プレシピス・アーク

「なんだ、コウモリか」ボスがうろたえて降下を止めた。

 クローディアは足の下に目を凝らして飛び回る黒い影に焦点を合わせた。

 コウモリか?

 いや、翼が皮膜じゃない。羽毛の翼だった。

「コウモリじゃない。ツバメだ」クローディアはそう言ってボスを抜かして降下した。

「ツバメ?」

「巣があるんでしょ」

 そのまま降下していく。徐々に飛び回るツバメたちに囲まれてきた。まるで黒い雲の中に突っ込んだみたいだった。セパレーターを乗り越え、その下に出る。

 顔のすぐ横を掠めて黒い影が通り過ぎた。風圧が頬を撫でる。

 セパレーターの下のオーバーハングと壁との間の隅に泥で固めたツバメか何かの巣がびっしりとくっついているのがわかった。巣の形は壺を横倒しにしたような具合、巣穴がくっきりと丸い。普通のツバメの巣はお椀型をしているからちょっと違う。

「イワツバメだ」

「なんだってこんなところに」

「ツバメと違ってイワツバメは人気があるところには巣をつくらない。こういう断崖を好むの」

「そういうことじゃなくて、どこから入り込んだのか」

「外壁の扉が開いているんじゃない?」

「80階だろう。常時開放しているのは中層だけのはずだ。としたら、通風口か。微妙に壊れてるってことか」

 再び周りを見渡す。ツバメたちがトラスの間を縫って西側の通路に飛び込んだり飛び出してくるのが見えた。

「あっちだな。しかし、アルルの階の取水弁はもう少し下のはずだが」

 目で水道管を追っていく。水道管が枝分かれするところに取り付いた四角い機械が見えた。だが何か黒っぽいもので丸くコーティングされていた。まるで鍾乳石みたいだった。

「フンだ」

「フンが積もって弁が動かなくなってるのか」


 目の前の集合住宅の中でツバメたちがピチピチとけたたましく鳴いている。いささか声が通りづらかった。ボスは少しロープを巻いてセパレーターの表面に足をついた。

「密閉構造じゃないの?」クローディアもリールのハンドルを回してボスに高度を合わせた。

「点検の時に手動で切り替えられるようにボルトが飛び出してるんだ。中の弁と連動しているから、そいつが固まって弁も共倒れになってるんだろう」

「これだと弁だけ交換しても根本的な解決にはならない」

「うん。上に巣があるのが原因だ。出入り口を塞げば入ってこなくなるだろうが、取り去るにしてもこれだけの数になるとなあ……」

 クローディアは借り物の工具ポーチから懐中電灯を取り出して下から上まで配管を辿るように光で照らした。角度が浅いので少し見づらい。翼を広げて正面に風を送る。ロープに吊られているので体を浮かせる揚力は必要ない。かなり楽に体が壁面から離れた。下方の配管が見やすくなる。もう一度照らすと青色のパイプがくねくねと壁面を這ったりトラスの表面を渡ったりしている様子がよく見えた。かなり広範囲にわたって白っぽく鳥のフンが飛び散っている。簡潔に言って不潔だ。

「汚いな」ボスも同じ感想だった。

「そういえば、ここには整備用のロボットはいないの?」

「あそこにいる」ボスは取水弁のすぐ下のあたりを指差した。壁面から逆アーチ状の骨組みが張り出していた。

「あの弓なりの?」

「そう。壁面にレールが走ってるだろ」

 確かにその根元は配管の束の両脇にあった。レールの上を上下に移動しながら逆アーチの上に取り付けたセンサーやアームで点検・整備をやる仕組みのようだ。

「今は動きを止めてある。ラペリングの最中に邪魔されたら危ないからな」

 ということは少なくとも10分程度は停止しているのだろう。でもよく照らしてみるとすでに20発くらい鳥のフンを食らって無惨な状態だった。それだけツバメたちの爆撃が激しいのか、あるいはもう少し前からそこに留まっているような感じがしないでもなかった。


