アコンプリス

 半径100mほどの範囲がすっぽりと抜け落ちつつあった。甲板はマンションの重量に引っ張られて崩落の中心に向かって落ち込んでいく。大重量の慣性が働いて杭からアーチ状に伸びる主桁をひしゃげさせ、やがて捻じ切る。そうして甲板はこま切れに粉砕され、建物の瓦礫や巻き込まれた自動車などと混じってフラムスフィアの底へ向かって落下していった。だが濛々と湧き上がる土煙によって着地まで見届けることはできなかった。

 天使2人はそれぞれ人間1人を吊ったまますいすいと飛んで崩落した穴の縁から100mほど離れた隣の工事現場にすでに降り立っていた。

 だがエヴァレットは2人にしがみつかれたままバランスを取るのに精いっぱいでとても水平方向の移動を考えることなどできなかった。鞘を力いっぱい握って支えておくのが限界だった。掲げた鞘の先端をサフォンが握って魔術の力場から体を出し、翼を羽ばたいて少しずつ穴の縁の方へ引っ張っていた。それはなんとなく小舟の舫を咥えて犬かきで泳ぐ犬の姿を思わせた。微力だけど危なげもなかった。

 やがて見かねたギグリとトルキスが戻ってきて音声マンとディレクターを肩代わりして抱えていった。ギグリはホバリングが苦手なので一度真横で止まってディレクターの腕をがしっと掴むとそのまま一度真下に落下して10mほど下で翼を広げ直してあとは滑空していった。ディレクターは垂直落下のところで「うわあああ」とまるで棒読みのような情けない悲鳴を上げていた。

 身軽になったのでエヴァレットは片手でサフォンの手を取り、鞘を傾けて揚力をスピードに変えた。いっぱいに広げたサフォンの翼が風を掴んで2人を上へ上へ持ち上げようとするのを感じた。


 ともかくこちらは全員が無事だった。撮影班は集まってきた工員たちに介抱されていた。ギグリは滞空したままエヴァレットが降りるのを待っていたが、力を使いすぎたのかあとから降りてきてかなりふらついた着地になった。

 エヴァレットは肩を支えようとしたが、ギグリはその手を払った。払った反動でふらついて膝をつきそうになっていた。

 エヴァレットは手首を掴んで問答無用で抱え上げた。思っていたよりもずいぶん軽い体だった。

「少し疲れたわ」ギグリは腕の中で額に手の甲を当てた。

「休んでいて構わない」

 現場の責任者らしい男がやってきて「事務所の方へどうぞ、休んでください」と声をかけた。作業の邪魔だということだろう。1人1杯コーヒーを貰っている間にディレクターが局に電話をかけて迎えの車を呼んだ。

「私たちは局に戻ります。できれば一緒に来てほしいんですけど」とシャウナが訊いた。

「いいでしょう。頭目が消えた今、以前ほど身の危険はない」エヴァレットは答えた。


 LBCに着くと取材班はすぐに姿を消した。車の中からどの映像が使えるだのどうのと議論していた連中だ。せっせと編集作業をしているのだろう。

 3階の少し奥まったところにロビーのような休憩所があって、アームチェアやローテーブルが並んでいた。動線を外れているらしく、廊下の方では人が慌ただしく動き回っていたが比較的静かだった。大きなソファもあってギグリが横になることもできた。

 サフォンとトルキスは体についた土埃をトイレで払って戻ってきた。エヴァレットはとりあえずジャケットだけ脱いで自分の体に纏った煙たさを我慢していた。サフォンが濡らしたハンカチを渡してくれたので顔と手を拭って返した。

「ありがとう。ギグリにもやってあげて」

「はい」サフォンは元気に返事してギグリの鼻や口の周りをちょんちょんと湿らせるように拭った。ギグリは少し嫌がったがとりあえずされるがままに任せていた。

「巻き込むつもりはなかったのに、申し訳ない」エヴァレットは謝った。

「爆薬の時点で十分関わっていますよ」とトルキス。「久しぶりに兵隊のことを思い出しました」

「そうか、あなたは素人ではなかった」

「素人?」

「武器の扱いのことです」

「ああ。仕組みは知っていますけど、扱いはさっぱりでしたよ。後方要員でしたから、握るのは年に1度くらいのものでした。力になれなくてごめんなさい」

「いやいや、そういう意味で言ったんじゃない」

 

 廊下の方から受付嬢が駆け足で近づいてきて、会いたがっているメイドさんがいるんですが、と訊いた。

「マグダですね」とサフォン。

「一応確認してくるよ」エヴァレットは腰を上げた。

 下りてみるとやはりマグダだった。たとえ知人でも先客に確認が取れるまでは通さない。著名人の知人を騙る厄介者が多いのだろうか。テレビ局らしいというか、わりとしっかりしたセキュリティだ。

