シェルター・ミーティング

「聞こえる?」カイが小声で訊いた。

「聞こえる」クローディアも答えた。

「警報だ」

「避難するの?」

「うん。ダメか、結局収まらなかったな」

 ヴィカは普通の島では地区ごとに避難を始めると言っていたけど、タールベルグでは一斉避難のようだ。人口が少ないのでそれで問題ないのだろう。

 2人は厚着して着替えや食料の入った持ち出し用の鞄を背負い、上に雨合羽を被った。テレビを消し、ガスの元栓を閉め、長靴を履いて外に出る。

 外界の様子は帰ってきた時とはかなり違っていた。すっかり日が落ちて真っ暗だし、大粒の雨がバチバチと甲板に打ちつけていた。風は巨大な隙間風のようにウウーン、ホワーンと低く吠えていた。

 まるで魘されている時に見る怖い夢のような景色だった。その闇の暗さや空気の唸りがあまりに鮮明に五感に飛び込んでくる。神経がゾワゾワするような、結構嫌な感じだった。

 カイが何か言った。でも風雨のせいでちっとも聞き取れない。

 ふと空が光った。

 分厚い雲の輪郭が紫色の光に染め出される。次の瞬間には自分の脳味噌が破裂したみたいなすさまじい爆音が襲い掛かっていた。

 雷だ。恐ろしい電圧を蓄えた雲がタールベルグの塔に向かって放電したのだ。一発目は上層に落ちたらしく中層の陰になって見えなかったけど、ほぼ同時に落ちた2発目は中層甲板の端だった。毛細血管のような電気の通り道、避雷針に弾ける火花、一瞬の現象が真っ白な閃光の残像になって網膜に焼き付く。目が強い光に晒されたせいで周りが真っ暗になってしまった。足を止めていたことに気づく。まるで衝撃波に吹き飛ばされたみたいな感覚だった。でも幸い体はここにあった。

「横からくるかもしれない、急ごう」カイが顔を近づけて叫んだ。

 そうか、塔の高度だと雷が上からくるとは限らないのだ。

 とにかく塔を目指す、水溜りを渡り、階段を上る。空き家の間を抜けたところで上の甲板から滴った雨が滝のように道を阻んでいた。頭を低くして思い切って突っ切る。水圧が背中を叩いた。塔の外壁も流れ落ちる雨水の膜に覆われ、扉のロックハンドルが滝行でもするみたいにその流れを割っていた。

 カイがハンドルを握る。ハンドルで弾けていた水がその腕に伝った。滅多に開けないせいか固まっていてなかなか回らない。おまけに手もハンドルも濡れていてグリップが効かなかった。カイはまともに回すのを諦めて踵で蹴り飛ばした。ハンドルが回った。


 エアロックに入って外の扉を閉める。するとと雨の音も風の音もまるで幻覚だったみたいに消え去った。素晴らしい密閉性だ。扉と戸枠の間から泡も吹いていない。「パスッ、パスッ」と換気装置が作動して2人と一緒に入り込んだ外気を追い出した。

 2人は揃って息をついた。冷たく濡れた雨合羽を脱ぐ。カイは内側の扉を開ける前に壁のタッチパネルに触れた。

「やっぱりフラムが吹き上がってきてるんだ」彼は言った。「だからサイレンが鳴ったんだ。ほら、安全基準を少し超えてる」

「そう」クローディアはディスプレイを覗き込んだ。数値はともかく表示が赤くなっていた。「……って、超えてたらだめでしょ。超える前に警報出さないと」

 カイはとりあえず内側の扉を開けて通路に入った。

「あくまで基準だからね。それにここは高度が低いし、島の東側だから吹き上がりが起きやすいんだ」

「風が西から吹いてくるから」

「そう。こう吹いてきて後ろ側で乱流が起きる。この渦が甲板の下の空気を巻き上げる」カイは手を使って説明した。


 通路の奥、吹き抜けは明かりが点いているようだけど、通路の天井灯は全部消えていて薄暗かった。物の形を判別するのに最低限の明るさしかない。

 クローディアは目の前に手を出して頭の中で光をイメージした。真っ黒な背景の中心に白く小さな粒が尾を引きながら集まってくる。白い粒子の集合体はトゲトゲした星型になる。

 でもイメージだけだ。現実には何も起きていなかった。

「何してるの?」カイが訊いた。

「私の奇跡は光を操る奇跡だったの」

「あ、そうだ、そういえば聞いてなかった」

「使えれば便利だっただろうけど、使えてたらここにはいなかっただろうし……」

「魔術にも光を起こすスペルがある」カイはそう言って鞄の中から杖の箱を引っ張り出した。ラウラから貰った木製の杖を握って「レート」と唱えた。

 でも何も起きなかった。

「何も起きないや。上手くいけばこの辺が光源になるはずなんだけど。君のもそんな感じ?」

「うん、まあ、そんな感じ」クローディアは頷いた。ちょっとテキトーな頷きだった。本当はただそれだけの奇跡ではないのだけど、実演なしに口で説明するのは大変そうだった。

