クライシス・イブ

 16時、タールベルグは雨雲に包まれた。黒く重たい雲は絶えず強風に吹き流されて次から次へと押し寄せてきた。中層甲板の上はまるで海の中を進む潜水艦のようだった。甲板の上を走る雲のせいで甲板の方がものすごい速さで移動しているみたいに感じられた。

 16時20分、最後の貨物機がエンジンに点火した。機体後部のカーゴドアを全開にして金属マテリアルを詰められるだけ詰め込んでいた。身軽な方がよさそうだけど……。

「いやいや、風が強い時はな、積みすぎくらいの方がいいんだよ。その方がどっしりして多少の風じゃ流されない。機体が安定するのさ」

 退職のタイミングを逃したみたいなヨボヨボのパイロットがヨボヨボのタバコを咥えたまま島の工員たちに答えていた。

 素人にはわからない。でもそういうものなのだろう。名前は知らないけどスフェンダムより古いタイプの貨物機で、機体の側面は外板がベコベコだしところどころ錆が浮いていた。それでも翼の下についた4つのエンジンは立派に青い炎を吐いて機体を押し出し、滑走路を目いっぱい使って飛び立たせた。言われてみれば確かにコースがブレない。これだけ雲がかかっていれば乱気流もかなりあるはずで、それでもまるでふらつかないということは「どっしり」が効いていたのだろう。


 16時50分、駐留エトルキア軍が引き上げる。まずアネモスが飛び出した。さすが戦闘機、加速も速いし滑走路を半分も使わない。エンジンが甲板に近いせいだろう、排気で熱された雨が白い煙に変わり、1機飛び立つごとに滑走路を覆い隠した。飛び立った戦闘機がまっすぐ飛んでいったのかどうか確認できないくらいの密度だった。次発は視界が戻るまで滑走路の端で1,2分待ってから離陸に入った。

 駐留部隊は戦闘機4機とサポートの中型輸送機2機だけど、輸送機の前にヴィカのベレットが飛び立った。

 ところがヴィカ本人は駐機場で傘を差してそれを見送っていた。

「フラップ収納時の翼面荷重はアネモスと同レベルだからな。なかなか安定しているだろ」

 話の中身はよくわからなかったけど、実際ベレットは比較的まっすぐ飛んでいって雲の中に消えた。ジェットがないので離陸後の滑走路上はアネモスよりずっとクリアだった。

「あなたの飛行機じゃないの?」クローディアは横並びになって訊いた。

「知り合いに任せたんだよ」とヴィカ。

「自家用機を、軍の人に?」

「この島に置いとくと邪魔になるだろ」

 ヴィカはかなり寒そうだった。革ジャン1枚ではさすがに風雨が堪えるらしい。

「こんな時にまで無理して残らなくてもいいのに」

「こんな時だからこそ辺境の島の嵐を見てみたいんじゃないか。そう怒らないでくれよ、人間は飛行機と違って場所を取らないんだから」

 ヴィカはクローディアの方に傘を差し出した。骨が2本途中で折れて布地が垂れていた。そもそも2人で入れるような大きさじゃない。

 クローディアは一歩離れて頭の上に翼を広げた。

「撥水なのか」

「ううん。でもどうせシャワー浴びるし」

「ふうん」ヴィカは自分の真上に傘を持ち直した。「で、いざとなってシェルターに入れてもらうとしても、島の人には迷惑はかけないよ。人口も500人ない。塔の中は十分すぎるほど広い」

「シェルターって、塔の中の?」

「ああ。まあ、塔そのものがフラムに対するシェルターみたいなものだけどね」

「旧文明の人たちは地上から塔の中に逃げ込んで――」

「そうだよ。長い間耐え抜いて、そうして甲板を広げてきたのさ、島を。――そうか、クローディアは地上が長いから、塔の上でまともに生活した経験も知識もないというわけか。やはりだな」

 ヴィカの言葉の後半は貶しのように思えた。クローディアは特に反応しないことにした。

「定員ってどれくらいなの?」

「シェルターの?」

「うん」

「5万人。エトルキアの一般的な塔で5万だ。これは島のタイプに関わりない。塔本体の機能だからな。塔のデーターベースのプロパティにそう書いてあるのさ」

「5万に500なら楽々だわ」

「だろう?」

「でもそれって寝床と水と非常食の用意がありますってだけのものではないの?」

「だろうね。5万というのはあくまで何の産業も起こさずに5万人が5万人最低限の生活で我慢した場合の話だろう」

「そこには飽食はない。水の無駄遣いもできない」

「うん。島の上で手に入れた豊かさを持ち込もうとすれば当然もっと少なくなるだろう。それでも方々の1万都市できちんとインフラのキャパシティがやりくりできているんだ。いずれにしても500なら何の問題もない」


