トゥ・アルピナ

 新居の間取りは3LDKだった。大きい寝室が1つと小さい寝室が2つあり、小さい方をエヴァレットとマグダで分け、大きいところはギグリのものにした。サフォンはマグダにくっついて同じ部屋で寝る、それかリビングでもいい、という謙虚な姿勢だったが、ギグリが自分のところで引き取ると言った。私の部屋の方が広いし、マグダは裁縫をやるのだから抜け羽根・・・・が舞うのも鬱陶しいでしょ。ギグリ様の言うことだからマグダも逆らえない。

 本人の希望通り食事の用意から洗濯まで家事全般はサフォンの仕事になった。彼女は朝一番に起きてこっそりとギグリのベッドから抜け出し、朝食ができたところでギグリ、エヴァレット、マグダの順で部屋の扉を叩いて呼ぶ。最後にギグリの部屋に入ってベッドの横で「朝ごはんです!」と声をかける。ギグリは朝が弱いので7時台だとそれくらいしないと起きてこないのだ。ギグリは「もう少し寝かせて」と答えるのだがサフォンも譲らない。「私が嫌がっても必ず起こすのよ」というのが初日夜のギグリ当人の言いつけらしかった。


 そしてどうにか4人で揃って朝食を食べる。一番早く出ていくのはギグリだ。顔を洗って服を着替え、化粧をして屋上へ上っていく。空港が近く「空の道」が通っているのであまり大回りすると危ない。街の上でぐるぐると旋回しながら高度を上げて中層の鳥類博や最上層の城まで昇っていく。

 城の方はシュナイダーの補佐や引継ぎ、鳥類博は肺珠の研究のためだ。耐フラム薬のパールヴェーラーは「臨床試験」こそ中止されたが、研究自体は鳥類博が主導して続けていた。日によっては最下層中央広場に面するエアレースの事務局やクイーン連合に出向くこともあった。

 マグダも衣装の受注のためにクイーン連に度々出かけていたが、作業は基本的に自室に籠って進めていた。エヴァレットもリビングのテーブルにパソコンと電話機を置いて近衛隊やエトルキア軍の事務所とは電話で連絡を取り、できるだけ部屋の中にいるようにした。まだ地域の治安を信用していなかったし、サフォンを確実無事に家に帰したかった。

 近衛隊の本部は城だが、ルフト空軍は空港内に駐留しているし、エトルキアの占領軍が連絡事務所を置いているのも空軍基地の中だった。会議をしようという時にちょっと出て行ってすぐ帰ってこられるので空港に面した部屋はむしろ都合がよかったかもしれない。


 ギグリが出ていくとサフォンは洗濯機を回して部屋中に掃除機をかけ、窓際の物干しに洗濯物を干し、昼食と夕食のメニューを考えて紙に書き出す。買い出しにはエヴァレットも同行して勘定を代わった。昼食が済むとサフォンはソファで少し休み、それからテーブルに算数の問題数を持ってきてエヴァレットの目の前でいかにも真剣そうに日に数ページ進めた。

「私、ママと違って算数が苦手なんです。学校を休んでいる間何もやっていないと全然できなくなっちゃいそうで」

「それは偉いね」エヴァレットはサフォンがその誉め言葉を求めているのがわかった。家に戻った時の免罪符を用意させているのだ。

「クリュスト様は苦手な教科はありました?」

「得意な教科しかなかったよ」

「すごい。万能だったんですね」

「違うよ。そういうことじゃない。体育は得意だった。でもあとは全部落第だったんだ。ほとんど全部苦手だったってことさ」

「ああ……全然そんなふうには思えないですけど」

「お世辞?」

「いいえ」

「たぶん、椅子に座って誰かの話を一方的に聞かされるっていうのが嫌いだったんだ。本は嫌いじゃなかった。勝手に教科書を読んでいたらテストの範囲がわからなくなっていた」

 サフォンは面白そうだった。エヴァレットとサフォンは時々そんなふうに話をした。もちろん外を飛行機が通過する時は声は聞こえない。窓ガラスが震え、まるで建物全体が振動しているような感じになる。騒音が行き過ぎるまで2人でちょっと不安な顔を見合わせて待っていなければならなかった。

