セカンド・フェーズ

 ノヴァクは長身痩躯の老人で、顎の短い丸顔と目鼻立ちがどことなく猛禽を思わせた。白髪を短く刈り上げ、レンズの丸いメガネをかけ、黒々したスーツに灰色のネクタイを締めていた。

 彼は側近の手こそ借りなかったが、左足を引きずりながら大階段を下りてきた。聞いた話によると独立戦争の時に爆撃に遭って膝の腱を酷く傷つけたらしい。戦場にいたわけではないが、エトルキアは後方の島にまで弾道ミサイルを撃ち込んだ。いわゆる戦略爆撃だ。軍歴もないのに戦傷の後遺症を抱えている人々がルフトには少なくない。

 ノヴァクは挨拶の前に路肩を指して「どうぞ」と誘った。

 そこには黒いセミリムジンが停まっていて、お付きの1人が両開きのドアを開けた。後部座席が対面になっていて、閉め切ると小さな応接間のような具合だった。


 リムジンはすぐに走り始めた。タクシーに比べるといくらか床が低く、固い乗り心地だった。どちらかというとタクシーが軟らかすぎたのだろう。

「まずはお悔やみを申し上げなければならないね」ノヴァクは言った。フェアチャイルドのことだ。「あのような頭のいい男を失うのはこの国にとっても損失だろう」

「まるでお世辞みたいに言うのね」とギグリ。

「世辞というのは世辞に聞こえないように言うものだ。――しかし、酷い騒ぎだな。もうテレビに映っているじゃないか」

「だから出てきてくれたのね」

「玄関前に集〈たか〉られるのもご免なのでね」

「テレビに出ていたということは、じゃあエアレースの話も聞いたかしら」

「新大会の?」

「そう。あれは実質研究の資金繰りなの。でも最初のシーズンは上がりが少ないだろうから、あと1年くらいはまともに研究を動かせないかもしれないわね」

 ギグリは脚を組んだ。

「急げ、と言う割に研究は滞るか」

「言ったでしょ、これは疎開だって。エトルキアから遠ざけられればひとまずはオーケーなのよ。停戦交渉をまずったと思うなら、早期移転に意味を出せるだけの研究費を出してもらっても構わない」

「移転先の用意でかなりの誠意は見せたつもりだがね」

「ハコモノに頼るのは役人の悪い癖ね」

「相変わらずの物言いだな……」

「新大会の上がりを全部つぎ込んだとしても、どう足掻いたところで今までの実績を維持するには10万は足りないわね」

「10万というと去年の年次予算の半分か」

「ええ。だいたい」

「しかしパールヴェーラーも薬は薬だ。それだけにぽんと金を出すと会計上目立ちすぎる」

「研究補助費を下すには論文を表に出さなければならないものね。モールトンは筆の速い人間だけど、外向けに当たり障りのない論文を書けなんて、学者に政治的配慮を求めるのもお門違いね。いずれにしても、それを上手く隠すのも行政官の手腕でしょう」

 ノヴァクはギグリの言い方にいくらか苛立ちを感じているようだったが、それ以上言い訳じみたことは言わなかった。エトルキア資本に対してもっと先手を打っておくべきだったという負い目は確かに感じているのだろう。


 ノヴァクに話すべき本題はほとんどそれで全部だったが、まだ建前の方が残っていた。パールヴェーラー研究所の移転先の視察だ。

 リムジンは空港方面に向かっていた。大型旅客機が発着する国際港の方だ。道はどこまで行っても広く、両岸には商店が途切れなかった。マンションなどは1本脇道に入ったところに立ち並んでいた。

「ゾーニングの管轄は甲板省ですか」エヴァレットは言った。

「ああ、うん。経産省と交通省も噛んでいるが。君は都市に興味があるのか」急に話が変わったせいか、ノヴァクは若干戸惑いながら答えた。

「どちらかといえば建物そのものでしょうが」

「ノイエ・ソレスは広がっていく街だからね。中心がビジネス街、外縁が住宅地というような同心円のゾーニングをやると手狭でとりとめのない街並みになるが、放射状のゾーニングならいくらでも拡張性がある」

 普通の島なら空港は甲板の端にあるものだが、ノイエ・ソレスの場合、空港の外側にもまだ街が広がっていた。都市の基礎的な機能として空港は欠かせないが、人工地殻の拡張に合わせて移動させるわけにもいかない。空港に向かって一度低くなった街並みがまた高くなっていくのは不思議な景色だった。

 地殻の外周には新しい杭が1000mから2000m近く立ち上がり、地上に打ち込まれる時を待っていた。建設中の杭が等間隔に並んだ景色は中世ヨーロッパの城塞都市を思わせた。


 研究所は工場が立ち並ぶ工業区画の末端にあった。道を1本挟んで外側では甲板の建設工事がドカドカと進んでいた。新しい道が敷かれ、ビルの骨組みが立ち上がっていた。

 つまり疎開といってもどこか適当なところを居抜きするわけではなく、わざわざ新しいハコモノを用意していたのだ。中に入ると新しいペンキの匂いで胸がいっぱいになった。明るく広く、適度に植え込みもあり、建物と表通りの間は駐車場で十分距離をとってあり、機密性にも配慮が見えた。いささか手狭なベイロンの研究所に比べれば劣る点などないように思えた。

 それでもギグリはいくつか注文をつけた。フラムの汲み上げパイプラインが人の動線と交差しているところがあるから、甲板下を這う区間をもっと長く取って、予備の配管ももう1組取り付けること。実験動物の収容区画が小さいからもう一部屋設けて換気機能を強化すること、など。



