スタンド・オン

 マグダはスカートが超短いメイド服のままリビングで物干しをしていた。先に持ち帰った旅の洗濯物を洗濯にかけておいてくれたようだ。

 急に働き者になったな、とエヴァレットは思ったが、よく考えるとサフォンが来る前はこれくらい当然のようにやってくれていたのだ。


 ギグリはまっすぐ電話をかけに行って、クイーン事務所にいるリリスを呼び出した。

「話したいことがあるの。あなたも忙しいだろうから、仕事が終わってからでいいわ。そう、プライベート。私のところで夕食にしましょう。南通り58981。6時? そう、忙しいのね。いいわ。それで支度しておくから。他の誰かには言わないように」

 手短に済ませて受話器を置き、今度はマグダを呼んだ。

 マグダは干しかけていたエヴァレットのズボンをポイッと床に捨てて駆け寄った。

「クローゼットの奥にスーツがあったでしょう。あれを直してほしいの」

「……クリーム色の?」

「そう」

「リリスに見せるんですか」

「それとはまた別件」

 2人が寝室の方に消えてしまったのでエヴァレットは溜息をつき、捨てられたズボンを拾って物干しを続けた。

「ボタンがくすんでるわね」「ギグリ様少し痩せました?」などの声が時折聞こえてきた。

 窓の外には相変わらず飛行機の爆音が響き、カーテンを開けると草地の上で餌を物色しているムクドリの群れが見えた。

 それは少しだけ懐かしいと思える景色だった。フェアチャイルドが死んだあとの城も、この新居も、アルピナも、自分にとって日常と感じられるようなものではなかった。それ以前の日々がひどく遠く感じられた。


 買い出しこそマグダに行かせたものの、夕食の支度はギグリが買って出た。毒でも盛るつもりかと思ったが、もちろんそんなことはなかった。

 ギグリは至って手際よく(時々道具や調味料がどこにあるかわからないと悪態をつきながら)酢豚とエビチリを作り、大皿に盛ってテーブルに並べた。エヴァレットは先に少し味見をさせてもらったが、文句なしにおいしかった。


 結局リリスが来たのは7時頃だった。急な呼び出しだったせいかラフな格好だった。ダボッとしたワンピースにウールのコート。色合いもベージュからオリーブ止まりだった。アイドルのオーラもない。ギグリに比べるとオン・オフの切り替えができるクイーンということだろう。髪の色はかなり青みがかったグレーだが、髪型はギグリに似せていた。裾が少し長く、肩に乗る程度だった。

 料理を温め直し、スープとワインを注いだ。リリスはマグダにコートを任せてギグリの前に座った。

「まずは称賛を。あなたはテルアペルで期待以上の姿を見せてくれた」

「ありがとうございます」リリスは特に謙遜もなく落ち着いた様子で答えた。

「人気投票でも僅差に迫った」

「2割も離れています。人数にすれば約300」

「私が望んでいたのはもっと圧倒的な勝利よ。2割なんて浮動票に過ぎない。ベイロンももう私のものではないわね。実感として確かにそう感じたわ。どう、リリス、あなたが正式にクイーン・オブ・クイーンズになって大会を牽引するつもりはない? どうせそのつもりでミアの誘いに乗ったんでしょう。あなたは根っからのお淑やかだけど、野心がないわけじゃないのよ」