「それって共通の奇跡じゃなくて? 奇跡には共通のと固有のがあるって聞いたけど」とカイ。

「電球とかを光らせる奇跡は共通だけど、直接光源を生み出すのは珍しいんだって。だから私のは固有みたい」

「ふうん、なるほど。それは見てみたい」カイはそう言った。キアラやギグリの奇跡を参考に光を操る奇跡がどんなものかイメージしたのだろう。楽しそうな顔をしていた。


 通路を奥へ向かって歩く。塔の根本に近い分、心持ち吹き抜けまでの距離が長く感じられた。造りそのものは中層と変わらない。ただ他に全然人気がないし、そのせいか空気がかなり埃っぽかった。外が雨だったので余計にそう感じるのだろう。

 通路の両側には扉が整然と並んでいて、そこが大部屋で仕切られた中層とは違っていた。いくつか覗いてみたけど、それぞれの小部屋はベッドが4つ置ける広さで、昔の人たちが残していったらしい家財道具がちらほらと置かれたままになっていた。布団、旅行鞄、小さな箪笥、食器、人形……。そのせいかどの部屋も少しカビ臭かった。塔の保守システムは人間の住空間には手を出さないようになっているのかもしれない。

 見覚えがあるな、とクローディアは思った。地上の廃墟の景色に似ていた。まるで遺跡だ。でも地上ではカビの匂いはしない。気密性が高い塔の内部に特有の匂いだった。

「ここを借りなきゃいけないの?」クローディアは訊いた。

「そんなことはないよ。こんなに生活感が残っているのは下の方だけなんだ。少し上れば空いてる部屋がたくさんある」


 吹き抜けは明るかった。水道工事のあときちんと消したはずだから、誰かがまた点けたのか、サイレンと同時に灯るような仕組みになっているのかもしれない。そもそも誰がサイレンを鳴らすのだろう? 塔の機能なのだろうか。

 カイは吹き抜けに出て壁のハッチを開いた。オレンジ色のブランケットがぎっしり積まれていた。カイは上から2枚下ろしてクローディアに渡した。ふかふかしていい匂いだった。洗剤じゃない。オゾン脱臭にかけた匂いだ。これは塔が用意したものなのだろう。1ヶ月か2ヶ月に1度は洗濯してよく干しているのかな。そんな感じだった。

 それからエレベーターを呼んだ。きちんと運転している。フラム警報だから塔の内部にはあまり影響がないのだろう。揺れそのものは想定内に収まるレベルということか。

 とはいえ、普段あまり使わないせいか、それとも中層で大勢が使っていて手が回らないのか、ケージはなかなか下りてこなかった。扉の前で立ったまま5分くらいも待たされていた。

 その間まるで物音ひとつしなかった。エレベーターの階数表示は動いていたし、塔そのものも揺れていた。でも音はしなかった。作動音というものがまるでないのだ。騒音に満ちた塔の外側とは違う。物体が擦れたり震えたりすれば音が鳴るはずで、何よりその静かさが旧文明の技術力を誇示しているように思えた。濡れた雨合羽から滴る水の音だけが時折ぽたぽたと響いていて、その音が耳に刺さるくらいだった。

