基底層
ダーク・ウォーター
ボスは放送用のコンソールを探して構外向けのスイッチを入れ、音量のスライダーを一番上まで跳ね上げた。マイクの蛇腹をグイっと上に向けて口を近づける。
「作業員各位、塔内部に通電した。発電機の復旧にかかる。一度制御室に集合、説明を行う。繰り返す――」業務連絡らしい平板な発音で簡潔に吹き込んだ。
マイクが拾った音は屋内では全く聞こえなかった。塔の外壁には強力なスピーカーが設置されているはずだけど、この風雨だ。音が通るかわからない。どちらにしろ全員いくらか塔から離れて作業していたのだろう、誰もすぐには入ってこなかった。
とはいえ人が揃うまでぼーっと待っているのも時間が惜しい。塔の基部にある注水ポンプを見に行くということは3000m近くも降下するわけで、ハーネスとロープを使ったやり方ではとても間に合わない。吹き抜けを使ってまっすぐ降りていくのが手っ取り早い。
コートを脱いでツナギの上を羽織る。普段は袖を腰に巻いておくけど、いざという時に飾りでは困るので翼を通す穴も開けてあった。今がその「いざという時」というわけだ。布1枚で防げるケガもあるから上着を着ていけとボスの助言だった。ヘルメットの顎紐を締め、工具のポーチを腰に合わせる。懐中電灯を何度か点滅させて電池の容量がしっかり残っているか確かめる。工場からのバイパスのおかげで制御室や通路には常夜灯くらいの明かりが点いていた。何の作業をするにしても真っ暗よりはかなり具合がよくなっていた。
支度をしているとヴィカが
「なんだ、その恰好」ボスがキョトンとした。
「グラウンドスーツだよ」
「そんな細いのもあるのか」
「軍用さ」
「普通はもっとぶかぶかしたやつだろう。いかにも防護服な」
「この方が動きやすい。弾も当たりにくい。射抜かれたら空気が抜けるから、この方がいいんだ」
「ヴィカもついてくるの?」クローディアは訊いた。
「ああ。私はエレベーターで降りる。動くかどうかテストも兼ねて。もし途中で動かなくなっても私ならこの島にとっては損失が少ない。それに、いざとなれば壁をぶち抜けばいい。救助を頼んだりはしない」ヴィカはそう言って斜めに背負った
外壁のエアロックが開いてずぶ濡れの工員たちが戻ってきた。冷たく湿った空気が足元に流れ込んでくる。
「ボス、怪我人だ」1人が叫んだ。その声がレーザーのように通路の中で跳ね返って響いた。
工員たちは水を滴らせたまま通路に入ってくる。どうやら2人やられたらしい。1人は完全に気を失って2人に抱え上げられていた。額から血を流しているが髪が貼り付いていて傷の深さは見えない。もう1人は両側の2人に肩を借りて片足で歩いてきた。ズボンの脛のところがざっくり裂けている。こっちも傷は深そうだ。意識がある分痛みも感じるわけで、本人は歯を食いしばって魘されるように唸っていた。
名前は覚えていないけど2人とも見たことのある顔だった。彼らが担がれていったあとには水溜りと血痕が点々と残っていた。水溜りは塔の揺れに合わせて右へ左へ伸びたり縮んだりしていた。それはなんだか外の嵐が塔の中に侵入しようとして投げ込んだ足掛かりみたいに見えた。クローディアは水溜りを爪先で踏み潰した。
酷いケガだ。再生の奇跡は使えない。治療できるのは……。
ボスは制御室に戻って放送コンソールに飛びつき、構内向けにスイッチを切り替えた。
「アルル、アルジェント・クレスティス。聞こえていたら90階まで来てくれ。手当を待っている人がいる。君の力が必要だ」
ボスの声は少し遅れて天井のどこかに仕込まれたスピーカーから聞こえた。
この状況でアルルは働けるのだろうか。わからない。でもやってもらわなければ。
ボスはすぐにスイッチを切って怪我人の容体を確かめた。
「状況は」
「波板か何か風で飛ばされてきたんだ。暗くて見えなかった。だから避けようがなかった」
「2人同時にか?」
「そう」
「止血はいい。傷口を洗って、体温が下がらないように。小さい部屋の方がいいだろう」
また数人が2人を介抱して通路に出た。
「参ったな。ポンプの修理に回そうと思っていたやつが2人ともやられた」ボスはその場に立って小声で言った。
「もう直しようがないってこと?」クローディアは訊いた。
「いや、まだ俺がいる」
ボスは負い目を感じているようだ。そういう言い方だった。イワツバメの出入口を放置しなければ、今このタイミングで呼び戻さなければ、2人は無事だったかもしれない。だがこんな時に弱音を吐ける立場でもない。
ボスは残る全員が制御室に入ったところで扉を閉めた。まず塔の発電機の状態を説明、工場とのバイパスの状態を報告させた。それから怪我人と介抱組を除いて15人程度の工員を2基の補助発電機に振り分けた。
「電気は最低限必要なものが動くように調整して分配してある。足りないところがあればすぐに言ってくれ。俺は制御室に残る。メインの確認はクローディアと中佐に行ってもらう。モルは他の住人たちのところを回ってご用聞きをしてきてくれ。この時間だと寝ているところも多いかもしれないが、起きていれば。手当を手伝えそうな人がいたら連れれてきてもらっても構わない」
工員たちは眠そうな疲れた顔で各々壁に凭れたり座り込んだりしてボスの話を聞いていた。雨合羽から垂れる水滴の音がまだぽたぽたと響いていた。
「とにかく時間がない。だが焦るな。怪我人が出れば余計に手が少なくなる。タイムロスにもなる」