 マグダには連絡要員としてブンドの集会場に残ってもらっていた。作戦が一段落したので迎えに来てくれたらしい。

「全員無事だよ」エヴァレットはマグダの表情を察して最初に言った。

「……よかった」マグダは息をついた。

「よくここがわかったね」

「ベルベットが教えてくれましたよ」

 エヴァレットは頷いた。こちらにも尾行の天使がついていたのだろう。支援はするが関与は見せない、というわけだ。

「ブンドの天使たちがゼーバッハの手下を張ってます。カシラが消えたことにまだ気づいていないようで、特に動きはないと」マグダは階段を上がりながら報告した。

「義理堅いのはせいぜい数人だろうけど、まだ安心はできないな」


 休憩所に戻るとシャウナがいた。手招きしていた。

「Vが上がりましたよ」

 テーブルにノートPCが置いてあって、2人がソファに座るのを待って映像を再生した。マンションで撮った編集済みのVTRだ。

 カメラマンは逃げる間もカメラを回していたようで、廊下に駆け出すエヴァレットの背中が映っていた。

 しかし窓に取りついた男を斬るシーンやギグリの壁崩しは見事にカットされていた。つまり相手が映っていないのだ。あたかもいきな建物が崩れ始め、脱出口を求めて上階に向かったとしか思えないような編集になっていた。エヴァレットが剣と鞘を持っていることさえほとんどわからなかった。オーベクス越しなのもあってかコマ送りにしても杖や鉄パイプと明確に判別できないくらい不鮮明なのだ。

「あえて訊きますけど、なぜあの建物は崩落したのでしょうか」シャウナはインタビューの時と同じトーンで訊いた。

「おそらく、我々の証言が表に出るのを阻止したかったゼーバッハの仕業でしょう」エヴァレットは考えながら答えた。「真実の公表に協力しようとしたあなた方も標的になった。まとめて抹殺できるタイミングを狙っていたんですよ。残念ながら、いつ見つかったのか、いつあんな仕掛けを用意したのか、全く気づかなかった」

「ゼーバッハの仕業。なるほど、それなら辻褄が合いますね」シャウナはわざとらしく頷いた。

「LBCはその説明を信用します。ゼーバッハを糾弾する。LBCのスタッフに対する危害でもあったのは事実ですので。それがLBCの立場です。ただし証言はお願いします。これはあくまでLBCの見解ではなく、あなたの見解に対する支持です」

「場合によっては私がペテンにかけたことにすると」

「はい」

「かけられた方も反省を強いられる。しかし大手局がここまで堂々と歪曲報道をやるとは」

「でもそれを明かそうなんてしませんよね。そんなことしたらこの映像の無編集版が流れちゃいます」

「それはそうだ」

「ですから、私達は共犯者です。互いを売れば自分も窮地に陥る」

 シャウナはエヴァレットの耳に顔を近づけて低い声を出した。ミルクティーのような柔らかい色合いのブロンドの髪が目の前で揺れていた。やはり土埃の匂いがした。彼女はそこまで言って前屈みをやめ、あとは元のそこはかとなく明るい声色に戻った。

「と社長が言ってました」

「社長判断?」

「はい」

「我々を売った方がクリーンだったんじゃないか」

「ゼーバッハを立てたところで何の得もない。でもギグリ様を立てればビジネスができる。いや、事実を流したところでゼーバッハを立てることにはならない。両成敗ですね。それこそゼーバッハ以上にノー・メリットです」

「社長はそれを直接我々に言ってくれるわけではないんだな」

「伝えてくれって」

「とすると君は緩衝材だ。何かあれば濡れ衣を着せられる立場だな」

「わかってます」

「肝が据わってるな」

「私これでも結構売れっ子なんですよ」

「わかったよ、シャウナ。仲良くしよう。ぜひ大会の取材にも来てくれ」エヴァレットは握手を求めた。

「もちろん。では、スタイリストの手配をしてきます」シャウナは手を離したあと、なぜか挙手の敬礼をして小走りに去っていった。


 サフォンが目を丸くして見ていた。エヴァレットは隣に座った。

「すまない、わかってる。僕は悪いことをしている」

「嘘をついていましたね」

「胃がひっくり返りそうだよ。こんな思いなんかしないでいられたらいいんだけど」

「でもその嘘は理由のわかる嘘です。あの人をやっつけるためだから、仕方ないと思います」サフォンはそう言って耳たぶを真っ赤にしながら立ち上がってエヴァレットの頭をぽんぽんと撫でた。「私、悪いことって仕方ないと思うんです。昔、あの人に追いかけられて、クリュスト様に助けてもらった時から、悪いものを滅ぼすためには悪いことも必要だって思ってきたんです」

