水引
それを知ったのは彼女の葬儀が終わって数日後。
ポストに投函された一枚の封筒。その中に入っていたのは「水引 琴音は永眠しました」という簡単な文章が書かれた紙が一枚。
「
結婚を許さないと言われたあの日、眉を八の字にして弱々しく笑った琴音を覚えてる。
あのまま送り出すんじゃなかった。
「ちゃんと、結人はいい子だって姉さんたちに言うから」
そう言って実家へ戻った彼女を、止めれば良かった。
なんで琴音が死なないといけないんだ。
カッとなって手紙を思わず握りつぶす。
ふわっと白壇の香りが漂ってきたが、それは彼女の実家を思い出させるものだった。余計に気が立った俺は近所迷惑も考えずに壁を殴りつけた。
隣の部屋から怒鳴り声が聞こえてきた気がする。でも、もう一緒に住んでいる琴音はいない。だからもう彼女の評判を気にする必要はない。
一言「うるせえ」と部屋で怒鳴り、もう一度壁を思い切り殴ると怒鳴り声はもう聞こえなくなった。
もう俺たちは成人してる。だから、親ならまだしも彼女の姉たちに結婚の許可なんて本来もらわなくてもいい。
でも彼女は頑なに姉たちの許可を欲しがった。
なんでかはわからない。ただ、彼女の家系に少しだけ特別な事情があるから…そう聞かされていた。
彼女が好きだった白木造りのローテーブルにつっぷしながら考えてもなにもわからない。
モヤモヤして頭を掻きむしると、鳶色の自分の毛がハラハラと落ちる。
彼女は、俺の髪色が好きだと言って、抜けた髪を集めてお守りにしていたっけ…。
明かりを付けているはずなのにどこか薄暗く感じる室内を見回す。
琴音が好きだったインテリア、白いボタニカル柄のカーテン、鮮やかなピンク色をした椿を生けたガラスの花瓶。
椿はぼとりと大ぶりな花を落としている。
全部全部彼女の思い出が付き纏う。
もう琴音は帰ってこない。その事実が信じられなくて、俺はスマホを取り出して琴音の番号をタッチする。
呼び出し音が数回鳴る。
もしかして、タチの悪い冗談なんじゃないか。
顔だけは琴音にそっくりの、性格の悪い姉たちがいたずらであんな手紙を送っただけだ。琴音は案外元気でやっていて「もう姉さんたちったら」と笑ったあと、俺を実家に招いてくれるんじゃないか。
そう期待しながら呼び出し音が終わるのを待つ。
でも、ずっと呼び出し音は鳴ったままだ。
今は出られないのかもしれない。
そう思い直して、もう一度かける。
でない。
その繰り返し。
スマホをなくしたのかもしれない。
琴音の実家は、山の麓にあって集落から少し離れている。
険しい渓流もあるし、あの橋はかなり古かった気がする。
落ちて動けなくなっているのかもしれない。
生きているのかもしれない。
あの手紙はいたずらだろう。彼女が死んだなら、スマホを解約するはずだ。
だから、彼女は生きているに違いない。
事故ではないなら、あの性悪な姉たちが監禁でもしているのだろう。
助けなきゃ。
そうでないとしても、とにかく琴音の実家に行く必要がある。
バタバタとタンスの中をひっくり返すようにして荷造りを始めた。
着替えは…上着くらいでいいか。最悪現地で買えばいい。
スマホの充電器、サバイバルナイフをフェイスタオルに包んでショルダーバッグに詰め込んで部屋を見回す。
そうだ。琴音は俺の髪を入れたお守りを持っていた。
俺もなにかお守りでも持って行こう。
琴音の部屋に、彼女が家を空けてから初めて足を踏み入れる。
白を基調としたこぎれいな部屋。
留守だからといって、恋人のプライベートな場所を勝手に荒らすわけにはいかない。
ハンカチでもあればちょうどいいんだが…。
視線を泳がせると、これ見よがしに彼女の机の上にはハンカチで包まれた小包が置いてある。
慌てて駆け寄ってそっと開く。
甘い桃の香水がふわっと香る。彼女がよく使っていたものだ。
なんだか泣きそうになりながら、ハンカチに包まれている物を確かめた。
白い和紙の封筒。
開いて中を確認する。
琴音が描く少し丸っこい可愛らしい字。久しぶりに手書きの文字を見たな…。