ボスが説明を終えると工員たちは気合を入れて腰を上げた。それはなんとなくストーブに火を入れるシーンを思わせた。冷え切っていた鉄のグリルが灯油の火に炙られて赤熱する。その熱が冷たい風雨に対抗して塔全体を温めていく。そんな感じがした。
クローディアとヴィカも吹き抜けの前に出た。
「2人ともトランシーバーを持っていけ。内線が通じるとは限らない」とボス。
クローディアは巨大なカブトムシのようなトランシーバーをツナギの胸ポケットに押し込んだ。本体は収まったがアンテナが突き出している。
吹き抜けを覗き込むと底のない暗闇が妙な引力を持って佇んでいた。仄暗い通路の明かりは吹き抜けまでは届いていない。懐中電灯で対岸を照らす。数階下の手摺が映し出された。まっすぐに急降下していければ早いのだけど、この暗さでは何にぶつかるかわからない。揺れで小規模な崩落が起きているかもしれないのだ。光を当てたところに向かって小刻みに降りていくのが安全だろう。
ポーチがきちんと閉まっているのを確かめ、懐中電灯のストラップを手首に合わせる。吹き抜けは直径50m程もあるだろうけど、それでも空に比べればずっと狭い。これだけ暗くて狭い空間で飛び降りをやるのはあまり経験がなかった。正直なところ少し緊張していた。
なんだ、私にもアルルの気持ちがわかるんじゃないか。
手摺の上に登る。
「行くよ」クローディアは言った。
「おう」ボスが見送る。
足を下にして闇の中に飛び出す。
加速度が体の中の血液を上へ上へと押しやるくすぐったい感触。そして風圧。
翼をパラソルのように開いて勢いを殺す。懐中電灯の光の円の中で階層が横縞になって上へ流れる。翼が湿気っているのか、そもそも羽根が抜けて揚力が足りていないのか、思ったよりも降下が速かった。
全力で羽ばたいて真下を照らし、トラスの上に着地。振り返って見上げるとほとんど真上に手摺から乗り出したボスの顔が見えた。90階だけ明かりがついているのですぐにわかった。もうかなり上の方だ。
「大丈夫か。かなりハードだったぞ」ボスが叫んだ。
「大丈夫」クローディアは手を振って答えた。
降下速度が速いのは水平にスピードが乗っていないからだ。足を下にして飛び降りたのがいけなかったのだろう。今度は頭を前にしてみることにした。
飛んでいくルートを予め照らし、体を前に倒してトラスを蹴り出す。右手の内壁に沿って螺旋を描くように降下。今度は確かに空気を掴んでいる感触があった。
次トラスに足をかけて少し時間を稼ぎ、その間に次のルートを照らしてまた踏み出す。その繰り返し。
慣れてくるとほとんど立ち止まらなくても降下を続けられるようになった。上水のセパレーターをいくつも飛び越え、イワツバメのコロニーを通り過ぎる。感覚的には10秒で100m以上降りている。垂直降下ほどじゃないけど、空気を掴みながらの降下としてはかなりの速さだ。
次第に鼓膜の押し込みが強くなってきた。気圧のせいだ。耳抜きをすると空間に充満する「フゥーン」という低い隙間風のような音が聞こえるようになった。高度2000mは切っただろう。地上へ下りる時特有の感じだ。ああ、空気というのは積み上がっているんだ。根元があり、先端があるんだ。耳抜きをするとそう感じる。ただ空気は依然として冷たい。埃っぽさもない。それが外界、地上との違いだ。
目指す塔の底はもうすぐ。最後の方は闇を突っ切って重力に引かれていくのが心地いいくらいだった。
そして唐突に聞こえたごうごうと水の注ぐ音と水面の反射に肝を冷やすことになった。
鳩尾の内側をぎゅっと掴まれたような感じだった。とっさに翼を前に出し、羽ばたきで水平飛行に移った。腹の下を水面が掠める。ぎりぎりのところで1つ上の階の手摺に飛びついて通路側に転がり込んだ。
水? なんで、水?
ツナギの前に触れると、水面についたのか
壁に寄りかかって呼吸を落ち着ける。
その間にもたくさんの冷たい手が床から這い上がってきて脚を掴まれそうな気がして堪らなかった。何も考えずにもう一度手摺から飛び出して対岸まで全力でスピードを上げ、その勢いで2階層分上まで飛び移った。そうして通路側に座り込むとやっと気持ちが落ち着いた。
全く予想していなかった暗い水面の存在がなぜだか恐怖に作用していた。落ちたら落ちたで浮かんでくればいい。べつに渦ができているわけでもない。何が恐いのか自分でもわからなかった。
「クローディア、来たか」上から声が聞こえた。
「ヴィカ?」
「ああ、ここだ」ヴィカが懐中電灯を振った。もう5階層ほど上のようだ。
「早い。先に着いてたのね」
「エレベーターに言ってくれ。で、なんだかそんな気がしてちょくちょく降りて見てたんだが、やっぱり浸水してるな。高度的に10階以上沈んでるだろ」
「どういうことなの」
「外の方が水位が高いってこともあるかもしれないが、まあ、ポンプの誤作動か配管の破断でこっち側に水が出てきてるんだろう。ポンプの『フェイル』っていうのはそういう意味だ」
つまり、溜まった水を抜かなければポンプを直せないのではないか? 基部近くの吹き抜けの直径は100mほどもある。それが水没している。そんな量の水を抜くことができるのか?
クローディアは恐る恐る手摺の下を覗き込んだ。黒い水面が悪い夢に出てくる巨大アメーバのようにおぞましくうごめいていた。
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