スノー・アイランド

 アルピナはルフト連邦南東部に位置する住居島だ。やや高地にあってフラムが地形に沿って吹き上がってくることがあるので、最下層甲板は他の住居島より高い高度約2000mに広がっていた。

 だがそれだけだ。

 他の住居島にあるはずの中下層~最上層甲板はアルピナにはない。造りかけの中下層甲板が西側に500mほど伸びているが、住人が利用するための空間としては機能していない。塔本体もその上1000m程度で途切れている。妙に日当たりのよい最下層甲板の上に何の意味もない造形が突き立ったその姿から観光業界には「貴婦人の日傘」なる愛称で呼ばれていたが、実物を見ればそんな端正な印象は抱けないだろう。どちらかといえば「枯れかけのキノコ」だった。

 塔本体の高さは高度にして3000mになるわけだが、これは普通の塔の最高点が6000~7000mであることを考えると半分以下だった。だが決してぽっきりと折れてしまったわけではない。始めから存在していなかったのだ。要するにアルピナは建設途中の塔だった。

 かつてエトルキアの人々はそれでも「使えるものは何でも使おう」の精神でアルピナに居住甲板を建設した。しかし未完の塔は当然機能面も未完であり、例えば揚水機能は本格用のパイプラインが整備されておらず、建設用の配管が頼みの綱だった。給水容量は実用レベルの10分の1以下、人口に換算してせいぜい2000人の生活を支えるのが精一杯なのだ。

 結局アルピナの居住島化計画は頓挫した。その夢の痕跡がまさに「枯れかけのキノコ」だ。もちろん人口2000人では面積12.5K㎡に及ぶ最下層甲板を家屋で埋めるにも至らない。有り余る「土地」にはいつしか土が敷かれ、草木が植えられ、エトルキアはこれを公園として動植物の保護に使うとともにゴルフ場などを切り開いて娯楽に供するようになった。アルピナに定住していたのはその管理者たちだ。

 ルフトの支配下に移ると公園としての利用規制はやや曖昧になり、産業で富を得た資本家たちがその広々とした環境に目をつけて別荘を置くようになった。大人口を定住させることはできないが、その分豊かな環境が富裕層を惹きつける島、それがアルピナだった。


 上から見るとアルピナの甲板は真っ白だった。雪が積もっているのだ。雪の重さは甲板と島にすさまじい負荷をかける危険な要素で、まともな島なら融雪用の熱水パイプを張り巡らせているので真冬でも積雪が残ることは滅多にない。だがアルピナの場合、上の甲板がごっそりない分は塔の荷重に余裕があるわけで、どうせなら積もらせて冬ならではの生態系を再現しよう、ウィンタースポーツを楽しめるようにしておこう、という意図のようだ。あるいは融雪機能にも制約があるだけなのかもしれないが……。

 いずれにしても飛行場は駐機場も含めて全く雪がなく、黒々した甲板の地肌が露出していた。スピリット・オブ・エタニティを駐機スポットに停止させてエンジンを切ったあと、エヴァレットは青いジャンパーを着込んで外に出た。空気は薄く、かき氷のように冷えていた。

 空港付きのグラウンドスタッフが駆け寄ってきて次の出発や整備の要件を訊いた。機体に異常はないし、点検は自分でできるから燃料補給だけでいい、と頼んで燃料の規格を伝えた。精算は出発前に、ということでその場での手続きは特になかった。エヴァレットは帽子を被ってタイヤに車止めを噛ませ、足回りや舵、エンジンの点検を済ませた。

 その間ギグリとサフォンはタラップの下で待っていた。ギグリはエヴァレットと同じタイプのジャンパーでシャンパン色、サフォンは水色のウールのコートを着ていた。2人の上着には背中側の左右にスリットが入っていて翼が抜けるようになっていた。ギグリの方はマグダが改造したものだが、サフォンのコートのスリットもおそらくお手製だろう。スリットの下のボタンのつけ方がサフォンの母が着ているコートと全く同じだった。


 空港の建物の中で国内パスポートの検査をしたあと一行はロビーに解放された。サフォンの母はそこで待っていた。先に電報で予定を伝えておいたので迎えに来てくれたのだ。背はギグリと同じくらい。髪の色は少し渋く、翼はクリーム色がかっていたが、一目でサフォンの母親だとわかるくらいには似ていた。

