フェイトフル・スパイラル
カイはエヴァレットが置いていったチケットの時刻をその場で確かめた。明日の10時52分。それを過ぎれば怪しまれるわけだが、かなり猶予があるじゃないか。タールベルグ行きの便が少ないがゆえの僥倖。この時ばかりは辺境に生まれたことに感謝した。
1人の男がヘルメットを脱ぎながらロビーに入ってきた。Gスーツを着ているということはもう1機のアルサクルのパイロットだろう。
その顔を見てカイはびっくりした。
シュナイダーだ。この間のツアー初戦で優勝したシュナイダー、父の戦友だったシュナイダーじゃないか。短い髪、細く四角い顎、鳥のような丸い目。
彼もカイのことを見ていた。
「ああ、ここに居たか、カイ・エバート」
「そっちはシュナイダーさん?」
「そうさ」
「僕のことがわかるんですか」
「君の父さんには世話になったからな。君にも写真では何度か会ってるよ。無線で君の名前を聞いてあまりに衝撃的で、しばらく周りの監視を忘れていたくらいだった」
「早く言ってくれればよかったのに。アルサクルに乗っていたのはあなたでしょう?」
「すまない。だが近衛隊の前で親しくするのは得策ではないと思ってね」シュナイダーはエヴァレットが座っていた席に浅く腰を下ろした。
考えてみればそれも確かだった。自分はあくまでエトルキアの人間なのだ。
カイはそれから脱出したエトルキアのパイロットを撃ち抜くアルサクルの姿を思い出した。穏和な人柄で知られるシュナイダーがあれをやったとは信じられなかった。
「でもなぜレーサーのあなたが戦闘機に?」
「人手不足さ。レーサーばかり人気で、ファイターになりたいという若者は少なくてね。軍人上がりのレーサーも多いし、マニューバで学ぶことも少なくないんだが、どうもな、早く名を上げたいのか」
「僕もその1人ですね。言いづらいですが」
「それもそうか。失礼。……ところでカイ、夕飯でも行かないか。奢ってやろう」
カイは動転した。
どう答えればいいかわからなかった。
言えない。いくらシュナイダーでもベイロンの軍人。時間がないだとか、やるべきことがあるとか、そんなことを仄めかせば絶対に怪しまれる。
「ありがたいですが、なんというか、かなりげっそり疲れていて……」
「天使のことか」
ああ、なんてこった。
お見通しじゃないか。
カイは否定も肯定もできなかった。
「わかってるよ」
「わかってる?」
「彼女のことを諦めちゃいないんだ。そうだろう? その事情を汲んだ上であえて誘っているのさ」
「監視ですか」
「いやあ、違う違う。まあ、こちらの事情は追って話すさ。その前にデブリーフィングだ。待っているのも退屈だろう。聞くだけ聞いていけよ。そしたらシャワーを浴びて街へ出るのさ。基地の中じゃ話したいことも話せないだろう」
デブリーフィングに出席したのはシュナイダーの他、空挺機のパイロットとコ・パイロット(副操縦士)が2人ずつ、あとは飛行隊の戦術将校が立ち会った。要は反省会のようなものだ。
彼らは手や指し棒を使って敵味方の位置を示し、それを動かして空戦の動きを再現した。この動きはいけない、こうすべきだった。これはたまたま上手く行っただけで危ない選択だった……。
カイが驚いたのは全員が全員、全作戦時間に渡って敵と味方の位置を把握していたことだ。彼らはまるで自分の機体のようにエトルキア軍機の行動、動きを淀みなく語った。カイが言うべきことは何もなかった。自機の操縦で手一杯だった自分が小さく思えた。
フラムスフィアによって分断された塔の世界において、せいぜい半径数キロの島の上を走るだけの自動車は移動機械としての覇権から大きく遠ざかっていた。
物流のためのトラックは普及しているが、人口稠密な住宅型の島で一般的な個人の移動手段はトラムと自転車だった。