「都市や基地の対策と何か違う?」とクローディア。

「何か?」

「辺境の島の嵐は」

「ああ。都市だと風速や降水量にレベルがあって、段階によって避難指示をかけるんだ。放送でもって地区ごとに呼びかけて、甲板の端の方の住民から塔の中のシェルターに通す。塔の構造からして一斉に押しかけられたら通路やエレベーターが詰まるからね」

「面に広がっているものが点に集まってくるのだものね」

「うん。点からさらに上下に分散させる手間もある」

「端の方から、というのは、端の方が被害を受けやすいから?」

「そう。それに最下層ともなると端の家はかなり揺れるからね。帰ってきたら部屋がすっかり模様替えされてた、なんてジョークもある」

「ロクな模様替えじゃないでしょ」

「下層より上層の方が指示が早いんだが、それも同じ理由だね。家に留まってると船酔いが酷いんだ。そうそう、ジョークといえば、嵐の日は汚水が詰まる、というのもあったな」

「基地は違う?」

「基地は全体がシェルターみたいなものだからね。一応戦闘配置になって交代制で持ち場を回す。レベルはあるけど、避難がどうとかじゃなくて、戦闘機能をどれだけ維持するか、という話だね。酷くなるとレーダーも火砲も格納しちゃうから」

「ふうん、狙い時なのね」

「あのね、基地が防空を諦めるくらい酷い天気なんだよ。攻められるものなら攻めてみるといい」

 ふと突風が吹いてヴィカの傘をめくり上げた。完全な裏返しで、ヴィカが風で押し戻すと元通りになった。折れているのはもともとの2本だけだ。

「まったく、まだ使えるものを捨てるとは」

 ヴィカはたぶんこの傘を島に運び込まれたゴミの山から探し出してきたのだろう。

「いずれにしても、この島がどれだけシステマチックに対応するのか、ちょっと興味があるわけだよ」

 ヴィカはくるりと体の向きを変えて歩き出した。

「さて、そろそろ帰るかな。東側といっても何の対策もしないのはさすがに恐いからね」

 中層から1階層下の東側のエリアを駐留軍が借り上げていて、ヴィカもその一角に入っていた。たぶん仕事で留まっていたのと同じ家を使っているのだろう。

「駄目になったらシェルターにお邪魔するよ。人間だけなら1人2人増えたところで誤差みたいなものだろう」


 カイ含めて工員たちは貨物機が飛び立ったあとの始末を進めていた。給油車やトップリフターも格納してしまわないといけない。瓦礫の山も飛行機も車両もすっかりなくなった甲板の上はちょっと感動するくらい真っ平らで、なんとなくケーキ皿を思わせた。

 カイを待って下りのエレベーターに乗り、アルルの家に寄って水道管のことを伝えた。水はきちんと出ているという。診療所も早めに閉めて雨戸を下ろしているところだった。

 カイの家に入って扉を閉めるとカビのような匂いが鼻を突いた。何かと思ったけどツバメのフンだ。自分が臭い。風が強いから外では全然気づかなかった。

「先にシャワー浴びていい?」

「どうぞ」カイも感じたようで顔をしかめていた。

 クローディアはヘルメットとハーネスを持って服を着たまま風呂場に入った。

 浴室の中は明かりをつけても暗く、床は鉄板みたいに冷たかった。早くお湯を浴びたい。シャワーのノブを捻ると壁の向こうでガコンガコンと配管の暴れる音がして時間差で水が噴き出した。しかも茶色く濁った水だったので思わず「わッ」と声を上げて飛びのいてしまった。

「どうした?」カイが訊いた。脱衣所の外からドア越しに言ったくらいの声量だった。

「水が茶色いよ。キッチンも流しておいた方がいいと思う」

「配管を弄ったせいか。わかった」

「揺れのせいじゃないの? ここは同じセパレーターじゃないでしょ」

「かもしれないけど、大元のポンプも開けてるし、方々で配管をリンクしてるから……」

「うん」

「平気?」

「我慢する。給湯器が死なないといいけど」

 それからシャワーを出しっぱなしにしてお湯が無色透明になるまでたっぷり5分くらいも待たされた。幸いお湯はお湯なので浴室は温まってきたけど、微妙に湿ったまま待機するのはなかなか酷な体験だった。