「ねえ」とクローディアは呼びかけた。静けさに耐えられなくなったのかもしれない、と思う。

 声が透明な殻を破っていくように吹き抜けの中に反響する。なんだか自分の声じゃないみたいだった。

「塔の中に住んでいる人はいないのかな」クローディアは訊いた。

 カイは上を見た。声の行き先を確かめたのかもしれない。

「聞いたことがないね」

「わざわざ風の吹くところに自分で家を建てなくてもいいのに、と思わない?」

「……思わなくはない、けど、生まれてからずっと甲板生活だからなあ。そんなことは不思議に思わなかったな」

「エレベーターだって――まあ、なかなか下りてこないのは別として――きちんとしてるし、わざわざ外のあんなガタガタのケージを使わなくてもいいのに」

「塔の中はすごく密閉されてるし、空が見えないのが息苦しかったんじゃ……」

 カイが深く考え込むより先にエレベーターの階数表示が動いた。今まで100階のあたりでうろうろしているだけだったのが、すーっと下まで進んできたのだ。


 扉が開いて乗り込もうとしたところで中に人がいることに気づいてカイはびっくりして飛びのいた。相手も「わああっ」と叫んで後ろの壁にぶつかった。

 クローディアは人が出てきたこと自体には驚かなかったけど、その叫び声のせいでビクッとしてしまった。

 誰かと思ったらアルルだ。紺色のスキーウェアを着込んで探検隊みたいな横長のリュックサックを背負い込んでいた。自力で引っ越しでもするみたいなすごい大荷物だ。

「そんなに驚かなくても……」とクローディア。

「カイ?」

「うん――」

 カイが答えている間にアルルはケージから出てきてカイに飛びついた。

「よかった」

「どうしたのさ」

「なんだか心細くて、この階だったら2人がいるかなと思ったの」

 人の乗り降りがないせいでケージの扉が閉まりかけた。クローディアは慌てて手を差し込んだ。一度逃したら次いつ下りてくるかわからない。

「でもこんなところにいると思わなかった」とアルル。

「こっちのセリフだよ。まさか乗ってるなんて」カイは少し苦しそうに答えた。アルルが結構な力で締め上げているのだろう。

「アルルが呼んでくれたからケージが下りてきたんじゃない?」クローディアは言った。2人の邪魔をしたいわけじゃないけど、扉がまた閉まろうとして暴れていた。できれば手短に済ませてほしかった。

 カイはアルルの背中をぽんぽん叩いて離れるように促した。


 3人でケージに乗り込むと扉は心なしか乱暴に閉まった。ケージもすぐに動き出した。

「私が呼んだから?」とアルル。

「もう10分くらい待ってるのに全然下りてこなかったんだよ」

「どこへ行くの?」

「上の階。ここは昔の人たちのものが多くて」

「じゃあ、私のところに来てよ」アルルはカイにそう言ったあと、クローディアにも視線を送った。

 ああ、ちゃんと気にかけてくれてるんだ。そう思った。少し安心した。天使はべつに裸で外にいたって死にはしない。でも、2人の近くにいてもいいんだ。


 エレベーターは78階で止まった。そういえば外のオンボロエレベーターでもアルルの階は78だった。内側の階数に合わせて外側のエレベーターを設置したのだろう。

 降りると下の階と同じように人気のない仄暗い空間が広がっていた。

「ここまで上っても人気がないのね」クローディアは言った。

「中層から見ればうちも下の方だから。人が集まってるのはもう10階くらい上かな」アルルが答えた。

「うちが下すぎるんだよ」とカイ。

「もっと上の方が安全なのに、目の前が飛行場だからそこが譲れないのよね」

「まあ」

 アルルは吹き抜けに一番近い小部屋に入った。中には簡易ベッドが4つ並んでいるだけだった。下の部屋ももともとはこの状態だったのだろう。

 各々荷物を下ろしてベッドに座る。薄くてクッションのないマットレスだった。

「ああ、これでちょっと安心」アルルは一息ついた。

「ほんとに、怖がりなんだから」カイがやれやれと答えた。「ねえ、普段から塔の中に住んでる人っていないよね?」

 さっきの話だ。

「聞いたことない。少なくともうちに来る時に塔から出てくる患者さんはいないわね」

「それがなんでだろうってさっきクローディアと話してたんだ」

「そんなの、こんな不気味なところに好き好んで住もうなんて人はいないんじゃないかしら」アルルは当然のことみたいに言った。

「不気味?」クローディアは訊き返した。そういう感じ方もあるんだ。意外だった。

「そうでしょ? 薄暗いし、なんだかすーっとするし。だからカイのところに行くのもちょっと嫌なの」

「今朝来た時も中のエレベーターを使ったの?」とクローディア。

「そうよ。だって外のエレベーター、あれものすごい恐いじゃない。がたがたして、動く時にちょっと浮くし。最初に乗った時なんかもう恐すぎてお漏らししちゃったくらい」

「えっ」クローディアは思わずアルルの股に目をやってしまった。

「えっと、子供の時のことね。さ、最近じゃないわよ」アルルは両手で股間を隠した。

「そう、そうよね、生まれた時からこの島にいるんだから」

「うん。高いところが恐くなったのはそのせいかもしれないと思ってるの」

「あれ、でも、外壁の扉すごく固くなかった?」

「それ、南側の扉?」

「いや、東側だよ」カイが答えた。

「私がいつも通ってるのは南側なの」とアルル。

「ああ、なるほど」

「ちょっと怖いけど、それでも外のエレベーターを使うよりマシよ」

「アルルは怖いものが多いのね」

 そう言ってクローディアが苦笑するとアルルも肩を竦めた。

「そうかもしれない」

 アルルがさっき「心細い」と言った意味がわかった気がした。彼女にとっては塔が揺れているだけでも苦痛なのに、まして塔の中に押し込まれるなんて堪ったものじゃないのだろう。

 それでもいくらか気持ちが和らいできたのか上着を脱いでベッドのボードにかけ、赤みがかった髪を手で整えた。中は水色のトレーナーだった。


 要するに、教室にしろエレベーターにしろ、島の人々が塔の中に入らないわけではないのだ。ただ住みつこうとは思わないようだ。それはなぜなのだろう。下層の方にだけ昔の人々の遺物があって中層の方にはない。そのことと何か関係があるのだろうか。

 クローディアはベッドにブランケットを敷いてその上にうつ伏せになって考え始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る