ベイロンも最下層に関しては住宅型並みの密度であり、自家用車を所有するのはひと握りの趣味人に限られていたが、シュナイダーもその一人だった。
彼の車はハンドメイドのスポーツカーだったが、どう見ても工業用のプレス機を使った本格的なボディだった。相当な金とコネを使って作ったのだろう。
カイはその助手席でしきりにシャツの襟を広げていた。シャワーの時、シュナイダーからタオルと一緒に借りたものだったが、なんだか首が絞まるような感じがするのだ。
道はゆったりした片側2車線で、正面に塔があり、両側では何の秩序もない奇形のビルたちが思い思いに色とりどりのネオンを輝かせていた。店の看板の下やエントランスの前ではボディラインを露わにした華奢な女の子や、胸板でベストをパツパツにした若いマッチョマンたちが客引きをしていた。レースクイーンやジャックの副業だろう。
レースジャックというのは要はレースクイーンの男版で、ただし飛行機にベタベタしている姿はあまり見せない。むしろジャッキアップや部品の交換など働いている姿の方が女受けがいいらしい。部分的には実務を担っているわけだ。
むろんレースクイーン上がりのメカニックやレーサーがいないわけではない。
そうこうしているうちにシュナイダーは車をピロティ型の駐車場に入れてその店の3階へ上がった。レストランに入るとフロアが蹄鉄型に広がっていて、吹き抜けの下にスロットマシンが並んでいるのが見えた。どうぞスッている人間を見下ろして悦に浸ってくださいという趣味の悪い店らしい。下は煩くて、吹き抜けに面した席に座ると店にBGMがかかっているのかどうかわからないくらいだった。
シュナイダーはソーセージの盛り合わせを3皿とソーダを頼んでジャケットを脱いだ。料理はそのあと5分くらいでバニーの衣装を着た背の高い女の子が運んできてくれた。
「ファウロス・エバート。もう10年か。なつかしいものだ。君の父さんと俺は空軍時代からの空戦狂でね。レースにのめり込んでから、今だったらペアを組んでいただろうが、当時は全員敵同士だったからな、なかなか勝てなかったよ。同じ機体を使ってチューニングを寄せても、それでもコーナーの多いコースではあいつの方が速かったさ」
カイは黙って聞いていた。でも話の内容が上手く頭の中に入ってこない感じがした。この話には何の意図があるのだろうか。
「ああ、そうだな。昔話を聞きにきたわけではなかった。なぜ近衛隊の人間が君に肩入れするのか、それを説明しなければな」
「はい」
「君は父さんが死んだ時の状況を知っているか?」
「レース中に他の飛行機を避けようとして壁に激突したって」
「うん。でも操縦ミスじゃない」
「ミスじゃない?」
「エルロンのワイヤーを切られていたんだ。完全にじゃない。レース中負荷がかかると千切れるくらい微妙な具合にさ」
エルロンはロール(横転)に必要な舵だ。狭いトンネルの中でこれが使えなくなれば効きの弱いラダーだけで横方向のカーブに追従するのは絶対に無理だ。
「でも機体はぐちゃぐちゃになっていたはずですよ」
カイはミルドの事故を思い出した。父さんの機体もきっとあんな具合だったはずだ。
「その破片を事故調が分析したんだ。舵のワイヤーを見ると、3本撚り合わせたワイヤーのうち一本は千切れていたが、残りの2本はすっぱり切れて、しかも接着剤で固めてあった。接着剤がなかったら操縦桿の手応えが違うってプリフライトチェックで気づけていただろうな」
「誰かに細工された、ということですか」
「分析官は口止めされていたよ。口止めしていたのはフェアチャイルドだった」
カイは気持ちがカッとなるのを感じた。
落ち着けよ俺。まだ話の途中だ。
「父がフェアチャイルドに始末される筋合いがあったんでしょうか」
「ルフトが独立した時、ベイロンが難民の受け入れ要請を断ったことは知っているか」
「聞いたことはありますね」