 とはいえ飛行機が必ずしもうるさいだけの存在だったわけではない。体を伸ばしたい時、太陽に当たりたい時などは2人か3人で向かいの緑地に出て頭上を通り過ぎる機体の腹を眺めることもあった。大きな旅客機があり、小さな旅客機もあり、だがその半分以上は貨物機型だった。

 ベイロンは人が集まる島であると同時に物が集まる島でもあった。いわゆる一大消費地だ。エトルキアでは民間物流でもスフェンダム輸送機が主流だが、ルフトでは専ら旅客機ベースの貨物機だった。

 たまさか戦闘機など軍用機が飛んできたり飛んで行ったりするとサフォンはぴょんぴょん飛び跳ねながらエヴァレットに飛行機の名前を訊いた。


 マグダがリビングに出てくることはほとんどなく、あるとすれば出かける前の挨拶か、帰ってきた時の挨拶だった。一度衣装の採寸でひどく高圧的なクイーンに当たったらしく、3時頃に憔悴しきった様子で帰ってきてそのままソファに倒れ込んだことがあった。

「あー、なによあれ、ギグリ様に言いつけて今度いじめてもらうんだから」誰も訊いていないのにマグダは愚痴を言い始めた。長い脚をばたばたしていた。

「それはやってることが相手と同じだよ」

「いいのよ。ギグリ様は一番なんだから――あっ、……なのです」マグダは相手が目上の人間であることに気づいて言い直した。

「構わないよ。君のことは尊重しておかないとギグリ様にいじめられるからね」

「すみません」

「クイーンって序列社会なんですね」サフォンは勉強の手を止めてマグダのためにアイスのレモンティーを用意しにかかった。この時期マグダがレモンジュースを紅茶で割って飲むことを早くも把握していた。

「そーなの。人気序列なの」

「マグダは2番とか3番じゃないんですか」

「やめてよ、こんな全然表舞台に出ないクイーンが上位に食い込めるわけないでしょう。私は裏方が好きなの。それに、見かけがパッとしないでしょ。立端たっぱはあるけど、顔も薄いし、髪も目も茶色だし」

「綺麗な鳶色の目だと思いますけど。髪だってさらさらだし」

「サフォンは本当に人を褒めるのが上手いね」

「ありがとうございます。でもマグダもクイーンであることには変わりないんですよね」

「そうよ。そうでもなきゃギグリ様に気に入られて衣装係になるなんて夢のまた夢だったわ。ううん、別に目指してたわけじゃないの。最初はね、あんたは脚が綺麗だからクイーンをやりなさいって家族に言われて、ベイロンに渡ってきて、ちょっとばかしクイーンの経験を積んで、それから他のクイーンの衣装を作るようになったの。睡眠時間を削って、よ。それが体に合うとか、細く見えるとか、いろいろ評価してもらえて、それでギグリ様の目に留まったの」

「意外と計算高いんですね」

「そう。私って意外とやり手なのよ」

「やっぱりクイーンとしての素質もないと成功しない計画じゃないですか?」

「そうかも。かもね。でも私くらいだとどこかで天井にぶつかってたと思うな。君にはそれくらいの序列が身の程だよって。ギグリ様とお喋りできるような関係にはなれなかったと思う。本当にポテンシャルのある子はさ、入ってきていきなりボカーンと売れるんだよ。クローディアはその典型だったと思うな。やっぱり『これは!!』っていう魅力、キャッチーさがないとトップに食い込むのは無理だね」


 サフォンは4時過ぎから夕食の支度を始め、ギグリの帰りを待つ間にバスタブを綺麗に洗って、それでも時間が余ればあとはテレビを見ていた。サフォンの料理の腕は4人の中で実質一番だった。マグダはあまり上手くも好きでもないと公言していたし、エヴァレットもできなくはないという程度、ギグリは上手いのだけど滅多に作ろうとしない。だからサフォンが一番だった。そのまま小料理屋に出してもそつなくやっていけそうな腕だった。

