タワー・シックネス
ヴィカ・ケンプフェルはレトロな革製のフライトジャケットにジーンズ、ハーフブーツを身に着け、おまけにゴーグル付きの飛行帽を頭に乗せていた。コスプレだろうか?
「しかし、ひどい揺れだな。手摺がなかったら結構恐いぞ」ヴィカは口ではそう言いつつ手摺なんか掴まずに上ってきた。
「なにか用?」
「いや、上から見えたから、なんでこんなところにいるのか気になったんだ。それだけさ」
「暇なんだ」
「バカンスだからね」
ヴィカが喋るとマストの上にとまったカラスたちがガーガー鳴いた。まるでヴィカの声を遮ろうとしているみたいだった。
「こんなところ?」
「船酔いしそうだ。感じないのか?」
「あまり」
「そうか、天使は三半規管も強いのか」
「あなたが弱いんじゃない?」
「かもね。よろけて落っこちたら助けてもらわなきゃ」
「まあ、いいけど」
ヴィカは手練の魔術師だ。
「しかしひどい風だな。東部でもこんなに吹くものか」とヴィカ。
「空軍はどうするの?」
「私はバカンスで来てるんだ。仕事じゃない」
「知らないの?」
「知らない、と言いたいところだが」
「知ってるのね」
「ネーブルハイムまで退避する。中層の格納庫はヤードの資材を入れるって話だから、この島には戦闘機の居場所がないだろう。かといって露天で置いておくわけにもいかないし、あまり天気が悪いとわざわざ置いといても飛びようがないからね。今日中に移動するんじゃないか」
ヴィカが目の上に手を翳してマストを見上げた。マストを見ると塔の揺れがよくわかる。マストの揺れに少し遅れてカラスたちも揺れていた。
「ここでカラスを飼ってるのか?」
「私が?」
「うん」
「ううん。勝手に集まってるだけ。私の家でもないし」
「つまり、ここの気象士はずいぶんカラスになつかれているわけだ。本人はいないのか?」
「どっか行っちゃったの」
「でも、最近だろう? クローディアがその人のことを知ってるんだから」
「そうね」
「エトルキア軍が嫌いなのか?」
「え?」
「その人は。男か女か知らないが。まるで避けてるみたいじゃないか。今戻らないってことは相手はルフトやベイロンじゃない」
そう、確かにそうかもしれない。ラウラの蒸発にきっかけがあるとしたら、クローディアか、ベイロンか、エトルキア軍だった。それはクローディアも考えたことがあった。でもその先に進むには情報が少なすぎた。
「名前は」ヴィカは訊いた。
「ラウラ。ラウラ・クレスティス」クローディアは答えた。ここまで来ると教えないのも逆に詮索されそうで嫌だった。
「ラウラ、ね。ああ、聞いたことがあるよ。魔術師だ」
「有名なの?」
「どうかな。私くらい都会っ子かつ魔術院に近い人間で、まあ、知っているかな、くらいのものだな」
「自慢?」
「まあね。ラウラはいわゆる薬を作るだろう? 魔力を込めたとかなんとか」
クローディアは頷いた。
「あれは魔術院的には亜流なんだよ。たぶんそれで中央と折り合いが悪いんだ」
ヴィカはこの辺境の島の最上層の住人がラウラだと知って納得したようだ。クローディア的にもそれは悪い反応ではなかった。敵視するような反応だったら困っていた。
「ヴィカ、あなたから見てカイはどうなの?」
「どうって?」
「魔術の才能は」
「ああ……」ヴィカは悩んだ。「パワーは感じるんだ。私のロッドでかなり重い熱性魔術を撃てたわけだからな。ただその少し前に試した限りではまるでだめだった。たぶんこの島のことだから魔術なんて全く意識しないで生きてきたんだろう」
「訓練しないといけない?」
「訓練でどうにかなるレベルか……。ん、なんだ、使わせたいのか?」
「使えるに越したことはないと思わない?」
「まあ、ね。――さすがに船酔いしてきたよ」ヴィカはそう言って階段へ引き返した。
クローディアも後を追った。話の続きを聞きたかったからだ。ヴィカがわざわざ黙って下りて行かなかったのも、聞きたければついてこいという意味だろう。
数歩目でなついたカラスを抱きかかえたままだったことを思い出した。振り返って腕のホールドを緩めるとカラスはわかっていたようにすぐ飛び立って仲間の方へ向かっていった。
ヴィカは階段を下りながら話を続けた。揺れる揺れると騒ぐ割に相変わらず手摺は使わない。それどころかポケットに手を突っ込んだままだった。
「魔術というのは道具であって素質じゃない。この島の人間たちは魔術を使わないが、でもおそらく魔素を持っていないわけじゃない。使い方を学ばなかっただけさ」
「学ぶ?」
「私は学校で魔術を習った。でもこの島には学校がない」
「魔術の扱い方は塔のアーカイブには入っていない?」
「そう。その通り。天使の情報がアーカイブにないのと同じだ。だからエトルキア式の教育が行き届かないこういう島では旧文明以前の素朴な生活が見られる。まあ、テレビでそういう話題をやらないこともないだろうけどな」