「もしかするともう何度か取り換えているのかもしれないな」とボス。「だが巣は壊さなかった。俺たちもひとつ両方生かす手を打ってみるか」

「両方?」

「鳥と人間を。見ろ。幸い巣の真下にあるのはあの1つだけだ。ちょっと配管を迂回させてやれば直撃はしなくなるはずだ」

「パイプのルートを変えるのね。でもそれってそのあとロボットの認識がバグったりしない?」

「あれは別に配管のマップを持ってるわけじゃないんだ。あくまで現物を見て1回1回位置を合わせている」

「改造に対応してるんだ」

「その方が柔軟だろう? ――カイ! 聞こえるか?」ボスは上を向いて大声で呼んだ。

 少し間があって「はーい!」と返事が来た。その声は深い穴の中でわんわんと反響していた。

「ブレナンも来てるか」

「います!」

 たぶんブレナンというのが配管に詳しい工員なのだろう。名前は初めて聞いた。

「配管のルートを変える。取水弁のスペアと配管10メートル、用意してくれ」

「はーい」

 カイの返事を確認するとボスはセパレーターの点検用ハッチを開いて目当ての配管のコックを閉めた。それからロープを伸ばして取水弁の高さまで下り、整備用ロボットのアーチを足場にして配管を留めているナットを回し始めた。

 ロボットといってもほとんど重機のようなもので、いくら踏んでもびくともしない。端まで行くと制御盤があって、タッチパネルに触れると横についた赤いランプが何度か点滅した。「今は強制停止中だから動けないよ」まるでそんなふうに返事をしているみたいだった。

 ボスがパイプを外すと中に溜まっていた水がじょばっと漏れ出した。水滴になって落ちていく。でもどれだけ待ったところで地面についた音は聞こえてこない。途中で蒸発してしまったのだろうか。

 作業の最中にもツバメたちのフンは周りに落ちてきていた。ツバメたちは人間を気にしている。でも恐がっている様子はない。威嚇もしてこない。もともと人間を恐れる種類の鳥だったのかどうかまでは知らないけど、もしそうだったとしてもこの千年の間にそんな習性は忘れてしまったのかもしれない。

 それはとても長い間人間がイワツバメに危害を加えていないということを意味していた。捕まえて食べたりする必要がなかったのだ。大事にして共生してきたのか、それかお互いほとんど無関係に世代を継いできたのか、どちらかだった。


 クローディアはボスが取り外した取水弁を受け取ってカラビナでハーネスとつなぎ、リールを巻いてセパレーターの上の階まで持って上がった。作業の邪魔なのでとりあえず置き場が欲しいのだけど、下の階だとツバメのフンが降ってきそうで嫌だった。

 再び手摺を乗り越えて戻るとボスもセパレーターの高さまで戻ってヘルメットにかかったフンを拭いていた。移設の下準備は終わったようだ。

「あの巣、土でできてるのか」ボスが呟いた。

「うん。人間たちが作った花壇や自家菜園の畑から持ってくるんだと思う」

「そういうことか」

 クローディアは塔の上を見上げた。照明の列が連なって海の中を漂うホヤのように揺れていた。その手前を黒い影になってツバメたちが乱舞していた。

「あのロボット、まるでツバメたちの巣を壊すのを躊躇っていたみたい。そうは見えない?」

「そういうプログラムなんだろう」

「塔を設計した人間が意図的にそうした」

「ああ」

 少し落ち着いたイワツバメたちが休む場所を探してセパレーターの角にもとまり始めた。白と黒の小さな鳥。嘴と脚が短く、尾が長い。つぶらな黒い目で時々こちらを見下ろしていた。

「塔というのは人間だけのためのものではない。他の生き物にとっても揺り籠なのね」クローディアは言った。

「その言い回しは偽善的だな」とボス。

「?」

「人間もまた生態系を形成する種の1つ。それだけのことだろう。人間は他の多くの種の生き物が活動する生態系の中でしか生きられない。人間の生存環境を再現しようとすれば必然的に生態系を構築しなければならない。何も家畜だけが人間の生存に必要なわけじゃない。もし他の生物の手を借りずに人間の生存環境を再現しようとすればあまりに莫大なコストとエネルギーを要したはずだ」