 たった5日間ではあったものの、サフォンのいる日々はとても快適な陽だまりのような日々だった。彼女が健気に働いている姿を見ているとフェアチャイルドの死やこれから対処していくべき厄介事や降りかかるかもしれない災難を少しばかり忘れることができた。

 そうだ、土曜になればアルピナまでサフォンを送っていくことになる。旅客機に乗ってベイロンを離れ、首都ソレスブリュックのハブ空港を経由していく。搭乗券はすでに手に入れてある。ビジネスクラスだ。アルピナも行楽島だがベイロンとはまた趣の違う自然豊かな島らしい。たとえ1日の滞在でも気晴らしができればありがたい。いい旅になるだろうか。邪魔が入らなければいいのだが……。エヴァレットは時々席を離れてトレーニングがてら体を動かしながらそんな想像をした。


 かくして金曜日がサフォンが帰る前の最後の夕食になったわけだが、ギグリもマグダもとても陰鬱な顔をしていた。

「明日からまた私が作らなければいけないんですね」とマグダ。

「私が作りますよ」とエヴァレット。

「このレベルのものが作れるの?」とギグリ。

「……やっぱり残りましょうか?」サフォンは期待半分に言った。

「それはいけない。君のお母さんと約束したからね。チケットだって――」

「ああ、チケット!」とギグリ。

「どうしました?」

「そのチケット、キャンセルしていいわよ」

「シュナイダーに話したの。そうしたらスピリット・オブ・エタニティを使えって。あれならECM(電波妨害装置)やフレアも積んであるから、襲われても安全でしょう?」

 スピリット・オブ・エタニティというのは兵員輸送機のタニンをベースに華美な装飾と内装を施したフェアチャイルドの専用機だ。もとが軍用機なので自衛用装備が整っている。シュナイダーも引き継いでこの2週間移動用に使っていたはずだ。

「明後日の第5戦はどうするんです?」

「新しく専用機を用意したそうね。あれは派手すぎて自分には合わないって」

「維持費が高いから手放したかったんでしょう。燃費も悪いし。で、パイロットをつけてくれるわけではないでしょう。誰が操縦するんです」

「どうしてそんな質問をするのよ。この中で操縦と言ったらあなたしかいないでしょう。エタニティを入れる時にタニンの免許は取ったわね」

「取りましたよ」

「すごい。クリュスト様、飛行機の操縦もできるんですね」とサフォン

「操縦技術は軍人の嗜みだからね。士官校に入ると一通りやらされるのさ」

「大丈夫よ。いざとなったら私でも操縦桿握るくらいのことはできるわ」とギグリ。

「不安なのは管制ですよ。トラフィック(航空路管制)は座学しかやってないですから」

「あら、泣き言かしら?」

 エヴァレットは肩を竦めて溜息をついた。


 マグダは遠出のせいで創作の手が止まるのを嫌って早くから留守番を宣言していた。従ってスピリット・オブ・エタニティに乗り込んだのはギグリ、エヴァレット、サフォンの3人だ。タニンは全長・全幅とも20m弱、キャビンも3×10m程度とあまり大きな飛行機ではないが、たったの3人ではさすがに機内が広く感じられた。

 エタニティは普段空港の地下甲板格納庫に置かれている。エレベーターで空軍の駐機場に上がり、タグでスポットまで引き出されたところでエンジンスタート。無線で管制塔を呼び出してタキシングの許可を待っている間にエヴァレットはサフォンを副操縦手席に座らせた。左が主操縦手席、右が副操縦手席だ。サフォンは操縦室に興味を持っていたし、巡航に入ってしまえばほとんど操縦輪を動かすこともないのでそれから座らせてもつまらないだろうと思った。

「左右のステアリングは連動して動くようになっている。僕が動かすとそっちも動くからね。手を添えていてごらん」

 サフォンはしっかりとシートベルトをして緊張感たっぷりに操縦輪に両手を添え、背中を伸ばして前を見据えた。

「空が見えますね」

 要は地面が見えないのだ。

 横から見るとサフォンの目線がほぼちょうどボンネットのラインと重なっているのがわかった。エヴァレットはちょっと後ろを振り返った。開けっ放しのドアの向こうにアームチェアでくつろいで紅茶を飲んでいるギグリが見えた。今何かを頼んでも無駄だ。サフォンには悪いがそのままにしておこう。旋回に入れば横には景色が見えるはずだ。

