第13話 脱出
子供の頃の夢を見た。アイリが生まれてすぐの頃の夢だ。夜寝る時に母さんの胸に顔を埋めて寝ている。その時にした甘いミルクの匂い。
ゆっくりと意識が覚醒していく。まだ目は開かない。懐かしい夢を見ていた気がするけど、なんだったか忘れてしまった。
何か柔らかいものに包まれている。おまけに頭を撫でられている。昨日はどうしたんだったかな…………谷の底に落ちて…………あれ? おかしいぞ。
状況がおかしいことに気づき始めると、急激に意識が覚醒した。目を開けると、眼前には肌色があった。昨日の時点でこの場には俺とリッカしかいなかった。ということは、この白磁の如き美しさの肌の持ち主はリッカに間違いない。要は俺の頭がリッカに抱えられている状況だ。これは非常にまずい状況だ。
当のリッカは俺の頭を撫でながらのんきに寝息を立てているが、絶対に目を覚まさせてはいけない。リッカを起こさずに、この天国から脱出するという高難易度ミッションを達成しなければいけない。
クソ、なんで朝からこんなに幸せ、もとい辛い状況に陥っているんだ。まずはなんとかしてこの幸せな拘束から逃れなければ。
ゆっくりと頭の位置を下にズラしていく。その際柔らかな双丘が俺の頬を優しく撫でるが、努めてその感覚を無視する。
「んぅん……!」
心臓が止まるかと思った。この体勢で目なんて覚めてみろ。友情ブレイクどころか一生軽蔑されること間違いなしだ。幸いにしてまだ目は覚めていないようだ。一刻も早く脱出しなければ。
もぞもぞと、しかしあくまでも目が覚めないようにゆっくりと移動して遂に幸せ地獄からの脱出に成功した。ミッションコンプリートだ。
しかし、改めて見るとデカイ。何がとは言わんがデカイ。サーシャ並だ。さらしで押さえつけられていたせいか、ぜんぜんそんな風には見えなかった。今は結びが解けてあられもない姿を晒してしまっている。それがまた酷く扇情的に映った。
「はあ……」
ガシガシと頭をかく。なんで朝からこんなに疲れなければいけないんだ。いつの間にお互い寝返りを打っていたんだろう。しかもリッカは俺の頭抱いてるし。寝相とは恐ろしい。
いつまでも見ているのも失礼だ。俺は後ろ髪引かれる思いで視線を外し、寝袋から這い出た。そして、ようやく乾いた制服に袖を通した頃になって何も知らないリッカが目を覚ました。
「ふわぁ~あ……よく寝た」
「よかったな……」
「いつも抱き枕を使っているから眠れないかと思ったけど疲れてたのかな」
俺はもう何も言えなかった。口が裂けても俺を抱き枕代わりにしてたなんて言えない。
「可愛い赤ちゃんを抱っこしてる夢を見てた気がします」
「ぶっ!」
「どうかしましたか?」
「いやなに、ちょっとむせただけだ」
この事は墓場まで持っていこう。絶対にバレてはいけない。
「あら? さらしが解けてる……」
余計なことは言わないぞ。ツッコんでやぶ蛇になったら目も当てられない。
「寝相が悪かったのかな……。ねえエル」
「はい」
「私、寝相悪かったですか?」
「いやーそんなことはなかったと思うぞ? とても健やかに眠っていたよ、うん」
「うーん……さらしつけて眠ったことないからなあ……こうなっちゃうのかな……?」
これ以上この話題を追求させてはいけない。俺の生存本能がそう囁いている。俺はあくまでも自然に、流れるように話題の転換を行うことにした。
「いつまでもこんなところにいるのもイヤだし、とっと脱出しようぜ」
「そうですね……そうしましょうか」
成し遂げたぜ。まだ釈然としない感じは見受けられるけど、とりあえず話題を変えることには成功した。
それから俺達は歯を磨いたり朝食を食べたりといった身支度を済ませ、この谷底からの脱出を決めた。
「とは言ったものの、どうするか」
「地下水のところを流れに沿って歩いてみませんか」
「そうするかあ。一応道になってたしな」
そうと決まれば行動は迅速に。俺はリュックを前に掛けてリッカの前にしゃがんだ。