 直接会うのは初めてではない。8年前の肺炎の一件のあと、サフォンを連れて城まで挨拶に来たのをエヴァレットは憶えていた。

 ……そうか、今回サフォンがまっすぐ城まで来られたのもその時のことを憶えていたからか。

「この度は娘が本当にお世話になりました……」

 サフォンの母――トルキスは頭を下げて一通り礼を述べてから一行を外へ導いた。ロビーは地方の住居島としては一般的な大きさで、人気はほとんどなかった。他に1組か2組といったところだ。土産物店も半分くらいは店の入り口を閉めていた。

「オフシーズンですか」エヴァレットは訊いた。

「はい。冬は12月から2月がオン、夏は6月から8月でしょうか。秋も少し波が来ますけど、ちょうど人の少ない時期ですね」


 表に出ると再び寒風が吹きつけてきた。エヴァレットは思わず目を細めた。雪の白さが眩しかった。

 道路の路面はやはりきちんと除雪されているが、道端の雪を手に取ると確かに天然の雪らしかった。冷たく、じゃりじゃりしていて、体温で溶けていく。

「雪か」

「本物の雪ですよ。冬はスキー客も多いですから融かさずにおいて名物にしているんです」トルキスは塔の方を見て答えた。塔の周りは甲板がかさ上げしてあり、200mほどの急傾斜が形成されていた。「市長はそう言ってますけど、融かそうにもガスが足りないんです。住民の供給に回しているとこうして道路の融雪をやるだけでもかなりカツカツだそうで」

「冬はとことん寒い方がいいという植物も多いでしょう?」とギグリ。

「そのようですね。それに島の東側は土壌が厚いので甲板を温めても雪は融けないと思いますね」

 トルキスは駐車場に駐めてあった水色のハッチバックのキーを開けた。各々トランクに荷物を入れる。ギグリはとりあえず助手席に乗り込んで翼を押さえてドアを閉めたが、羽根の先でサイドミラーが隠れてしまうので「だめね」と言って後部座席に移った。広げた時の幅6mに及ぶギグリの翼だと、尺骨(腕で言うと前腕にあたる)の長さも軽く1mを超える。畳んだ状態で頭ひとつ分突き出すことになる。閉所で身動きがとりづらいのは当然だった。

 ギグリは前屈みになって後ろのドアに潜り込み、座席に深く座って体を落ち着けた。隣に楽々サフォンが座り、助手席にはエヴァレットが入った。

「小さい車でごめんなさいね」トルキスが恐縮した。

「私がいなければ車で迎えに来てもらう必要もなかったでしょう」エヴァレットは言った。人間は自分だけだ。天使なら車になんて乗らなくても飛んで移動できる。

「お客様にそういうわけにもいきませんよ」とトルキス。


 島西端の空港から塔の雪山に向かうメインストリート沿いには観光客向けのホテルが立ち並び、別荘地はそれより南側の雑木林の中に点在していた。木が思い思いに立ち並ぶ景色は普通の島ではまず見られない。甲板のキャパシティに余裕のあるアルピナならではだろう。木々の枝や幹に遮られてきらきらと点滅する太陽が幻想的だった。

 トルキスの車は空港前から林の中の道を抜け、開けた景色の中に出た。目の前で広大な水面が太陽を反射していた。湖だ。やや東西に長いが短いところでも直径300mは下らないだろう。これもまた島の上ではありえない景色だった。水面を作ろうとすれば重量も面積も嵩む。

「水深はほとんど1メートル程度ですから、正確にいえば沼なのですけど、誰もそういう呼び方はしないですね」

 トルキスは湖を左手に見て進む道に入り、湖畔を道なりに走った。

 湖にはたくさんのハクチョウやガチョウが浮かんでいた。前にサフォンの言った通りだ。 

「周りを護岸で押さえているのかしら」ギグリが興味津々で訊いた。

「いえ、甲板そのものを掘り下げているんです。もちろん漏れはありますけど、流入は多いですから枯れることはありません」

 一方右手側、湖畔と雑木林の間には数百メートルほどの雪原が広がっていて、一見何の利用もされていない不思議な空間だった。

「この辺りは畑ですね」トルキスがエヴァレットの視線に気づいて説明した。「今は休耕地ですけど、もうしばらくすると小麦の種を撒きます。初夏には野菜も」

露地ろじ栽培ですか」

「はい。アルピナは温室がないですから。あまり需要もありませんし、この程度でも間に合ってしまうんです」

 ベイロンをはじめ普通の島には最上層のさらに上に密閉式の温室があり、その中の農場で農作物を栽培している。アルピナは塔の上がないので農場機能も最下層甲板に持たせなければならないのだ。

