ラスティング・ペシミズム

「ドーン」と遠い落雷の衝撃がどこからともなく響いてきた。塔の中では外の風も雨もまるで感じない。気配さえない。でも雷だけは聞こえた。それは音というより衝撃だった。外壁から内側の壁を伝って部屋まで走ってくるのだ。

 幸い部屋の中は適度に暖かくいい居心地だった。住環境そのものはカイの家よりいいんじゃないだろうか。

「この部屋には昔の人たちの残していったものが置かれていないのね」クローディアは呟いた。「この部屋だけ?」

「ううん。周りの部屋もこんな感じ」アルルが答えた。

「定員5万人というけど、実際には全部は使われなかったのかな。世界の人口に対して余るほどの塔を建設したわけじゃないだろうし」

「たぶん、間に合わなかったんでしょう。もともと人口の少なかった地域では周りで溢れた分を受け入れなければならなくて、でもその移動が上手く行かなかった。行政が駄目だったのか、ただ単に時間が足りなかったのか、いずれにしても数万人というのはすごい規模だものね。今の都市が丸ごと移動するのと同じくらい」

「塔が完成したそばからその足元で大勢が死んでいった」

「そうね。この塔は墓標でもある。生にしがみつく者たちのための、死者のモニュメント。私が塔の中を不気味に感じるのはそれもあると思うの。誰かのお墓を荒らしているみたいな……」


 再び雷鳴が聞こえた。その音は外界の嵐を思い出させようとしているみたいだった。ほとんど感じないかもしれないけど、外はすごい天気なんだ。それは忘れないでくれよ。そんなふうに。


「ああ、やっぱり揺れてる」アルルがぞっとした様子で言った。リュックサックの一番上に巻いていたブランケットを広げて頭から被った。

 座って落ち着いてしまったので余計に感じるのだろう。

「感じる?」カイがクローディアに訊いた。

「感じない」

「感じようとして敏感になってるだけだよ」カイは腰を上げ、アルルの隣に座り直して背中に手を当てる。

「わかってるんだけど、だからって意図的にどうにかできるものじゃないのよ」

「とにかく、心配するような揺れじゃない」

「ごめん、悲観的になってるわね」

「いいよ、話してみなよ。きっと気が楽になる」

 カイがそう言ったのでクローディアも体を起こして広げたブランケットを体に巻いた。


「タールベルグはここ数年でどんどん弱ってきてるような気がするの。上層の水槽がだめになって魚が全部死んじゃったのが去年の大風、無線のアンテナが倒れたのが一昨年でしょ。地上行きのエレベーターが死んじゃったのも確かいつかの大風の時だった」

「他にも色々あるよ。中層の北側が崩落したり。でもエレベーターもアンテナも直ったし、だいたいアンテナは塔の設備じゃなくて島の人たちが後付けしたもので」

「水槽は直ってない」

「浄化装置の仕組みがよくわからないんだ。そのまま水を入れても魚がすぐ死んじゃうし、稚魚も高いし、おいそれと試せるようなものじゃない」カイは半分クローディアに説明していた。たぶんアルルもそのあたりの事情は把握しているのだろう。

「それに大風ってだいたい4月に入ってからでしょう。今年はまだ3月。あと1ヶ月の間にもっと強いのが来るかもしれない。タールベルグは大風の度に少しずつ壊れて機能を失っていく。この調子で一体あとどれくらいの間住み続けられるんだろう。もし住めなくなって、他の島に移らなきゃいけなくなったとして、私たちは移動する手段を与えてもらえるんだろうか。移動できたとして、その島に私たちを受け入れられるだけのキャパシティが残っているんだろうか。残っていたとして、その機能はいつまで持つんだろう。繰り返し。きっと人間が絶滅するまでその繰り返し。それはまるで大きな漏斗の中に転がされたビー玉みたいなもので、漏斗の中ならいくらでも好きな場所を走ることができるけど、でもその範囲は否応なく狭まっていって、最後は暗い穴の中に落ちていくしかなくなってしまう。

 確かに塔はこの数百年の間全然びくともせずに立ち続けてきた。でもそれはただ今まで設計者が想定した塔の寿命に達していなかったからなのかもしれない。今まではさほど気候が過酷じゃなかったからなのかもしれない。雨風だってこの10年くらいずっと酷くなってきているでしょう? この先の100年、今までの100年と同じように塔が耐えてくれるなんて、そんな確証はどこにもない。

 確かに塔には自動修復機能がある。多少のことなら人間が手を出すまでもなく解決してくれる。でもそれだって決して永遠のものじゃない。万能でもない。人体や生態系のホメオスタシスと同じ。復元できるレベルのものと、復元できないれべるのものがある。いくらその機能が高度でもいつかは直しようのない致命的なダメージが生じる。だからこそ機能停止した廃墟の塔があり、崩壊していく塔がある。アイゼンと同じ。ううん、アイゼンは寿命でも天災のせいでもない。でも私たち人類は拙くも争いによって塔の死を加速している。終焉を手繰り寄せている。全ての塔がいつかは死んでいく。その時人間は塔なしに生き延びる術を手に入れているのかしら。それとも、もう絶滅しているのかしら」

 アルルはそこでカイの肩に頭を預けた。

「旧文明の人たちはなぜ塔なんてものを造ったんだろう。自分たちのレベルを超える技術が塔の上で開化していくのを期待したから? それとも対処的な延命策に過ぎなかったの? きっと後者でしょうね。彼らは地上の文明をできるだけ完全な形で塔の上に残そうとあらゆる手を尽くした。でもそうやって目先のことに集中していた代わりに、きっとその先のことは見据えていなかった。