そこに記してあった文面はこうだった。
結人、心配してるよね。
多分この手紙を見る時、私は家に帰れなくなっているのでしょう。
私は多分帰れません。かがちさんのお嫁になることになったんだと思う。
結人と一緒にいたかったんだけどな…ごめんね。
一つだけお願いがあります。
「もし、結人が私を愛してくれているのなら、自分勝手な私を許してくれるなら…姉さんたちにかがちさんのお嫁さんになってもらってください。そして、私の黒椿柄の着物を滝壺に投げ入れてください」
最後の一文を何度か口に出してみる。
どういうことなのかさっぱりわからない。
着物がないかどうかタンスの中やクローゼットの中を見てみたけれど見当たらない。
とにかく、琴音は誰かと勝手に結婚をさせられてしまうらしい。
死んだってのは嘘なんだ。
滝壺になんで着物をなげいれるのかはわからない。今は琴音を助ける方が先だ。
もう夜が明けそうな時間。
俺は荷物を取ると家を飛び出した。
彼女の実家はとても遠いところにある。財布の中に有り金を全部入れた。
結婚資金のために二人で作った口座…そのキャッシュカードも一応バッグの底に隠して入れた。
心臓がバクバクする。
耳の奥でキーンと高い音がしている。
じめじめする。
梅雨の始まりにふさわしい嫌な天気だ。
俺は駅に着くなりホームに到着した電車に飛び乗った。
景色はどんどんと流れ、いつの間にか建物もまばらになる。畑が多くなってきて、段々と山が増えてくる。
電車の中でも何回か琴音のスマホを鳴らしてみた。呼び出し音だけが流れる。
乗り換えのタイミングで公衆電話からもかけてみたけれど、誰も出なかった。
手紙に書いてあったことについて考える。
かがちさんってのは誰だろう…と。
一度だけ琴音の実家へ行った時にそんな話は多分聞かなかった。
まぁ、俺の鳶色の髪を見て顔をゆがめた姉二人のせいで、俺は琴音の実家の敷居すらまたげなかったんだが。
あの時の琴音の姉たちが俺に向けた冷たい視線を思い出す。
顔立ちは、琴音と似ているのに、鋭い蛇みたいな目つきがどうも気に入らなかった。
髪を伸ばしている琴音と違って、首の付け根あたりで切りそろえた短いボブという髪型もなんだか気味が悪いように思えて仕方がない。
なんであんな扱いをされなければいけなかったんだと腹が立つ。
朝に出たのにもう時間は昼過ぎだ。
もうすぐ彼女の実家が近い駅へ着く。
そこからバスに乗って集落を通り過ぎ、
無人駅を降りて深呼吸をする。
まずは琴音の実家へ行って着物を探さないといけない。
「そこの怖い顔したお兄さん、どうしたの」
声がした方を睨み付ける。
古い電信柱の影からひょこっと顔を出したのは、どことなくのっぺりとして色白の少年だった。
整った顔立ちをしているが、つり上がって顔の中心に寄っている目はなんとなく蛇を思い出す。
「今日は結婚式だから村の大人たちは家から出てこないんだ。暇で嫌になっちゃうよ」
「結婚式?かがちさんってやつのとこか?」
「痛いよ」
思わず少年の腕を掴む。強く掴んでしまったようで悲鳴めいた声をあげられたので慌てて手を離した。
「すまん」
「かがちさん…か。その呼び方をするってことはミズビキの者だね」
少年は、ぺろりと唇の周りを嘗め回すと俺を上目遣いで見て、薄い唇を閉じたままニッと笑う。
「なるほど。この匂いを俺は知ってる。ああ…そうだ…あんたにおもしろいものを見せてやろう」
いつの間にか俺のポケットから琴美のハンカチを取り出していた少年の目が薄気味悪く輝く。
そして、にょろりと手が伸びてきたかと思うとグイッと信じられない力で引っ張られる。
バスに乗って俺は今から山へ行かないとダメなんだと言う暇もなく、少年は書けだした。
ガキの暇つぶしに付き合ってられるか。
そう言って少年の腕を振り払おうとした。
「椿ひとつ」
ばちゃん。
なにか重い物が水に落ちるような音が聞こえてハッとする。
いつの間にか、山の中に俺はいた。
どうやってきたんだ?気絶でもしたか?