「触媒があって呪文を知っていれば使えるものじゃないの?」
「そう。血中魔素は宿主の声を覚える。呪文そのものは魔素自体にプログラムされている。声と詠唱を組み合わせて出力の鍵にしているのさ」
「それなら訓練なんか要らなそうだけど」
「仕組みとしては、な。だが実際には魔素も忘れるのさ。宿主の声を覚えるといっても、それは決して日常会話から声紋のパターンを取るなんてものじゃない。あくまで1つの呪文ごとに宿主の声の傾向を掴んで、いわば
「だから訓練に意味がある?」
「うん。それに魔素は鍛えられる。魔術の使用頻度の高い人間の方が血中魔素の含有量が多いらしい」
「魔素って増えるの?」
「名前はともかく、有機物だからね。細胞と同じだよ」
「白血球が増えたり減ったりするみたいに?」
「そう。人間の体が自分で増やしたり減らしたりしているわけではない、というのは違うけど」
農業区画の温室に入ったところでヴィカは深呼吸した。今まで与圧がなかったので息苦しかったのだろう。いや、息苦しいというより頭がぼーっとしてくるといった方が当たっているだろうか。
果樹と野菜のフロアではカブトガニみたいな窓拭きロボットがガーガー音を立てながら温室のガラスを拭いていた。温室を含めて塔の内部が清潔なのはそんなふうに塔が自ら掃除しているおかげだ。クローディアは
ヴィカはその階で階段横のコンソールに触れた。
「ちぇっ、イチゴはないのか」
何か食材を選んでいるようだ。
「ここでも食材を取り出せるの?」
「そのための装置だよ」
目の前の区画にリンゴの木が10本くらい植わっていて、ところどころに赤い実が見えた。
ヴィカはタッチパネルを見てちょっと仕方なさそうにリンゴを選んだ。するとガラスの向こうで天井のクレーンが動き、枝葉を避けるようにくねくねと細長いアームを伸ばして先端を赤い実に近づけた。
狙いを定めて一息にアームを回す。赤い実の軸が切られてネットの上にポトンと落ちた。ネットは空中に張ってあるのでリンゴは自重で転がっていく。転がるところまで転がると、さっきとはまた別のクレーンが待っていて、深いおたまでリンゴを掬い上げてガラスの前のトレーに下ろした。
トレーには傾斜がついていて、リンゴは二重のエアロックを通ってこちら側に出てきた。
「厳重」クローディアは呟いた。
「虫害の防護だよ。旧文明の人間たちも大概神経質だと思うけどね、でもこれは必要だろう。中で植物が病気になったらあっという間に広がるし、インフラが汚染されたら島1つの人間がまるごと死滅するなんて簡単なことさ」
ヴィカはそう言いながら中着のトレーナーでリンゴを拭き、腰のホルダーからサバイバルナイフを抜いた。薄く芯を取って8つに切る。なかなか器用なものだ。世の中にはまな板を使う文化圏の人間と使わない文化圏の人間がいると言うけど、彼女は後者らしい。
切ったものを8つも持っておくのは当然無理なので順次口に入れていく。クローディアも2つ貰った。あられは食べなかったけど、今度は場の流れというか、特に断る理由もなかった。皮付きでもエグみはなく、シャキシャキして甘いリンゴだった。
ヴィカは残った芯の部分をダストシュートに入れた。両手をすり合わせて鼻に近づけ、「うん、いい匂いだ」と呟く。
「ねえ、天使は魔術を使えないのかな」クローディアは訊いた。
「それは聞いたことがないな」ヴィカはかなり意外そうに目をパチっと開いた。
「この島の人たちみたいに魔術を使うための生き方をしてこなかっただけじゃない? サンバレノの天使たちだって、自分たちで魔術を使おうなんて思わないはずでしょ」
「うん……でもクローディアは輸血で奇跡が使えなくなったんだろう? 魔素と奇跡の間には何か相容れないものがありそうだが」
「そうかもしれないけど……」
ヴィカは少し笑った。
「奇跡が使えないなら魔術で我慢する、か?」
「そういう意味じゃない。手がかりになるかもしれないでしょ、どうして私の奇跡が使えなくなったのか」
「それは一理ある」
エレベーターはすでに呼んであったが少し時間がかかっていた。風のせいでスピードを落としているのかもしれない。
「奇跡といえば、クローディアも前は使えたんじゃないか」
「そうね」
「どんな奇跡なんだ? その、個別の奇跡というやつがあるんだろう。ギグリやキアラの奇跡を見て、わりとバリエーションがあるものだと私も理解してきたよ」
「さあ、どんな奇跡でしょう」
「いや、なんでもったいぶるんだよ」
「あんまり言いたくないから。いくら陽動でもエトルキアが私を拘束していたのは事実だもの」
「チン」とベルが鳴ってエレベーターのケージが開いた。
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