 さっき寿命の話をしたけど、私、頑張って調べてみたことがあるの。塔の想定耐用年数が何年なのか、アーカイブにあたって、設計や規格書や議事録まで調べたわ。でもどこにも載っていなかった。だいたい何百年とか、目安さえなかった。おそらく彼らはあえて塔の寿命を設定しなかったのよ。可能な限り長持ちするように造って、そこから計算できるはずの寿命をあえて割り出さなかったのでしょう。あるいは彼ら自身、塔が永遠のものだと信じようとしたの。自分たちの子孫を守ることのできる唯一の装置が果たしていつまで稼働し続けるのか、もう一度地上を解放する日がくるのか、その時子孫たちは生き長らえているのか。たぶん見ないように、考えないようにしていたの。ちょっと考えれば答えなんてすぐにわかってしまうから。

 実際にはフラムのせいで大勢が死んで、人間も他の生き物もほんの少ししか生き残らなかった。塔も減っていく。人間も一緒に数を減らしていく。いつかは誰もいなくなる。この星そのものが墓標になっていく。それが人間の罪であり、緩やかな死は罰なのでしょう。とても長い時間をかけて種の文明が退化していくさまを目の当たりにしながら、避けがたい終わりを見つめながら、それでも生きていかなければいけない。

 私ね、確かに自分自身の死を想像するのも怖いのよ。タールベルグが駄目になるんじゃないかとか、今にこの床が崩れ落ちるんじゃないかとか。でも、それ以上に、何もかもなくなったあとのことを想像するととても心細いのよ。たくさんの人々や他の生き物がいた鮮やかな世界が真っ白な砂だけの景色に変わっていく。それは私の存在だけじゃなく、私が死んでも誰かの中に残るはずだった記憶や意味さえも、根こそぎ全部失われていくということでしょう。個人が認識していた世界だけじゃなく、種や生態系の認識していた世界がまるごと消えていくの。情報量そのものが無になっていく。世界そのものが生まれる前の状態に返っていくようなもの。いつか全てが壊れ、失われ、消えていく。それが怖い、考えたくない。たぶんそういうことなの」


 クローディアはアルルの絶望感がなんとなく理解できた。知っている感覚だ、と思えた。人類種とか、世界だとか、自分はそんな大局的なものの見方をしていたわけじゃない。ただ、サンバレノの天使に追い回され死を望まれるだけの生活はアルルの捉え方とかなり親和性のあるものだった。私は何のために生きているのだろう? 生き続けて、逃げ続けて、その先に一体何が待っているのだろう?

「人間は、誰かに、何かに望まれて生まれてきたのかな」クローディアは言った。

 アルルが少し顔を上げた。

「そうね、それは違うかもしれない。人間という種に目的なんてなくて、ただ滅んでいくことだけを定められた種なのかもしれない。初めからそういうものだったなら、今あえて絶望する必要なんてないのかもしれない」とアルル。「でも、そういう考え方はしたくないんでしょうね、私は、たぶん」

「人間だけじゃなくて、他のあらゆる種の生き物が定められた死や絶滅に向かって生きているのだと思う。ただ人間は種としての一生を明るくするために信教や文明を生み出したの。死は終わりではない。死後の世界がある。文明は発達していく。進歩していく。そう思えるように。アルルはきっと、人間が信教や文明の全てを失っても明るく生きていられるようにしたいんだよ。そのために考えているんだと思う」


 ふと部屋の明かりが消えた。

 真っ暗だ。

 そのあとまた「ドーン」と雷の音が聞こえた。

 クローディアは鞄に手を伸ばしてベルトに吊るしていた電気ランタンのボタンを押した。オレンジ色の弱い光が部屋の中に広がった。レンズの凹凸が縞模様になって壁に映った。

 カイがアルルを横ざまに抱いて頭を撫でているのが見えた。

 クローディアもアルルの横に座ってぴったりと体を寄せ、翼を広げて2人ごと包み込んだ。

 アルルの体が酷くこわばって震えているのがわかった。ぽた、ぽた、と涙がズボンの上に落ちる音が聞こえた。それは彼女の意思とは全然関係なく流れ落ちているようだった。

「どうしてこんなに怖いんだろう。この怖さはどうすれば消すことができるんだろう」アルルは言った。「私は塔の上に適応できなかった人間なのかな」

 彼女の感じている恐怖は本物だ。嵐の度にこれを味わっているのだとしたら、それはどうしようもなくつらいことだろうな、と思えた。

 天使はきっと人間ほどフラムに対して恐怖や絶望感を抱くことができないし、それに、塔が崩れて落ちるとか、そういう危機感もやっぱり薄いのだろう。というか、天使が本当に人為的に生み出されたものなら、そういう感覚を克服するために翼や肺の機能があるのだ。

 だから自分の立場で「あなたの気持ちはわかる」なんて軽はずみに口に出すことはできないとクローディアは思っていた。何かを言う代わりに体を寄せていることしかできなかった。緊張はしていたけれど、アルルの体は柔らかくて温かくて、いかにも女の人の体だった。それはクローディアにとっても落ち着く感触だった。

 そうして長いこと何も言わずにじっとしているとまるで3人の体が1つに溶け合っていくみたいな感じがした。

 停電はなかなか復旧しなかった。

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