「君の父さんは周りの塔の廃墟で暮らす彼らを支援するために賞金を次ぎ込んでいたんだよ。それが富を手に入れた者の責務だと、独立戦争で戦った人間なりに負い目を感じてたんだろうよ。あの廃墟は戦争の惨禍だからな」
「そんな話は聞いたことがありませんよ」
「あくまで償いだからな。静かにやりたかったんだろう。でも嘘じゃないさ」
父さんがトップレーサーだってことは島のみんなも知っていたが、どうせベイロンで豪勢に遊んで使い果たしてしまったのだろうとバカにしていた。
「……いいことじゃないですか」
「だがフェアチャイルドはそうは思わなかった。そんな聖人、政治的に取り立てて称賛したってよかったくらいなのにな。なぜそうしなかったのか? 難民たちが豊かになると困るんだ。止むにやまれずフラムスフィアに下りて発掘で糊口をしのぐ彼らの生活がフェアチャイルドには必要だったのさ」
「どういう……」
「ガスマスクなしでフラムに潜るための薬を売り出そうとフェアチャイルドは考えているらしい。その治験を難民たちでやっているのさ。おそらく君の父さんのことも囲い込もうとした。だが君の父さんはそれを拒んだ」
「そして殺した」
「ああ。たぶんな」
「シュナイダーさん、あなたはその
「そんなもんじゃない。領主の座から追い落としてやらなければならないと思っている。これは俺だけの意見じゃない。廃墟の住人や事情を知っている人間にとってフェアチャイルドは紛れもなく悪人だよ。だが廃墟には市民権も戦力もなかった」
「でも、今は違う」
「うん。天使の一件でベイロンとエトルキアがやり合ってるのはまたとない好機だ。エトルキアにとっても反フェアチャイルド勢力は都合がいい」
「でもエトルキアの狙いはクローディアでしょう。この話を聞いたところで僕には何のメリットもないように思えますね」
「それは少し違うみたいだ。ここからは直接聞いた方が早いだろう」
シュナイダーはそう言って席を立ち、バーカウンターに行って若い男女のペア客から女の方だけを連れてきた。まるで友人同士のような振舞いだが、演技だろう。
カイは自分がもう後戻りできないところまで引きずり込まれているような感覚に陥っていた。だが逃げ出すタイミングもない。逃げ出してそのあとどうすればいいかもわからなかった。
結局カイはじっと座って待っていた。階下からスロットの騒音が湧き上がっていた。そうか、これだけ煩い空間だからフェアチャイルドを追い落とすだなんて危ない話を堂々とすることができるのだ。テーブルの脇を通りでもしないかぎり話の内容までは聞き取れないだろう。
「しかし、思った以上に似ているな」シュナイダーは戻りざまに言った。「エリスヴィルで探してきたのか?」
「ああ。なかなか大変だったよ。時間もなかったし」若い女はそう答え、持ってきた飲み物のグラスをテーブルに置いて空いている席に座った。カジノの雰囲気に合ったオリーブグリーンのドレス。長い黒髪を後頭部に巻き付けるようにまとめていた。
彼女はカイに向き直ってグラスを少し掲げた。握手の代わりだろう。
「私はヴィカ・ケンプフェル。ここだけの話、エトルキアの工作員だ。ことのあらましはシュナイダーさんから聞いたところだね?」
「はい」
「単刀直入に言って、あんな……ンッ、失礼、クローディアは釣り餌に過ぎない。
「どういう意味です?」
「アーヴィング・フェアチャイルドが喉から手が出るほど彼女のことを欲しがっていると聞いてね、ならばベイロン側からエトルキアに実力行使を仕掛けるように仕向けられるんじゃないかと、そういうわけさ」
ヴィカは肩を竦めて先を続けた。
「問題はなぜ仕向ける必要があるのか、だけど、フェアチャイルドを引き摺り下ろせば難民人口が発言力を高めるだろうからね、今のうちに支援をしておきたいのさ。ベイロンが親エトルキアに傾けば平和的に国境を動かす糸口になる。ルフトを刺激せずに廃墟を押さえるためにはベイロンを挑発する必要があったのさ」