「まだ早くありませんか」リリスはやはり落ち着いて答えた。ギグリが本気で言っているのか確かめたいようだった。

「今年18になるのでしょう。私は14からやっているのよ。遅すぎるくらいよ」

「ギグリ様はエアレースの運営から離れるのですか」

「そのためにやめるのよ」

「そのあとは」

「私は私のエアレースを始める。かつてのレースの意味を継いだレースを。形はあなたが継ぎなさい。意味は変えて構わない」

 リリスは俯いて考えた。琥珀色の目が小刻みに動いていた。

 顔を上げる。ギグリとリリスはしっかりと目を合わせた。

「わかりました。私が継ぎます。継いで国家と階級の融和を目指します。ギグリ様は種族の融和を。2つの大会に2つの意味を。ともに高め合いましょう」

 ギグリは頷いた。

「空いた玉座に座るのと、与えられるのと、あなたはどちらがいいかしら」

「対外的に、ギグリ様が何も言わずに去るのか、それとも私を指名して引き継ぐのか、と」

「そうね」

「新政府のあり方としては前者の方がふさわしいでしょう。でもそうすると観衆に対して何の確認もなしに私がクイーン・オブ・クイーンズを務めるのはおかしいですね。領主同様、他のクイーンも募って何らかの形で投票を受けるべきで」

「シュナイダーが臨時の首班として選挙を行ったように、あなたも投票をやって構わない。私があなたに与える地位をあなたがどう扱おうと、それはあなたの勝手よ」

「でも私には私が一番うまくやる自信があるんです。それを邪魔されると大会をダメにしてしまうかもしれない」

 リリスが至って真面目にそう答えるとギグリは少し笑った。

「すごい自信ね」

「他のクイーンに私にも可能性があったと悔しさを抱かせるのは得策ではないし、何より、ギグリ様が何の仕切りもなしにいなくなってしまうのは」

「感情ね」

「はい」

「いいわ。第6戦、ハールであなたに冠を授けましょう。……だけど実際のところ、あなたは私が躍起になって地位を守ろうとすると思ったのでしょう?」

「ハールに力を入れるか、こうなるか、どちらかだろうと思っていました」

「本当に抜け目のない子ね」

「誉め言葉だと思っておきます」

「ああ、この件はミアには黙っておいてね」

「……言っても不都合なことはないと思いますけど」

「驚かせたいのよ。ぎゃふん、と」

「感情ですね」リリスはニッと笑った。今晩新居に来てから一番いい表情だった。

「そう。さ、食べなさい。冷める前に」

 ギグリはグラスを取って乾杯の合図をした。


 リリスは食事が終わると長居せずに出ていった。疲れているというより気が急いている感じだった。まだ終わっていない仕事があるのか、翌朝が早いのだろう。

「適度に息を抜きなさい。あなたの仕事が遅いより、あなたがダウンして仕事ができなくなる方が周りも困るでしょう」ギグリは玄関まで見送ってそう言った。

 リリスはメイドのように深くお辞儀をして階段を下りていった。

 ギグリはテーブルに戻って残ったワインをグラスに注いで飲んだ。後片付けはエヴァレットとマグダが分担した。すっかり皿を洗い終わってテーブルを拭く頃合いになってもギグリはまだちびちびワインを飲んでいた。

 マグダが何か察してリビングを出て行ったのでエヴァレットはギグリの横に座った。新しいグラスにワインを注いでボトルを空けた。

「あの子13か4だったわね、リリスがクイーンのオーディションに来た時、本当に綺麗な子だと思ったのよ。そのあとの成長で少しでも変化してしまうのだと思うともったいなくなるくらい。杞憂だったわね」

 ギグリはそれ以上何も言わなかった。


 ノイエソレス行きは結局翌日になった。

 今度はマグダも同行を宣言した。エヴァレットのスーツも直したいけど時間が足りないから移動中に、というので最初は納得していたが、朝から鼻歌なんか歌って妙に気乗りしているところ見るとどうもノイエソレスが楽しみなのかもしれない。もし残りたかったら彼女のことだから徹夜してでも終わらせていたはずで、早朝からすっきり起きてくるなんてことはあり得ない。首都の最新の流行りを見たいというわけか。アルピナなんて田舎には興味がなかったということか。生粋の都会っ子なのか。とにかくマグダは実際スピリット・オブ・エタニティのキャビンに裁縫セットを持ち込んで後ろの方でチクチクやっていた。