 エヴァレットは再び湖を眺めた。まるで地表だ、と思った。塔のアーカイブで見たフラム以前の地表そのものの景色が目の前に広がっているのだ。


 周囲に気を取られていたが、右手の林の上に屋根の大きな建物が見えてきていた。別荘にしては大きすぎる。塔上建築として一般的な軽量鉄骨の4~6階のビル群だった。

「あれが私の学校です」サフォンが言った。

「私の職場ですよ」とトルキス。

「寄宿制ですか」エヴァレット。

「6歳から18歳まで200人が在籍しています」

「多いですね」

「もともと教育にいい環境だということで設置された学校ですから、人気があるんです。この島の子供は20人もいないですね」

 人口1万人を超えるような大都市住宅島なら教育機関も充実しているが、より人口の小さな島、特に工業島には学校が設置できないことが多い。そこで有用になってくるのが寄宿制の学園だ。子供たちを集めることで集中的な教育を可能にする。エトルキア時代はホームスクーリングも多く、塔本体の教育プログラムに丸投げする島も少なくなかったが、ルフトの独立以降は国勢調査による人口把握がきっちりしたので学校教育も充実してきている。

「長い休みだと子供たちは帰りますか」エヴァレットは訊いた。

「そうですね。親の方が来る家も多いですけど」

「あれ、インフラのキャパシティは大丈夫なんでしょうか」

「この島ではシーズンに備えて溜め込んでおくんです。水もガスもあの山の下にタンクがあって」

「ああ、なるほど」


 トルキスは学校の敷地に入って校舎群の東に続くくねくねとした道を進み、一軒家の前で車を止めた。ギグリは車から出て翼を広げ、何度か羽ばたいて伸びをした。道の融雪も各家屋の駐車場まではカバーしていない。やや銀色を帯びた長大な翼が雪を映して目が痛いほどの白さに映った。

「さすがギグリ様、綺麗な翼ですわ」とトルキス。

「サフォンの褒め癖は母親譲りかしら」

 エヴァレットはトランクから紙袋を出してトルキスに手渡した。

「ベイロンのお土産です」

「ああ、すみません」トルキスは受け取って少し中を覗いた。「あら、エアレースまんじゅうですか。私これ好きなんですよね」

「それはよかった」

「アンコがいいですよ。いい漉し餡を使ってます」

 トルキスは家の中に2人を招き入れた。玄関に荷物を置き、長い廊下を通ってリビングに入った。ベイロンの新居を2回りほど小さくして間取りもシンプルに直したような造りだ。家具家電も豪華ではないが一通りのものが揃っていた。アルピナの水準で言えば下の部類なのだろうが、ルフト全体で考えれば十分な収入のある生活らしく見えた。

 トルキスは返事の電報でぜひ家にいらしてくださいと書いていた。泊りがけのつもりなら学園のゲストハウスが無料で使えるのでぜひ、という一文もあって、それなら乗らない手はないと甘えることにしていた。それくらい世話になる方がトルキスも気後れがなくていいだろう。

 ともかく食事は親子の家でごちそうになることに決まっていた。午後4時過ぎと夕食にはまだ早い時刻だったが、トルキスは支度を始めてくれた。それまでの暇潰しにとテレビをつけてもらって、チャンネルを回してみると国営放送の他に近所の島の放送も何局か受信できることがわかった。アルピナにも放送局があるようだ。

 ワイドショーを10分ほど流しているとベイロンのエアレースの話題になった。当然フェアチャイルドの一件も説明が入る。彼の棺を覗き込む喪服のギグリの映像が映ったので気まずくなってチャンネルを替えた。

 それからエヴァレットが恐る恐る振り返ると「ふうん、私の顔なんか見たくないというわけ」とギグリは例の冷たい見下した目をしてエヴァレットを見つめていた。

「あまり気分のいいものじゃないだろうと思ったんですよ」

「べつに。この島でもエアレースの人気があるというのは興味深いわ」

「戻しますか」

「ええ」

 ベイロンには各種のエアレースがあるが、アルピナ出身の選手はいない。近隣にレーサーを輩出した島があるのと、レーサー機のメーカーであるプリマ社の工場が近くにある、というのが主なつながりのようだ。シーズン中この島を訪れる富裕層の仲にもファンが多いというのも効いているかもしれない。ベイロンご本家ほど突っ込んだ解説は入らないが、普通の局のニュースにしては割と時間を割いているな、という印象だった。