 間もなく管制塔から呼ばれたのでブレーキを放してエンジンパワーを上げた。タニンは翼端のエンジンポッドをティルトして垂直離着陸できる設計だが、これだけ整った空港なら通常滑走の方がずっと経済的だ。風は西風。離着陸は風に向かって行うので東西向き滑走路の東端まで誘導路を走った。ちょうど新居のマンションが左手に見えるところでUターンして滑走路に入ることになる。サフォンは額に手を当てて数日間世話になった住処に敬意を表した。挙手の敬礼のつもりなのだろうけど、手首が曲がっていてまるで額をぶつけて押さえたみたいな恰好だった。

 離陸許可を待って加速。500mも滑走することなく浮き上がり、車輪を仕舞って右旋回しつつ上昇した。機体を右に傾けたので右の窓にベイロンの街並みが入ってきた。サフォンはやっと見えた景色に見入っていた。


 5分ほどでベイロンの管制空域を出て航空路管制の周波数に切り替えた。管制塔の管制はベイロンの管轄だが、航空路管制はルフト各地の主要都市に管制室を持つ連邦管制局によって運営されている。空軍機は作戦時こそ迎撃管制という軍の管制システムを使うのだが、ただ単に島の間を渡る時は航空路に乗るのでトラフィックの管制を受けることになる。航路ごとにきちんと道が定められていて、高度や進路を合わせなければならないのだ。タニンは民間の旅客機より巡航速度が遅いので本来の航路より少し高い高度を指示され、時折かなり近い距離を追い抜いていく巨大な旅客機の背中を見送ることになった。

「どんどん抜かされてますよ」サフォンは巡航に入ったところで席を抜け出してキャビンの窓から景色や雲の形を眺めていた。操縦席に座っていても前が見えないのだからその方が楽しみ甲斐があるのは当然だ。「ついていかなくていいんですか?」

「今一番燃費のいい調整で飛んでるんだ。上げるとすごく燃料を食うんだよ」

「遅い飛行機なんですね」

「出そうと思えば旅客機よりずっと速いよ」

 ギグリはアームチェアでうたた寝していたようだが、その会話で目を覚まして操縦室に歩いてきた。翼がスイッチ類に触れないように後ろへ伸ばして副操縦手席に座り、オートパイロットのランプが点灯しているのを確かめてから「少し休みなさい」と言った。

「お構いなく」

「あなたのために言ってるんじゃない。集中力の切れたパイロットに着陸をやらせたくないのよ」

 エヴァレットはちょっと笑った。わざわざ「あなたのためじゃない」と言う時のギグリはだいたい嘘をついている。素直に優しさを見せるのが気恥ずかしいのだろう。そう思うとたとえ相手がギグリでも微笑ましかった。

 ギグリは胸が操縦輪に当たらないように押さえつけながら前屈みになって背中と背凭れの間に長い翼をゆっくり収め、座席の横にかかっているヘッドセットを頭にかけた。ギグリの体には操縦室は少し狭すぎる。エヴァレットはその作業を待ってキャビンに抜け、一通り体を伸ばした。


 アルピナまでは2時間ほどのフライトだった。中下層より上の甲板が全くない特徴的なシルエットが見えてきた辺りでトラフィックからアルピナのアプローチ管制の周波数を伝える最後の交信が入った。

 アルピナの管制官はラフだった。トラフィックの管制官の声はいかにもネクタイを締めたようなしっかりした口調だったのだが、アルピナの方は半ズボンでビーチサンダルでも履いているのかというような具合で、指示は遅いし少ないし、発音も適当で何度も訊き返さなければならなかった。しかもアプローチから最後に管制塔の管制官に引き継ぐのだが、そっちも同じような調子なのだ。僻地の島になるとどこもこんなものなのだろうか。アルピナならそれなりに品格を要する客も飛んでくると思うのだが……。

 呆れながら操縦桿を握っていると特に他に考えることもなく滑走路にタッチダウン、駐機場に辿り着いていた。

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