「君にそういうふうに言われると複雑だな」

「……子供扱いはいやです」

「それなら、1つ頼もう。さっきのインタビューと今のVTRに話を合わせて欲しいんだ。我々は甲板が崩落するなんて知らなかったし、ゼーバッハたちと銃撃戦もしていない」

「はい」

「でもそう言い張るのが辛くなったら本当のことを言ってもいい。無理に悪くあろうとすることはない」

「言いません」

「いい子だ」エヴァレットはサフォンの頭を撫で返した。

 サフォンは心を洗ってくれる。だから無垢な存在だと思い込んでいたのかもしれない。でもそれを穢していたのは自分でもあるのではないか。エヴァレットは少しの間自責の念に苛まれた。


 証言はシャウナとのサシでスタジオ収録だった。内容は全く打ち合わせ通りだ。編集済みのVTRを見ながら何が起きたのかを説明するという、それだけの対話だった。

 服が汚れて着るものがないという設定なのか、力士用に仕立てたみたいな巨大なワイシャツを着せられていた。袖を2回も捲っても手にかかるくらいなのだ。そうでもしないとテレビの向こうの人々には伝わらないということなのだろうか。

 もともと着ていたスーツは収録の間にマグダが軽くクリーニングしておいてくれたのでかなり気持ちよく着替えることができた。

 警察も我々を保護しているのがLBCだと気づいたようで、更衣室から出ていくと刑事が2人待っていた。隣の工事現場の工員たちからLBCの撮影クルーと天使3人と男1人という情報を得たようだ。聴取は局の控室を借りて行った。

 強面の男2人組だったが、内容はかなり形式的だった。なぜあの建物にいたのか、なぜLBCの取材を受けることにしたのか、崩落の経緯について何か知っていることはあるか。エヴァレットはマンションでのインタビューと先ほどの編集されたVTRからわかることだけを話した。それ以上のことは言い控えた。撮影班やギグリ、サフォン親子も聴取されているはずだ。説明が食い違うと怪しい。

 上手くはぐらかせているとも思えなかったが、刑事2人は疑っているのかどうかまるで見当がつかないくらいポーカーだった。全く疑っていないなんてことはないだろう。できることなら追及したいが、まだ情報が不十分なので大きく出られない。さしずめそんなところだ。

 警察にも立場がある。LBCが映像を流せば他のメディアから警察にも問い合わせが来るだろう。その時全く手を打っていなかったというのでは初動の鈍さをつつかれることになる。そのために一応先手を打ったというデモンストレーションをやっておきたいのだ。かといって我々に警戒されては困るから、対目撃者並みのやんわりとした聞き取りに留めたわけだ。

 

 拘束時間は2時間ほどだった。それからLBCを出てタクシーでブンドの集会場に戻った。警察に憔悴した姿を見せるわけにもいかないのでギグリも元気そうに振舞っていたが、それで余計に消耗してしまってタクシーを降りるところから階段を上ってエヴァレットが寝かされていたベッドまですっかりおんぶに抱っこだった。

 残りの4人で食堂で休んでいると10分ほどしてベルベットが上がってきた。

「プガッティ氏から電話がありましたよ。ホテルは押さえたから戻ってもらっても大丈夫だと」ベルベットは手にハンドクリームを塗りながら言った。

「押さえたって、買収でもしたのか……。そんなところに金を使われても困るんだが」エヴァレットは答えた。

「そこまでは言ってくれませんでしたが」

「しかしまだゼーバッハの手下が残っているでしょう」

「ええ。大半は忠誠心の欠片もないチンピラですが、幹部数人は気にかけるべきでしょう。警察が逮捕するまではここにいた方がいい」

「世話になります」

「気にしないでください。私たちにできるのはそれくらいだ」


 VTRの放送はその夕方だった。ファイトクラブの動画、ゼーバッハにまつわる資料映像、マンションでのインタビュー、崩落の記録映像、スタジオでのインタビューと順を追って20分程度にまとめられていた。もちろんゼーバッハとその手下が崩落に巻き込まれたことには一切触れていない。「ゼーバッハとその一味の行方はいまだ掴めていない」というナレーションで締めくくっていた。確かにゼーバッハが崩落させたのだとすればその後自ら行方をくらませたという方が筋が通る。フラムスフィアの下になってしまえば警察でもそう簡単に捜索できない。

 ともかく、幹部の方は警察に任せよう。そう思ってまた一晩ブンドの集会場に止まらせてもらった。


 しかし翌朝テレビに流れていたのはゼーバッハの幹部6人惨殺死体発見の一報だった。

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