「急にしゃがみ込んでどうしたんですか?」
「おんぶだよ、おんぶ。その足じゃ満足に歩けないだろ」
「でも……」
渋るリッカに俺の言葉は決まっていた。
「困った時はお互い様って言っただろ?」
「……そうでしたね。すみません」
「違うだろ? こういう時は、ありがとうだ」
「ふふっ。ありがとうございます」
リッカが優しく俺の背に覆いかぶさってきた。しっかりと首に巻かれた手が信頼の証な気がして誇らしかった。
「重くないですか?」
「軽い軽い。男を舐めんなよ?」
「よかった。じゃあ行きましょうか」
リッカを背負ってテクテクと道を歩く。今は何時頃なんだろうか。日差しがギリギリ注いでいるから足元が見えないという事はないけど、それでも薄暗いことに変わりはない。それに、似たような景色が続くから進んでいるのか戻っているのかすらわからなかった。
それに、不安材料もある。リッカを背負ったことで腹圧が上がったのか、腹の傷が痛んでしょうがない。制服の下が血でヌルヌルしているのがわかる。
それでも40分くらい歩き続けていると、リッカがあることに気付いた。
「エル、見てください」
「んー?」
リッカが壁の一点を指した。一見するとただの壁だが、よく見ると矢印が掘ってあるのがわかった。
「これ、ひょっとしたら道案内かもしれませんよ」
もしかすると、過去にも俺達みたいに谷底に落ちた人達がいたのかもしれない。
「だとしたら好都合。このまま歩いていけばいいってことだもんな」
「ですね。私が見てるのでエルは歩くことだけに集中してください」
「りょーかい」
とは言ったものの、さっきから体調がよくなかった。息が上がるし、身体もダルかった。
俺にもプライドがあるから平気な顔してリッカを背負い続けているが、これが一人ならとっくにダウンしていた。連戦続きで体力がバテている中であの寒さだ。全身筋肉痛だし、腹の傷が更に悪化したようで出血が止まらない。下手したら膿んでいるかもしれない。だが、それでも歩みを止めることはしない。
それから更に1時間も歩くと、俺の異変に気付き始めたリッカが歩みを静止した。
「エル、すごい汗ですよ? ちょっと休みましょう」
「そ、そうか? そうかもしれないな、ちょっとだけ休ませてくれ」
リッカを優しく地面に降ろす。そうすると、もうダメだった。地べたに座り込んだ俺は、一歩も動けなかった。
「はあ、はあ……ちょ、ちょっとだけ休憩な」
「大丈夫ですか? 酷い汗ですよ」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。それよりリッカ、腹減ってないか? まだ缶詰が一個くらい余ってたはずだからそれ食べなよ」
「……何か隠してませんか?」
「な、何も隠してなんかないぜ? 俺だけ美味しい缶詰食べよーだなんてそんな――」
無意識に腹を隠したのがいけなかった。目ざとくそれを発見したリッカが俺の服を脱がせにかかった。普段であればその手を払うことなどわけないが、今はそんなこともできなかった。
「……っ! この傷、こんなものを隠してたんですか!?」
「隠してたつもりはなかったんだけどな……」
自分でもちょっと引くくらい出血していた。おかしいな。落ちた当初はこんなことにはなっていなかったはずなんだが。腹圧がかかったせいで裂けてしまったんだろうか。
「何かできることは……そうだ……!」
リッカがおもむろに服を脱ぎ始めた。上だけかと思ったら今度はワイシャツのボタンにまで手をかけ始めた。
「お、おい、何してんだよ」
「黙っててください!」
遂にリッカは上半身さらし一枚になってしまった。しかし、それでも手を止めずに今度はさらしにまで手を付け始めた。いよいよ俺は見ていられなくなって視線を外した。
それから幾ばくもしない内に、リッカが俺の腹に何かを巻きつけ始めた。
「……さらし?」