 ノヴァクとは研究所で別れ、タクシーを呼んでモラブチェクの本社に向かった。その建物は国際港の目の前にあり、建築制限に合わせた5階建て、左右に翼のついた横長の建物だった。立地といい見かけといい、いかにも飛行機メーカーだ。

 電報でアポイントメントは取ってあったが、視察が予定より早く終わったせいもあって最上階の応接間で30分ほど待たされた。今度ばかりはきちんとスーツに着替える猶予があったわけだ。

 応接間は一面が窓になった大きな部屋で、モラブチェクが量産を手掛ける飛行機の模型がキャビネットに並んでいた。窓は空港の貨物ターミナルに面していて、広いランプにパレットやコンテナが大量に積んであるのが一望できた。

 空港には旅客ターミナルと貨物ターミナルに加えて整備・製造区画まであり、それだけで並の工業島の中層甲板を上回る広さがありそうだった。向かいのビル群がちょっと霞んで見えるのだ。

 窓の下には奥行き3mほどのバルコニーのような張り出しがあり、その上で20羽くらいのハトが座って丸くなったり羽繕いしたりしていた。

「ノヴァクは様子見でしょうね」エヴァレットは言った。

「出すことは出すでしょう。金額の問題だわ。新大会がコケれば丸ごと引き取るだろうし、成功すればそれはそれで投資として出すでしょう」

「アテにならない」

「そう。でも研究は心配しなくても大丈夫よ。移転は決まっているし、設備も悪くない」


 コーヒーが冷める頃になってモラブチェクが扉をノックした。ギグリは何度も会っているだろうが、エヴァレットはまともに顔を合わせるのは初めてだった。

 ややスノッブな面長の顔立ちにいかにも商人らしい白髭を蓄えた老人だった。歳はノヴァクと同じくらいだろうが、体格はかなりしっかりしていた。

 彼は旅を労うような言葉をいくつか並べながら座った。

「ベイロンからソレスというのもなかなかの距離でしょう。私は立場がら方々の工場を見て回らなければなりませんがね、どれだけ高速機に乗っても大抵は腰がやられますよ」

 そんな具合だ。彼自身口任せに喋っていたし、エヴァレットもギグリも受け流していた。

「それで、聞かなくても内容はだいたい察しがつきますが。テレビも大変な賑わいだ」彼はしっかりと腰を下ろしたところで言った。

 モラブチェクとエヴァレットは顔を見合わせて苦笑いしたが、ギグリは表情を崩さなかった。

「そうね。最初に言ってしまった方がいいかしら。私たちは新しいエアレースの創設資金を工面している」

「そして我々はスパルタンのベイロン・グランプリへの干渉に慄いている」

「やはり感づいていたわね」

「もちろん。そこでひとつ訊きたいのですが――」

「新大会は100%ルフト内の資本だけで運営する。いえ、正確に言うならルフトの愛国的な資本のみによって運営する、かしら。あなたたちも外国に輸出している飛行機があるものね。会場が未定というのも本当だけど、ルフト中部から東部寄りで考えている」

「それはありがたい。いい言質を得ましたよ」モラブチェクは背中を背凭れに預けて顎髭を撫でた。きっと今まで出資を断る選択肢も視野に入れていたのだろう。

「額を聞きましょう」

「200万リブラ。どうかしら。これは確かあなたがリズキルヒェンに使っている額の半分程度でしょう。もちろんリズキルヒェンから撤退してほしいなんて言わないわ。たとえ他のレースの会場がスパルタンのロゴで一杯になったとしても、リズキルヒェンを守ればモラブチェクのブランドは十分アピール力を持ち続けられるでしょう」

「つまりこういうことでしょう。リズキルヒェン以外から資金を引き揚げて私に回せ、と。いま電卓がないので細かい額が出ませんが、いいですよ。200万なら10パーセント程度のプラスで抑えられる。10パーセントで大会を掛け持ちできるなら御の字だ。200万リブラ出資しましょう」

 思いのほかスムーズに話が進んでしまったということなのか、ギグリはエヴァレットの顔に目を向けた。


「でもそれだけではない。あなたは我々に場所を提供してほしいはずだ」モラブチェクは言った。

 新大会の会場に関してギグリがモラブチェクを当てにしているのはエヴァレットもなんとなく察していた。

「我々としても自社工場がエアレースの本拠地になるというのはかなり夢のある話ですよ」モラブチェクは続けた。「ただ、実際そんなことをしたらおそらく工場長たちからお叱りの電話が飛んでくるでしょう」

「叱り?」

「飛行機の工場というのはね、ひっきりなしにテストフライトをやっているんです。新しくロールアウトした個体、重整備や修理が開けた個体、動作に問題がないか、変な癖が出ていないか、調べなければならない。あくまできちんと飛ぶかわからない飛行機のテストですから、滑走路を綺麗に空けて行うのがルールです。そうなると、決して滑走路がぎちぎちというわけではないのですが、スケジュール的には空きがないということになってくる。エアレースの本拠地となればレーサーだって愛機の微調整のために何度も何度も飛び上がって降りてを繰り返すでしょう。操業日の工場にはそれを許容するだけのキャパシティがないのです。そのようなキャパシティが残っているなら、生産能力を上げて埋めてしまわなければ無駄が出ますからね」

 ギグリは黙って紅茶を飲んだ。

「リズキルヒェンの場合、あれは工場の休日だから、かつ年に1度だからこそ成り立っていると、そういうわけですね」エヴァレットは言った。

「1戦なら構わない、というか、ぜひやっていただきたい。しかし恒常的に使用するとなると、申し訳ないが渋らざるを得ません」


 ツー・ダウン。

 これで400万リブラまで目途がついた。半分だ。しかし順風満帆とはいかない。


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