29話「朝焼けのキス」
29話「朝焼けのキス」
「昨日は悪かったな」
会社に出勤した響にすぐに声を掛けたのは、千弦だった。朝早くに「仕事したいから早く行く」と、連絡が入っていたのだ。響は昨日の夜から連絡がなかったのが気になりなかなか寝れず、そして朝のメッセージを見てまた凹んでしまったのだ。
「………昨日の返事待ってたんだよ」
「だから悪かった」
「いつか時間とれる?舞台の話、聞いてほしいんだけど……」
「あぁ。いつか取るよ。今、締め切り目前の仕事があった忙しいんだ」
「わかった。頑張ってね」
響がそう言うと、無表情の彼はさっさと視線をPCの方へと向けてしまう。そんな千弦を見たくなくて、響もその場からすぐに離れた。
「何か………さけられてない?」
動きやすい服に着替えながら自問自答する響。もちろん、答えてくれる人などいないので、自分で考えるしかなかった。
昨日から彼はとても素っ気ない。いや、彼らしいのかもしれないが、幼馴染みとして仲が良かった頃や恋人になってからの彼は、とても優しかった。自分で思うのも恥ずかしいが、昔と同じように彼の「特別」になれていると思っていた。
けれど、そんな千弦が帰りも何もなく帰ってしまったり、冷たい口調になっていたり、自分の事を見てくれなかったり………。いつもとは明らかに違っていた。
自分は何か彼を怒らせるような事をしてしまっただろうか?そう考えても全く思いつかなかったし、検討もつかなかった。
だか、1つだけ彼に心配を掛けた事がある。舞台の仕事だ。やはり勝手に舞台の仕事を受けた事に納得いかなかったのだろうか。
ゲームの仕事に支障は出ないようにするつもりであったし、無理な条件だった場合は断ると決めていた。けれど、どちらも大丈夫だと判断したため引き受けたのだ。
彼もわかってくれていたはずだったが……本心では違ったのだろうか。
そんなモヤモヤした気持ちを持ったまま過ごすのはイヤだった響はすぐにでも千絃と話そうと心に決めた。
だが、千絃に徹底的に避けられてしまい、なかなか2人きりの時間がとれなかった。仕事も忙しくなり、お互いの帰る時間が違ってしまう事が多くなったのも要因の1つだろう。
けれど、連絡をしてもすぐには返信が来なかったり、響が休憩の時間になると千絃は席を外していたりと、会うことも少なくなっていった。
そして、千絃に相談をする事が出来ないまま、舞台のスタッフとの顔合わせや打ち合わせ、読み合わせなどがはじまってしまったのだった。
仕事が終わってからの合流だったため、響は途中からの参加が多かった。
けれど、舞台役者やスタッフはとてもアットホームな雰囲気で、あっという間に現場に慣れる事が出来た。
主役である春は、実力がありながらも高飛車になる事もない、物腰の柔らかな男性だった。響より年下だったが、初めての舞台だという響にいろいろと教えてくれた。
役柄は響が春が演じる剣士を殺そうとする暗殺者という関係だった。
「本当の剣の使い手に『今宵、そのお命頂戴します』なんて言われたら、身がすくんじゃいそうですよ」
「そんな!春さんの真剣な瞳と雰囲気に私こそ圧倒されてますよ」
「本当ですかー?でも、役者としてそう言って貰えるのは嬉しいですね」
響はその日も皆と、和気あいあいとした雰囲気で稽古に参加していた。
モーションキャプチャーの仕事が終わった後、夜遅くになってしまうが、響にとってとても大切な時間になっていた。
千絃の事を考えなくてもいい時間でもあった。
あれからと言うもの、響も千絃と会いづらくなってしまい、2人の距離は遠くなっていった。会話を交わさない日はほとんどだったし、会わない日さえあった。本当に恋人同士なのだろうか。あの時間は夢だったのかと思ってしまいそうになるほどだった。
「響さん、大丈夫ですか?」
「え!?あ、ごめんなさん……ボーッとしちゃって」
「仕事の後だと疲れちゃいますよね」
「大丈夫ですよ、鍛えてますから!えっと……剣の動きの確認ですか?」
「ええ、このシーンなんですけど、何かかっこよく決まらなくて、みんなに「ダサい」って笑われちゃったんですよ」
照れ笑いを浮かべながらそう言う春は、本当に人気俳優なのかと思うぐらいに親しみやすかった。とても気さくな性格で、こうやって響の事を笑わせてくれた。けれど、稽古になると真剣そのもので、こうやって自分の体の動きや剣の持ち方などを細かく確認してくるのだ。
そういう真面目な彼を見ていると、応援したくなってしまい、響はついつい夜中まで稽古に付き合う日々が続いていたのだった。
休日返上で稽古に行くともあり、剣道をしていた頃とは違った、剣の関わり方をしていた。そんな中でも、朝の日課は変わらない。
前の日も遅くまで稽古に行っておりまだ眠たさもあるが、響はいつもと同じ時間に起きて、竹刀を持って中庭に向かった。
少しずつ暑くなってきているが、朝早くはやはり寒い。肌寒さを感じつつも体を動かせば暑くなると思い、半袖のTシャツにズボン。そして、髪を結んだ響は中庭に向かった。
和歌はもう寝たのだろうか。庭には彼の姿はなかった。稽古では時々会うが、ここでは会うことは少なくなっていた。原作者として、彼は彼で忙しい毎日を送っているようだった。
靴を履き中庭に出ると、和歌の部屋の窓が開いており、窓枠に腕を置き、腕まくらをしながらすやすやと眠る和歌の姿が目に入った。
きっと中庭を見ながら寝てしまったのだろう。
「…………和歌さん……こんな所で寝ちゃうなんて」
仕事をしていたのか、彼はメガネをしたまま熟睡していた。そして、少しメガネがずれてしまい、このままではいつか中庭に落ちてしまいそうだった。
それにこのまま寝てしまっては風邪をひくと思い、響は彼を起こす事にした。
「和歌さん………和歌さーん!」
肩をトントンと優しく叩いて起こそうとするが、和歌は「ん……」と、声をもらすだけでまだまだ眠そうにしていた。
何回か繰り返すが、彼の眠りは深い。全く起きなかった。
響は苦笑し、起こす事は諦めたが眼鏡だけは外しておかないと壊れてしまうのではないかと、気がかりだった。それに寒いのは部屋からブランケットを持ってくればいい。そう思ったのだ。
響は心の中で「起こしてしまったら、ごめんなさい」と思いながら、彼の眼鏡に手を伸ばした。ゆっくりとフレームに触れてゆっくりと彼の耳から眼鏡を外した。彼はまだ寝ているようで目が閉じていたので、響はホッとした。
だが、突然グイッと響は手首を強く引かれたのだ。声を上げそうになるが、それも叶わなかった。何故か。
唇に何かが、触れられていたのだ。
「………っっ………!」
響が気づいた時には、和歌の冷たくなった唇が響の唇に触れられていた。
キスされている。それを理解し、咄嗟に体を離そうとしたけれど、いつの間にか彼の手が後ろに伸びており、後頭部を押さえつけられていた。
響は彼の肩を押すけれど、全く動かない。和歌は体力がないと言いつつもやはり男なのだと思い知らされてしまう。
和歌がうっすらと目を開けて、響を妖艶な瞳で見つめていた。いつもの優しい彼とは違う雰囲気に、響の体はブルッと震えた。
彼が満足するまでの長い間、響は和歌から離れられずにただただ彼を睨み、弱々しく体を押す事しか出来なかった。
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