別れの春

@Tsu_Lavender

別れの春

 代わり映えのない春だ。去年より少し肌寒くて、桜が咲くのが少し遅れただけの春。私は何も見えないベランダで一人、発泡酒の缶を開けた。

 中身が半分より少し減った頃、宅配業者以外が鳴らすことなどないインターホンが鳴る。こんな音だっただろうか。どうでもいいか。

「進んでるか〜?って、何だこれ!明日引っ越しだろ?!終わるのか?!」

 私は片付けているつもりなのだけれど、むしろ散らかって行くように思える、そんな私物が散乱する部屋に彼は何気なく足を踏み入れた。人を招くのは初めてだったけれど、なんとなく嫌な気はしなかった。

「終わる気がしないので、気分転換をしています。」飲みかけの発泡酒を差し出すと、彼は呆れたようにそれを飲み干した。

 

 ついてなかった。言葉にすればその程度のことなのかもしれない。

 順調そうだった社会人生活が、異動で、上司で、同僚で、一瞬に崩れていった。最初に悲鳴をあげたのは身体で、悲鳴を上げる身体を守るように心が悲鳴を上げた。苦しかった。他の人が何気なく過ごしている日々を、精一杯生きた。でもダメだった。苦痛は楽になることはなく、傷口が広がり膿んでいくだけだったのだ。もういいよ、と私が私を許した。誰も許してくれなかったから、私が許してあげた。何一つ納得なんて出来てはいなかったけれど。

 削るように守ってきた日々や地位は、捨てると決めたら目まぐるしく変わって行った。これで良かったのか、そう思う暇もないほどにトントン拍子にややこしい手続きも引き継ぎも終わって行く。そうして最後に残ったのは、丸四年を過ごしたアパートに丸四年で増えていった何かと何でもない私だけだった。

 

「は〜、そんなとこだろうとは思ってたけどな。いいよ、とことん付き合ってやる。」

 相変わらず、お節介だな。これからもずっと、お節介なんだろうな。と腕まくりをして、ダンボールを組み立て始めた彼の姿がやけに眩しく見えて、なんとなく目を細めてみた。

 単身用の引っ越しプランには収まらない程ものが溢れている。買って開けていないCD、読みかけの小説、賞味期限がとっくに切れた実家からもらった緑茶。あまりにも多すぎて、要るのか、要らないのか、それさえ段々とわからなくなった。たったの二択問題が面倒で、私はペンを放り出したのだ。

「これは?」

「うーん、要らない、かなぁ」

「じゃあこれは?」

「要らないー…かな」

 要らないもんばっかじゃねぇか、とこぼしながら彼は要らない服を丁寧に畳んでゴミ袋に入れていく。

「なんだか全部要らないような気になってきたよ。」そんな彼の姿に嫌気がさし、捨て台詞のように言ってみた。言ってみただけの言葉が、散らかった部屋にボワンと吸い込まれていった。

「そういうの、好きじゃない。」

 彼は少し怒ったように、私の目を見た。

 

 ヤケになっていたんだ。辛かった日々を忘れたくて。忘れようと思ったから、全部捨てたかった、辛かったことを思い出す何かは要らない。ここに置いていきたい。でも彼は許してはくれなかった。

「これからも使うものをこの箱に詰めて、それで、使わないけど、捨てるか迷うものをこの箱に。要らないものは俺が全部まとめるから、ホラ。」

 差し出されたダンボールを、渋々受け取って、とりあえず明日も使うものをぽつ、ぽつ、と箱の中に乱雑に放り込む。手に取って、要らないな、と思ったものは彼に、少し迷ったものはもう一つの箱に、そうやって部屋の中が少しずつ静かになっていく。

 

「やってみれば意外と進むもんだろ?」麦茶をゴクリと飲み干して、彼は言った。うん、と頷きながら私も麦茶を口に含む。コンセントを抜いた冷蔵庫の中の麦茶は、思ったよりもずっとぬるく、時間の流れを感じる。さぁ、もうひと頑張り、やっちゃおうぜ。そうだね。私は2つ目の段ボールにガムテープで封をした。

 