「でも、この状況でしょ。それを意図したにしては対処手段の準備が中途半端だと思うのだけど」

 ボスはしばらく黙って考えた。

「たぶんその判断は俺たちに任せたんだろう」

「どういうこと?」

「もし本当に塔の大事な機能にとって障害になるものなら容赦なく排除していたはずだ。でもそうはしなかった。排除する必要はない。そういうことじゃないか。共生しろ、そのための手段を探れ、意識しろ。そう言っているんじゃないか」

「それってすごく好意的な受け取り方」

「せっかく付き合ってやったのに酷い言い草だな」ボスは肩を竦めた。「さしずめイレギュラーに対処するためのプログラムを組むのが面倒臭かったんだろう」

 ボスはクローディアのヘルメットの上にウェスを置いてツバメのフンを拭った。クローディアもしばらく整備ロボの上で作業を手伝っていたのでフンまみれだった。


 セパレーターの上からカイが顔を出した。貨物用のエレベーターで資材を持ってきてくれたようだ。

「鳥がいるの?」カイが訊いた。

「イワツバメ。セパレーターの下に巣があって、取水弁がフンまみれになってるの」

 カイは身を乗り出して下を覗き込んだ。ちょっと危ない体勢だった。

「ああ、下から見た時はトラスの陰になっていてわからなかったんだ」

 それからパイプを下してもらってボスが配管を横に伸ばす作業を30分くらいで終わらせた。壁面に穴をあけて新しい取水弁を設置、パイプをつなげてナットを締め、セパレーターのコックを開けて水を通す。漏れもない。取水弁を手動で切り替えてアルルの階の配管に水を通す。パイプを握るとひんやり冷たく微妙に震えていた。きちんと中に水が通っている。

 通路に降りてロープを外し、西側の通路の奥を見に行った。ツバメたちは天井の通風口から出入りしている。外界につながる二重の扉を開けると奥行き20mほどの小さな甲板が広がっていた。外に出て振り返る。通風口は扉の少し上だ。細長いパイプ状のものが突き刺さっていた。

「手摺の支柱か」ボスが呟いた。

 甲板の縁を見ると確かに一部手摺がひしゃげたりなくなったりしていた。強風で飛んできたものが当たって飛ばされたのだろう。もちろん昨日今日の話ではない。ツバメの巣の規模からしてもう数年前からこの状態なのだ。でもあまりに人の出入りのない階層なので誰も気づかなかった。

 通風口の出口は直径50㎝程度。とはいえ正常ならルーバーで仕切られているから小鳥でも入り込めるような隙間はない。おまけに内部はフラムの進入を防ぐためのフィルターで塞がれているはずだ。ツバメが悠々と出入りしているということはパイプはそこまで貫通しているわけで、結構な勢いで突き刺さったに違いなかった。

「どうするの?」

「もう何年もこのままなんだ。下手にいじくるより放っておく方が安全だろう」


 でも、他の鳥たちはどうしているのだろう? イワツバメにとっては暗く切れ落ちた塔の吹き抜けはいい住処かもしれないけれど、大きな鳥は通風口を通れないし、小さな鳥なら通風口そのものくらいの奥行の窪みで十分だろう。

 そう思って顔を上げた。中層甲板が巨大な庇になって空を覆い隠していた。甲板の裏には格子状の支持桁がびっしりと貼りついている。ちょうどその一角に小鳥がぱたぱたと羽ばたいて着地するのが見えた。そうか、他の鳥たちは塔の中でも甲板の上でもなく甲板の裏を使っているんだ。途端に納得が行った。嵐でも支持桁の肉抜き穴にしっかり掴まっていれば風雨は甲板が遮ってくれる。それで十分なのだ。

 扉を開け放ったせいでツバメたちはシメたとばかりに戸口から出入りし始めていた。放っておくと扉まで開けっ放しにしておかなければいけなくなってしまう。ツバメたちを挟んでしまわないようにタイミングを計ってそっと扉を閉めた。

 塔の中に戻ってメンテナンス用のコンソールから整備ロボの強制停止を解除する。ロボットはモーターを唸らせながら動き出し、足跡とフンで汚れたセパレーターの表面をピカピカに磨き上げると満足げに目の前を通り過ぎてゆっくり上方に去っていった。

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