 離陸して航空路に乗ったところでギグリが操縦室に入ってきて副操縦席の背に寄りかかった。

「プガッティは200万と言ったわね。ベイロンと同じ規模で一戦でも開催するなら、初期投資をを考えるとその4倍は必要だわ」

「あと頼りになりそうなのは、モラブチェクか。あそこはスパルタンの参入で割を食うでしょうからね」

「そうね。プガッティと同程度出せるんじゃないかしら。それであとは半分」

「政府はどうです。出してもしょっぱい額でしょうけど」

「だめね。額が小さい割に手続きが面倒でしょう。勘定にいれない方がいいわ」

「すると、ゼーバッハですか。ノイエソレスに行くならその男を頼れというのがプガッティの助言でしたね。賭博界の重鎮でしょう」

「上手く取り入れればその他起業家の伝手でもう半分」

「1戦でパールヴェーラーの年間予算が賄えますか」

「だめね。今までと同じ規模を維持するためには、大会の利益から還元分を差し引いた残りを全部回すとしても、せめてベイロンツアーの半分の規模まで持っていかないと。でも初回で宣伝が効けば次のシーズンからは少し楽になるわよ。最初の1年くらいはノヴァクも研究に全く金を出さないなんてことはないでしょう。私たちにとってはエトルキアに研究を売った方が儲けになるかもしれないのだから、そう考えたら場所の用意だけなんてことはあり得ない。着いたらまず研究所の用地を見て、モラブチェクの本社に行く。最後がゼーバッハね」


 そこでトラフィックの管制官から「積乱雲があるから高度を上げろ」と指示が入った。エヴァレットは復唱して操縦桿を引き、高度計を読みながら緩上昇した。

「しかし、本当に新しいレースを作るつもりとは」エヴァレットは言った。

「方便だと思った?」

「正直、どうにかこねくり回してベイロンのレースを元通りにするつもりなのかと。新大会となればベイロンにはどれだけ戻ってこられるかわからない。そう簡単に離れられるほどあなたはあの島に根づいていないわけじゃない」

「そうね。その通りよ」

「だからプガッティやリリスに本心を言っていたとは思えなかった」

「アーヴィング様は死んだのよ」

 エヴァレットはギグリの横顔を見た。いささか唐突なセリフに思えた。

 高度計に目を戻す。先ほどから1000mほど登り予定高度に近づいていた。操縦桿をゆっくり前に倒し、高度維持のボタンを押し、航路とウェイポイントの設定を確認してからオートパイロットを入れ直した。

「彼のギグリも同時に殉死したわ。あなたが蘇生したのは今の私なのよ。リリスは私が大会を取り戻そうとすると思っていたと、そう言ったでしょう。あれはある意味正解なのよ。私が実際に殉死しないということは彼の存在がさほど大きなものではなかったと、エアレースに対する気力がまだ残っていると踏んだのでしょうね。彼女はあなたのことを知らなかったのよ。私があなたのものになったことを知らなかったから。わかる?」

 エヴァレットは心臓が変に脈打ち始めているのを感じたがとにかく考え、そして答えた。

「もとよりあなたは全て捨ててしまってもよかった。何もかも新しくしてしまってもよかった。研究を守るのは私がフェアチャイルドの意志を継ぐと言ったからであって」

「そう。私は変わろうとした。でもあなたは元通りを求めた。いくつかの点を除いては、ね」

 そう言うとギグリは背凭れから離れてキャビンに戻った。

 エヴァレットはサングラスを外してダッシュボードに置いた。空が青く光り、自分の瞳孔がキュッと締まるのを感じた。

 右手を出して手のひらを見つめ、掌底を自分の額に打ちつけた。鈍い音が頭蓋から耳に響き、額も手のひらもしばらくジンジン痛んでいた。

 ギグリの冷たい目は自分が変わろうとしていることに対するものではなかったのかもしれない。変わりきれない半端さに対するものだったのだ。

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