 まず全身お湯をかぶって、それからヘルメットをスポンジで拭い、ベルト、ハーネス、Tシャツ、ツナギと洗濯洗剤でゴシゴシ洗っていく。フンそのものはさほど頑固な汚れではなかったけど、思いのほかたくさん被弾していてどこを洗えばいいのか探すのがなかなか大変だった。姿見に映してみると翼も結構汚れていた。服ならいいけど直接自分の体にくっついていると思うとなんだか気持ちが悪い。念入りにシャンプーして上がる頃には体もよく温まっていた。確かに天使は寒さに強いけど、でも温度を感じないわけじゃない。

 ぽかぽかしてリビングに出ていくとカイがストーブの前にうずくまっていた。白っぽい髪が火の色に染まっていた。彼だって傘を差さずに外で作業していたのだ。体が冷えていたはずだ。

「ごめんね。お待たせしました」

「水は?」

「うん、透明になったよ。まだ時々鳴いてるけど」

「体洗ったあとに茶色いの被るのは嫌だなあ」カイは言いながらよたよた立ち上がって浴室に向かっていった。


 クローディアはストーブの前で翼を広げ、首にかけたタオルで髪を乾かした。テレビは気象情報一色だった。特に風が強い地域、高度ごとの雲の分布、早くも被害を受けた島の映像……。かなり映りが悪くなっていた。雲同士の摩擦で放電が起きて電波を遮っているのだろう。

 壁越しに水の跳ねる音が聞こえてきた。カイのシャワーの音、そして横殴りの雨が窓や外壁を叩く音。同じ水滴のはずなのにその質感はかなり違っていた。きっと大粒で勢いも強いのだろう、雨の方がずっと暴力的だった。窓は雨戸を閉めていたけど、それでもガタガタ揺れて窓枠とサッシの間からカニみたいに泡を吹いていた。

 そういうわけで夕食の前に開口部という開口部の目張りをすることにした。クローディアがガムテープを切り、カイが貼り付けた。

 このまま状況が酷くなってシェルターに逃げ込まなければならなくなるかもしれない。それならわざわざ家に帰ってこなくても予めシェルターに入っておけばいいのかもしれない。でもぎりぎりまで家にいることにはきちんと意味がある。家に人がいなければこんな窓の異変には気づけないまま家が水浸しになっているかもしれない。住処を守るために必要な行動なのだ。

「こんなことしたって家ごと土台から飛んでいっちゃうかもしれないよ」カイは言った。

「オズの魔法使いみたいに?」

「オズの魔法使い?」

「知らない?」

「聞いたことはあるけど、見たことはないね」

「原作は本よ。そういう始まり方なの。家ごと飛ばされて魔界に行くっていう」

「なかなか破天荒なことをするね」

「破天荒な筋書きが流行った時代だったんでしょ」

「そういえば、地上はどうなんだろう。この風は地上でも吹いてるんだろうね。風の干渉によってはフラムが吹き上がってくるわけだから」

「うん。でも上空ほど強くはないと思う。地形に引っかかって減速するの。あとは、砂かな。風が砂を運んでくるから、雨が降らないと街の西側が砂に埋まって、一晩で10メートルくらいの砂丘ができることもあるんだ」

「そいつはすごいな」カイは感嘆してちょっと手を止めた。「そんなにすごいならとっくに街ごと砂に埋まっていそうだけど」

「西風は春だけだから、他の季節の風や雨が押し戻したり均したりしてくれるんだと思う。そうじゃなかった街は実際埋まっちゃったんじゃないかな。私も誰も知らないところで砂の下に眠ってるの」


 2人はパンとソーセージで夕食をとり、それからリビングでじっとテレビを見守っていた。ニュースの情報は刻々と変化するわけでもないし、尺を持たせるためか何度も同じ映像が流れた。それでも早く寝ようとか他に何かしようという気にはなれなかった。その気持ちはたぶんカイも同じだった。油断している時に何かが起きるのが嫌だったのかもしれない。

 それでもそうしてまどろんでいるうちに緊張が少しずつ解けていった。時間が経てば次第に風も雨も弱まっていくんじゃないかという楽観的な予感が頭を満たしていった。色々準備したけど、別にそれが活きなくてもいいんだ。一眠りすれば何の憂いもない晴れ渡る朝がやってきているんじゃないか。そんなふうに。そして眠気が瞼まで上ってくる。今日はよく働いた。疲れた。ぐっすり眠れそうだ……。


 けれど10時を過ぎて間もなく、風の唸りの中を割ってサイレンの音が聞こえてきた。空を覆うような不吉な響きのサイレンだった。




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