「私のお古で申し訳ないですが、無いよりはマシなはずです。ちょっと痛みますよ」
「っツ!」
ギュッと縛り付けられた。なかなかの痛みが走ったが、リッカの手際はよかった。自身が剣を握るからこういうのには慣れているのかもしれない。
「よくこんな傷を負いながら私を背負うなんて言えましたね」
「そんな怖い顔すんなよ。女の子を助けるのは男として当たり前のことだ」
「都合のいい時だけ性別を出さないでください! どうして、どうして言ってくれなかったんですか……! こんなことになるなら、私は……!」
ぽろぽろとリッカは涙を流し始めた。こうなると俺にできることは謝ることしかない。
「ごめんな。リッカに心配かけないようにって思ったんだけど……俺が勝手にやったことだから、リッカが責任を感じることはないよ」
「どうして……! どうして貴方はそうなんですか! ずっとずっと私のことばかり優先して! 少しは……少しは自分のことも考えてください……」
優しく俺の胸を叩くリッカに、俺ができることと言えば彼女の頭を撫でてやることくらいだった。
しばらくの間そうしていると、泣き止んだリッカがゆっくりと離れていった。そして、恥ずかしそうに俺から顔を背けるとこう言った。
「少しでも荷物を軽くしましょう」
「いや、だから大丈夫だって――」
「うるさいです。軽くすると言ったら軽くするんです。必要最低限の水筒とプレートだけ持っていきましょう。この際魔導具も全部ここに置いていきますよ」
「そ、そこまでしなくても……」
「それから、ここからは私も歩きます」
「それはダメだ。リッカだって相当痛むはずだ。下手したら折れてるかもしれない。俺はまだ歩けるんだから、背負うさ」
これだけは譲れないラインだ。俺は男だ。女の子を助けることすらできないような奴にはなりたくない。
「それは……でも……」
「大丈夫だって。ほら、リッカの手当のおかげで立って歩けるよ。ジャンプもできそうだ」
「ほんとに?」
「本当さ。ほら」
立ち上がり、ジャンプしてみせる。激痛が走った。たぶん、また出血した。だけどそんなことはおくびにも出さない。これ以上リッカに心配をかけるような真似はしたくない。
「じゃ、じゃあ……」
おっかなびっくり、しゃがみ込んだ俺の背にリッカが体重を預けてくる。背負うことはできた。後は立ち上がり、歩くだけだ。
背中に感じる重みを、俺は自身の身体の一部だと思い込んだ。そうすることで少しは心持ちが楽になった。どの道、俺が倒れてしまえばリッカ一人では脱出できない。俺が、頑張るしかないのだ。
一歩一歩が重かった。だけど歩き続ける。その一歩が出口へと繋がっていると信じて。
そうして1時間も歩いていると、光が見えた。
「エル!」
「みたいだな……」
もう限界だった。あれが出口じゃありませんでした、なんて展開が待っていたら死んでしまう。
だが、流石にそんなことはなかった。俺達は、ようやく渇望して止まなかった谷底からの脱出に成功した。
「待ってて、すぐに仲間を呼びますから!」
「ゆ、ゆっくりでいいぞ……」
俺が地べたにへたり込むと同時にリッカがプレートに魔力を通して雷魔法を打ち上げた。
それからすぐに生徒会の面々が現れてくれた。会長とウルナさん、もう一人見慣れない男子学生がいる。
「リッカ君! よかった!」
「会長にウルナさん、それにクラウフォードさんまで来てくれたんですね!」
「すまないね、私のミスで君を危険な目に合わせてしまった。謝罪させてくれ。二人には君の捜索に付き合ってもらったんだ」
「いえ、いいんです。エルが助けてくれましたから……ね、エル。……エル?」
俺はもう地面にうつ伏せになって動けずにいた。意識も朦朧としている。
「いかん! すぐに救護班を呼べ!」
「エル! エル!」
俺の意識は闇へと落ちていった。
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