19話「昔の匂い」
19話「昔の匂い」
「本当におまえはすぐ泣くな……」
一通りの話を終え、準備してくれた弁当を食べた後にはすっかり夕方になってしまっていた。お腹も空かないので夜になっても、テレビを見たり、昔の話をしたりして過ごしていた。
高校の時にケンカをしたまま別れてしまってからは、このように千絃の部屋で手を繋ぎながら話をする事など想像もしていなかった。
それなのに、今ではこのようにソファに座り彼の肩に頭を預け、彼の鼓動を聞きながら安心していられるのだ。
そして、時折彼の手が伸びてきて頬や髪に触れられたり、キスされたりしている。
そんな甘い雰囲気を実感していると、本当に恋人になったのだな、と幸せな心地になれた。
そんな穏やかでもあり、初恋が実った時の甘酸っぱさも感じながら、夜を彼の部屋で過ごしていた。
先ほど言っていたように、千絃は響を本当に還すつもりがないようだった。
そして、突然そんな事を言ったのに、きょとんとしながら彼を見つめる。
すると、千絃は少しだけ腫れている響の目の下に優しく触れた。響はくすぐったさを感じで思わず目を閉じてしまう。
「俺と再会してから、おまえは泣いてばかりだなと思って。昔も俺の前ではよく泣いていたから、大人になっても変わっていないんだな、と思ったんだ」
「私だってそんなに、すぐに泣いたりしないよ。千絃の前だから泣いちゃうし、少し甘えちゃうの」
「………それがずるいんだよ」
「なんでずるい……んっっ!?」
気づくと、千絃は響の体を抱きよせて、キスをしたままソファに優しく押し倒していた。傷を心配しているのか、彼は抱きしめるときに、大事なものを扱うときのように、とてもふんわりとして触れてくるのだ。それが嬉しくも少しだけ切なかった。
暫くの間、彼から与えられるキスの雨に翻弄されてしまう。少し涙が滲んできた頃に、千絃はやっと唇を離してくれるのだ。
「………千絃………」
「俺の前だけ泣けるなんて、そんな嬉しいこと言われて我慢できるはずないだろ。………今の顔だって反則なのに」
「そっそれは千絃がキスしたから……」
響は自分がどんな顔になっているか、容易に想像出来た。千絃からの快楽に、目は潤み、体は熱を帯びている。きっと、次を快楽を求めているような視線で彼を見てしまっているのだろう。
千絃のせいだと恨みながらも、心の奥ではキスが幸せで、もう1度と願ってしまっているのだから。
千絃はその気持ちさえもわかってしまっているのではないかと少し恥ずかしい。
「俺がこんなとろんとした顔にさせたってのが嬉しいんだよ」
「でも、千絃だって見たことない顔してる」
「え………」
「男の人の顔、してるよ。私を欲してくれてる目だし、少し頬が赤い。………こんな表情見たことないよ」
「………いつでも俺はおまえが欲しかった。けど、必死に我慢してたんだ。だから、自分のものになった途端に我慢の限界だった。体が痛い時に悪かったな……」
「………後、少しぐらいなら大丈夫………」
恥ずかしさよりも千絃と近くに居たい気持ちが勝り、おそるおそるそう言うと、千絃は少し驚いた表情を見せて後、ハーッとため息をついた。それは呆れているというよりは、少し喜んでいるように見えて、響も視線を逸らしてしまう。
自分は彼に愛されているのだな。そう思えたのだ。
「………おまえ、俺を煽って我慢出来るのか試してるのか?」
「………そんな事は……」
「でも、今日はキスだけって決めたんだ。お互いに怪我をしたんだからな」
「うん。……そうだね」
そう返事をすると、彼は目を細めて愛おしそうに響を見下ろして、頬に触れてくる。
「だから、しばらくキスだけするか」
「…………うん」
きっと、今の自分はとっても喜んだ表情をしているはずだ。そんなのは見なくてもわかる。
心からそれを望んでいたのだから。
響は微笑みながら、ゆっくりと目を閉じた。最後に見た彼の表情も響と同じだった事に、嬉しさを感じながら、千絃の唇の感覚に酔いしれたのだった。
そんな甘い夜だったが途中からは暗雲が立ち込めていた。
「だから!俺は気にしないって言ってるだろ?」
「私は気にするのよ!」
「いいから、怪我人は早く寝るぞっ!」
「いやよ!」
響はソファに座り、そう抵抗の声を上げると、千絃は「おまえは………」とため息混じりの声を出した。
「1日ぐらい風呂に入らなくてもいいだろ」
「一応女なんで、そういう事は気になるんです」
「………俺が言いって言ってるだろ。何で、そこまで嫌がるんだよ」
何故言い合いになってしまったのか。
それは寝る前にお風呂に入る事になった頃から始まったのだ。
響は腕を何針か縫う怪我をしたのだ。そのため、今日は入浴は厳禁なのだ。お風呂で綺麗にしていない体のまま、千絃のベットを使うのは申し訳ないと、一緒に寝るのを断りソファで休もうとした響を、千絃は反対したのだ。
響としても、それは譲れなく言い合いになってしまったのだ。
「………絶対いやよ!ソファで寝るから!おやすみなさいっ」
そう言って、ソファに横になろうとした。
けれど、その体はソファに倒れるどころか浮いてしまっていた。
千絃が抱き上げて、そそくさと歩き始めてしまっていた。
「ちょっ!ちょっと……離して!」
「危ないから暴れるな」
「だって、千絃が……」
「そんなに嫌か?俺と寝るの……何もしないって言ってるのに」
そう言うと、寝室にある大きめなベットに響をゆっくりと下ろした。
その声はとても残念そうであり、響を見る目もどことなく寂しそうであり、響は思わず躊躇ってしまう。
「そういうわけじゃ………」
「じゃあ、理由は?」
「………だって、恥ずかしいじゃない。初めて、千絃と一緒に眠るのに、綺麗じゃないなんて嬉しくない」
「…………なるほど。じゃあ、こうしよう」
「え?」
「響を貰うときに俺が綺麗に洗ってやる」
「………………え…………」
「よし。じゃあ、寝るぞ」
そう言って響の体を優しく倒し、千絃もそのまま隣に横になってしまう。
リモコンで電気を消し、間接照明だけになると千絃は響を抱き寄せ始めた。
「何で勝手に決めるの!?一緒にお風呂なんて無理……」
「その話しはまた今度な。もう寝るぞ」
「だから、今日は嫌なのに……」
「………おまえの匂い、懐かしい。やっぱり、安心するな」
千絃は目を瞑りながら、響を抱きしめてそう言った。その表情はとても穏やかだった。
そんな事を言われてしまっては、もう彼から逃げ出す事は出来なかった。
響も千絃と同じように、昔の懐かしさと心地良い安心感を感じてしまったのだから。
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