違う。
クローディアは体を捻って口金に手を伸ばした。指先が空を切る。さらに体を回して目一杯腕を伸ばした。
かかった。すぐ両手で掴みにかかる。
ホースは大丈夫だ。
だが風に対して完全に背中を向けてしまった。すでに体が落下し始めているのを感じた。キャットウォークが銃弾のようなスピードで迫ってくる。頭がカッと熱くなり意識の中で時間が引き延ばされる。
一度閉じた翼を小刻みに開いて手摺の脇をかろうじて通り抜けた。ロープの張りを頼りにぐるっとキャットウォークの下を回り、ほとんど下の階に届くくらいまで下がってから外周方向に大きく振り出す。
ボスが亀裂の位置を懐中電灯で照らしていた。風上に回り、その光芒の中心めがけて一直線に突っ込む。両足を突き出す。
安全靴がきゅっと音を立てて外壁の上を滑る。ロープが突っ張り体が下に引っ張られる。亀裂の中に手を差し込んで何とか耐えた。亀裂の断面はかなりギザギザしていた。グローブがなければ指が切れていたかもしれない。
だがずっと掴まっているわけにはいかない。亀裂は塔の揺れに合わせて広がったり狭まったりしているのだ。場合によっては押し潰されかねない。すぐに手を抜いて翼を外壁に伏せて壁に張り付く。いわゆるダウンフォースだ。
やっと体勢が落ち着いた。下を見る。ボスはそれだけで合図だとわかったようで、全身を使ってハッチの中のハンドルを回し始めた。間もなくホースがぶわっと膨れ、その内側を相当な圧力で液体が辿ってくるのがわかった。両手で口金を強く握る。幸い体は風が押さえてくれる。暴れるホースが肩を揺さぶり、反動で跳ねた口金が鳩尾に突き刺さる。
「ウェッ」と呻きが漏れた。
口金を押し戻し、噴き出してくるピンク色の液体を亀裂の奥に送り込む。
液体は泡になって膨らみながらそれでも風圧に流されて奥へ奥へと流れていく。まるで溜まっていく気配がない。この威力でも塞げないほどの傷なのだろうか。
でもここで手を止めるわけにはいかない。ここは耐えろ。
放り出された時に扉のハンドルに引かれた手首や肩も、ベルトの食い込んだ腰骨も、口金の当たった鳩尾や肋骨も、じっとしていると痛みがじわじわと湧き上がってくる。
それに眠気が意識だけじゃなく体そのものを下へ下へと押し潰そうとしてくるようだった。地球の重力が何倍にも強まったみたいに感じられた。
でも、だめだ。ここで落ちるわけにはいかない。発電機を直そうとした工員たちの努力、そして夜通し島の中で耐え忍んでいる他の住人たちの命運が今この場に懸かっているのだ。
その数分が果てしなく長い時間に感じられた。
やがて配管の奥からピンク色の泡が盛り上がってくるのが見えた。口金から噴き出すウレタンの泡がそこに積み重なりどんどん近づいてくる。
ボスにカットの合図をする間もなく泡は亀裂から溢れ出してクローディアの体を包み込んだ。泡は風で吹き飛ばされていくが、口金からもどんどん噴き出してくる。クローディアは常に新しい泡を浴び続けるような具合になった。
息ができない。飛び出そうとした矢先、腰のロープにこんこんと振動が来た。ボスが下りてこいと言っているのだ。いつの間にかホースの圧力も弱まっていた。
痩せたホースを脇に挟み、両手で顔を拭いながら外壁を滑って降下した。危うく目を開けて着地、思わずその場に座り込んだ。外壁に寄りかかって座っていると案外風を受けないものだ。
ボスはホースを巻き取ったあとクローディアの横を通ってロープのカラビナを手摺から外して手繰り、結んでから自分のベルトに通した。クローディアがまた不意に飛んでいってしまうのを警戒しているようだった。
エアロックの扉を慎重に開いてクローディアを呼ぶ。クローディアは体に力を入れて立ち上がった。
エアロックに入る直前、視界の端に何かが見えた。
それは朝日を受けた隣の塔の先端だった。仄暗い金色の光がきらきらと瞬いていた。もう日の出なのだ。
背後の雲が切れたのだろう、朝日を浴びたタールベルグの影が眼下にすーっと伸びていった。震える水面を切るように光と影の境界線がどこまでも走っていく。その景色は憎らしいほどに綺麗だった。
そして風に吹かれる無数の浮遊物の影が明るみに浮かび上がってきた。塵のように小さく見えたけど、塔や甲板や地上の廃墟から剥がされたのだろう、よく見ると建物の屋根だとか、飛行機の一部とか、目に付くのはそんな大きな破片ばかりだった。あんなものがぶつかってきたら一発で死んでしまうに違いない。真っ暗闇の中であんな浮遊物の合間を縫って飛んでいたのだ。ほとんど自殺行為じゃないか。ボスが何の余韻もなく塔の中に戻ろうとする意図がよく理解できた。この強風の中で外界に長居してはいけないのだ。
ボスが扉を支えたまま上を指差した。その方向を見ると中層甲板の先端で赤い光がゆっくりと点滅していた。タールベルグの航空障害灯だった。塔の電源が戻ったのだ。蒸気が上がってきてタービンが回り始めたのだろう。
クローディアは安堵とともにエアロックの中に入った。ボスも後に続いてしっかりと扉を閉めた。気圧調整が作動して耳がツンとする。
「朝日とともにお目覚めだ。人間かよ」ボスは壁に寄りかかって言い捨てた。あまり大きな声じゃなかったがきちんと聞き取れた。もちろん塔に対する嫌味だ。
エアロックの天井からフラムを洗い流すためのシャワーが噴き出す。肌に当たると痛いくらいの水圧で、しかも冷水だった。大げさな反応ができるような気力は残っていなかったはずだけど、冷たすぎてジタバタしてしまった。人間用だ。生身で浴びるような設計になっていないのだ。
続いて強烈な風が吹き出して水気を吹き飛ばす。これもやっぱり息が止まりそうなくらいの強風で、一連の措置はなんだかボスの言葉で機嫌を損ねた塔の八つ当たりみたいだった。クローディアは腕を組んで翼で体を覆って堪え、風が止まったところで内側の扉を安全靴の硬い爪先で思い切り蹴飛ばした。
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