それにしては、まだあたりは明るい。
「椿ふたつ」
ばちゃん。
また音がする。
大きな物を水に投げ入れたみたいな音。
ここからは渓流にかかっている古ぼけた橋がよく見える。
橋の真ん中にいる真っ白な装束を着た老人が、緑色の葉を先に括り付けた棒を振っていた。
落とされたのは人の頭ほどある大きな椿の作り物だ。
その隣に見覚えがある人影が三つ。
後ろ姿でもはっきりとわかる。あの首の付け根で切りそろえられた黒髪…。橋の上にいる内の二人は琴音の姉たちだ。
「椿をみっつ」
べきん。
ばちゃん。
肉と骨が砕ける音。
そして、滝壺に姉たちの隣にいた人間が落とされた。
じわあ…と水面に綺麗な長い黒髪がぬらっと水の流れと共に広がる。それから少し遅れて赤黒い色が渓流を流れていく。
まるで喉が張り付けられたみたいに声が出ない。
あれは琴音だ。
今すぐ飛び込めば助けられる。なのに足は動かない。
「お兄さん、いいことを教えてあげる。この村にはすごい言い伝えがあるんだ」
息が吹きかかるくらいの距離に、さっきまで話していた少年の顔が現れて俺は目を開いた。
さっきまで見ていた物が夢のような物だと気が付く。
気を失っていたのか?
「今はそれどころじゃない。それに俺は機嫌が悪いんだ。ガキは早く家に帰れ」
「死んだ人や会えなくなった人に会える方法…知りたくない?」
いつの間にか俺はぼろっちいベンチに少年と隣り合わせになって座っていた。
さっき見た変な光景のせいなのか、着ている服が冷や汗でぐっしょりと濡れている。
わけがわからない。
しかし、少年はそんな俺におかまいなしといった感じで、一度離した顔を、再びぐいと近づけてきた。
そして、親しい大人に話しかけでもするよな口調で口を開く。
「もう一度会いたい人と縁が近い家族、その頭を二つ洞戸大山にある滝壺に投げ入れるんだ。それでね、会いたい人が気に入っていた服を投げ込むと不思議なことが起こるんだって」
「…不思議なこと?」
「成功するとね、投げた服の中に小さな種が入って下流に流れ着くんだ。その種を植えるとね、会いたい人が生えてくるんだってよ」
「馬鹿馬鹿しい。さっさと家に帰れよ」
どうでもいい話だった。人が種から生えてくるなんて聞いたこともない。
信じるだけ無駄だ。
俺は少年を手の甲でしっしと追い払うようにして、立ち上がった。
かゆくなって自分の右手に目を落とす。
いつの間にか手首をぐるりと囲むように縄の痕みたいなものが出来ていた。なんとなく鱗みたいにも見える。
虫刺されだろうか?どこかで擦ってしまったんだろうか。
「かがちさんは数をごまかされるのに飽きてるから…さ」
「どういうことだよ」
なんだか急に少年から出ている声がしわがれた老人の物みたいに聞こえて慌てて聞き直そうと声をかけた。
少年の腕を掴もうと手を伸ばすと、ごうっと強風が吹き、思わず目を閉じてしまう。
次に目を開けた時には、開けた道にもかかわらず少年はどこにも見当たらなかった。
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