「あなたがクローディアのことを釣り餌と言ったわけはよくわかりましたよ」カイは答えた。
「まあいくらフェアチャイルドをやっつけたところでベイロンそのものがルフト経済から離れることはないだろうがね。エトルキアとベイロンの交通が盛んになれば経済的にエトルキアにプラスになる」とシュナイダー。
「さて、話せるところまでは話したかな。エトルキアの黒い面もきちんと明かしたつもりだ」とヴィカ。
「いいんですか。僕はまだ協力するとは言ってませんよ」カイは訊いた。
それは目の前に突き付けられた刃物に被せられたヴェールを自ら剥がすのと同じ行為だとわかっていた。でも我慢できなかった。それが本当に刃物なのか確認したくて仕方なくなってしまったのだ。
「うぬぼれはよくないな、エバートくん」ヴィカは言った。「私たちは常に打算で動いている。君は私たちに協力すればとても価値のある人間だが、1人で帰るのであれば何の意味もない少年に過ぎない。君の口から出た話など掃いて捨てるほどある陰謀論や噂の1つに過ぎないのさ」
「それはあなたが言ったって同じでしょう? あなたが本当にエトルキアのスパイなのか、本当にクローディアを解放してくれるのか、そんな確証はどこにもありませんよ」
「うん。そうさ。信じるも信じないも君次第だ」
「あなた方にとって僕を仲間に加えることに何の意味があるんですか」
「エバートの名は廃墟の住人たちにとっては英雄の名であり、この島の人間にとっては伝説だ」
「なるほど」カイは自嘲っぽく短く笑った。
「決めたか。決めたならチケットを渡してくれ。君は帰郷を偽装できるし、私たちは1人にしろエトルキアへ逃がすことができる」
信じてはいけない、とクローディアは言った。
だが今この状況で相手を信じずに何かがいい方向へ動き出す可能性などちっとも見えなかった。
ハッタリだったとして何の不都合がある? 彼女たちは本当はクローディアを連れ去ろうとしているのかもしれない。そうだ。だが囚われているのは今も同じだ。
打算で動く? それは俺だって同じさ。
カイはエヴァレットに託された封筒をテーブルに置いた。
ヴィカは席を立ち、バーカウンターに残してきた連れの少年に封筒を渡した。少年がこちらを向くとその容姿がカイによく似ていることがよくわかった。グレーの髪、薄青い目、やや丸い顔立ち。
そういうことか。シュナイダーとヴィカが最初に話していたのは彼のことだ。エリスヴィル――つまりベイロン領の廃墟で似た少年を探してきたわけだ。
彼はすぐに店を出ていった。
作戦は2日後、エアレースのツアー第2戦に合わせて行う。この際善は急げだ。会場はエリスヴィルなのでフェアチャイルドが城を出たタイミングを狙うことができる。現地の地下組織とエトルキアの協力を得られるかがカギだ。とにかく明日エリスヴィルに飛んで下ごしらえを始めよう。
3人は話しながらプレートのソーセージを平らげ、勘定はシュナイダーが持った。そういえばヴィカに渡した封筒にはホテルの紹介状も入っていた。泊まる場所も用意してもらわなければ。
「私の借り家にくればいい。どちらにしろしばらく面倒を見るのが筋だ。ホテルの方がいいか?」
「どちらでも構いませんよ」
シュナイダーの家に、という意見が出なかったのは彼が妻子持ちだからだ。家族ぐるみで反フェアチャイルドをやっているわけではないから余計な詮索を生むことになる。もっともな判断だった。
ヴィカもキリっとしたなかなかの美人なのでカイはちょっとどぎまぎしたが、彼女に対してそんな気持ちになれたのは後にも先にもこの夜だけのことだった。
というのもミルドを殺したのが他ならぬ彼女だということをまだ知らないからだった。
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