 夕食のメインは牛肉のミンチとほうれん草の包み焼きで、多少胃に重い感じはしたが絶品は絶品だった。得意料理なのだろう。とても満ち足りた気持ちになることができた。

「じゃあ、ゲストハウスまで案内してくるから、サフォン、皿洗いをお願い」トルキスはそう言いつけたが、サフォンの顔はあからさまに渋っていた。

「お別れですか?」

「まだ明日があるよ。学校や島のことを案内してもらおうかな」

 エヴァレットがそう言うとサフォンはパッと明るくなった。

「もちろんです。絶対ですよ?」

「うん。よろしく頼む」


 荷物を持って親子の家を後にする。トルキスは先導しながら訊いた。

「サフォンは本当に迷惑をかけませんでしたか?」

 本人のいないところでそれをきちんと聞いておきたかったようだ。

「いいえ。我々もありがたかったですよ」

 エヴァレットはすぐに返事をしたが、ギグリは立ち止まった。

「トルキス」

「はい」トルキスは呼ばれて振り返った。

「今回のことで決してサフォンを責めてはいけない。絶対に。いいわね?」ギグリはゆっくりとしたたかな口調で言った。

「……はい」

「約束しましょう」

 エヴァレットは不安になって早足でトルキスと横並びになった。

「気分を害したでしょう。申し訳ありません」エヴァレットは小声で謝った。

「いいえ、そんなことはありません」

「身分を笠に着たような言動に思われませんでしたか」

 サンバレノから亡命してきたトルキスにとってアークエンジェルとエンジェルの身分差を感じさせるような物言いは不快なはずだ。

 奇跡を使えない天使――すなわちエンジェル――はサンバレノでは「まがい物のの天使」「なりそこない」と呼ばれることがあるという。奇跡を扱えてこそいっぱしの天使――広義のアークエンジェル――であり、翼が生えているだけのエンジェルは天使として不完全というわけだ。より人間に近い存在として虐げられているといってもいい。むろん奇跡が使えるアークエンジェルでもより上位の天使から見下されることはあるのだが、アークエンジェルとエンジェルの間に横たわる溝はそういった階層意識よりも一段強いものなのだ。

 ギグリの言い方は捉え方によってはとてもサンバレノ的に感じられたかもしれない。エヴァレットが気にかけたのはそこだった。

 だがトルキスは否定した。

「いいえ。私はあなた方をお慕いしています。でもそれはギグリ様がアークエンジェルだから、というわけではないのです」

 エヴァレットはそれ以上言うのをやめた。トルキスは本当に納得しているようだったし、これ以上突っかかるとそれはそれで不快にさせてしまうに違いなかった。

「私の思い過ごしでした。その点お詫びします」

「いいえ。お気遣いありがとうございます」

 エヴァレットは引き下がった。


 ゲストハウスは親子の家とほとんど同じ外見だったが、中へ入ると空き家の匂いがした。埃や防虫剤の匂いなのだろうか。トルキスは玄関で鍵を渡して家に戻った。扉が閉まるとエヴァレットとギグリは2人になった。なんだかとても久しぶりに2人きりになったように思えた。

 なんだか周りの空気分子までギグリ様にひれ伏してしまったみたいに静かだった。

「よくあんな物言いができますね」エヴァレットは思っていたことを口に出した。

「貶しているの?」

「いいえ。感心しているんです。私が言ってもあんなふうに心を動かすことはできなかったと思いますよ」

「そう。だから私が言ったの。威厳のある言葉には相手を納得させる力があるのよ。本当の威厳には年齢なんて関係ないの」

 エヴァレットは廊下を奥へ入って手前から順に明かりをつけた。間取りは少し違って、廊下の扉が少なかった。

 まず洗面所、トイレ、そして寝室。寝室は20㎡(10畳)ほどあり、真ん中にダブルベッドが置かれていた。もしやと思ったが、家の中にあるベッドはその1台だけだった。

 トルキスがゲストハウスの中を把握していなかったのかわざとなのかはわからないが、今さらそれを確認したところで状況が何も変わらないのは明らかだった。

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