「まさか終わるとは思わなかった…」

 深夜のファミレスで、トマトソースのパスタをフォークに巻き付ける。反対側では、彼が大きな口で和風ハンバーグを頬張った。

「最後まで付き合うって言っただろ?」

 私と彼は友人で、でも恋人ではない。友人とはいえ、せっかくの休日を肉体労働に費やすなんて、彼はものすごくお節介で、そして優しい人なのだ。私はそれをずっと知っていた。

「落ち着いたら、連絡くれよ。あっ、いや、無理にとは言わないから、嫌じゃなかったらで良いよ。思い出したくないこととか、あるだろうし。」

 そう早口で言って、彼はドリンクバーを取りに席を立った。私の返事を聞かなかったことにするみたいに。だから私も、もう何も言わなかった。

 明日何時?、9時。、新幹線は?、12時。何度か二人で歩いた道を、今日は踏みしめるように歩いた。隣で自転車を押す彼が、いつ、じゃあな、とその自転車を跨ぐのか、考えている私がいた。

 忘れたいことばかりだ、何もかも。嫌な思いもしたし、自分のことだって嫌いになった。だから、もうこんな気持ちは忘れてしまいたい。こんな気持ちになった今日までのことを忘れてしまいたい。今しかない。今しかないのに、忘れることを躊躇ってしまうのは、おそらく。

「んじゃ、気をつけてな。」

 そう言って彼は、春風のように私の横をすり抜けていった。

 

「ちょっと入らないですね。料金上がっても良いならスペース増やして詰めれるんですけど。」

 引越業者さんはそう言ったけれど、たった1つのダンボールのために、お金を払うのも勿体無くて、そのままトラックを見送った。部屋には私とキャリーケースと置いてかれたダンボールがひとつ。使わないけど捨てるか迷うもの、そう言って彼が渡してくれたダンボールだった。

 

「捨てる、か。」

 余ったゴミ袋を取り出して、空気を入れる。その時再びインターホンが鳴った。

「おっ、まだいた。良かった〜。」

 コンビニで買った発泡酒を2本携えて、その男はやってきた。相変わらずお節介でタイミングの良い男だ。

 部屋にポツンと残されたダンボールと私を交互に見て、捨てるん?、と問いかける。私は答えられない。さっきまで捨てようとしていたのに。

「捨てないと、」

 その言葉が口から出たのが先か、目から涙がこぼれたのが先か、どちらが先かわからなかった。どうして泣いているのかも、よくわからなかった。寂しいのか、悲しいのか、辛いのか。そしてすごく、恥ずかしかった。蹲った私に、彼が慌てて駆け寄る。どうした?、と彼が背中をさすると、どうして涙が出るのかなんとなくわかるような気がした。

 

 捨てたくなんて、なかった。思い出も場所も物も。嫌なことがあったと同じように、嬉しかったこともあったのに、嫌なことを思い出すから要らないことにした。捨ててみて気がつく、一つ一つ思い出があって、気持ちがあって、その時の私が頑張って生きていたこと。それらは何一つ要らないものではなかったこと。

「忘れないで、」

 私が要らないことにして捨てようとしていたこの土地に残る彼に、覚えておいて欲しいなんて贅沢で傲慢だ。でも、誰が忘れても彼だけには覚えておいて欲しかった。全て捨てようとしていた私に、最低限必要なものを持たせてくれた、優しい彼に。

 

「忘れられるわけ、ないだろ。ずっと知ってたから言えなかった、お前が辛かったのに、何もしてやれなかった。行くななんていう資格、ないのに。お前が全部忘れようとするから、無駄に引き止めたりして、俺はお前のこと忘れられないのに、お前は、」

 ビニール袋を強く握りしめる手が、小刻みに震えているのを見た。そうか。

 私が頑張って生きていたこと、この人はずっと覚えていてくれたんだ。

「ありがとう、ごめんね。ありがとう。」

 私が大切に出来なかった私を大切にしてくれて、ありがとう。

 

 あのダンボールはまるっと、彼が持って帰った。お前が帰ってくるまでちゃんと取っとくから、大丈夫、そう言って。

 でも私は、きっとすぐ取りに帰ってくる。大切なものと大切な思い出と大切な人を。

 元気になるまで、しばしのお別れ。でもまた会えるから、寂しくなんてない。彼がくれた発泡酒を開ける。プシュッといい音が新幹線の中に響く。口に含んだ発泡酒はやたらぬるくて、優しい味がした。

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