case.23 Conceptual Device

 縦にされた医療用検査機のような装置の窓が深い緑色に発光している。それは形状としてはまるきり偽実験場にあったものと同じだったが、近くに配されている物と人の多さから偽物を見るのとは違う臨場感を見る者に与えさせた。

 階段を降りきると、そこは地下鉄のホームにそっくりだった。違うのはホームの中心にその実験装置が置かれていることと、それから駅を人が利用するためには必要不可欠な案内や掲示が一つも見当たらないということだ。


「ここは資材運搬に利用された工業路線の駅だったんだよ。現在の地下鉄と地下放水路が造られる際に大部分は壊されたんだけどね、邪魔にならない線路だったり一部の積み替え場なんかはそのまま放置されたというわけだ」


 なるほど、見れば両脇の線路には上部構造がすべて吹き飛ばされた残りのような、台枠のようなものが乗っていた。先端にはハンドルらしき作りも見える。切原から前に聞いていた話では、実験が無事に終わったらこれに乗ってそのまま本部にまで逃げるということだった。その脱出経路というのが、米内の言うそのまま放置された線路というわけか。

 見慣れないいくつかの設備を順番に見回していると、装置のそばで研究員と話し込んでいた切原がこちらに気付き、近付いて来る。


「おう」


 私に声をかけるのに際して、彼はおもむろに右手をあげた。それはあまりにぎこちない動きだ。出会い頭や事務連絡をする際、彼は時折こうした社交的な拙さを見せた。深く話し込んでいるときにはそういう所作は一切見られない。もしかしたら表面的な人付き合いに求められるような建前や儀礼的な振る舞いがあまり得意ではないのかもしれない。私はそういった振る舞いをそもそもしない人間だが、そういうのが嫌にくすぐったいという感覚は理解できる気がする。


「よく戻ったな。本来なら休んでくれと言いたいところなんだが、あいにく君が居なければ始まらない。早速で悪いが準備ができたらそのカプセルの中に入ってくれ」


「うん」


 社交辞令もそこそこに、私は彼の横をすり抜けて指定されたカプセルの前に立った。私に準備なんかないことは彼が一番よくわかっているだろう。すぐにカプセルのガラスが上側に開く。内部には赤い椅子が置かれていて、指示通りにそこに腰かけると手渡された装置を顔や腕に順番に装着していく。一通り態勢が整ったのを確認して、再度ガラス度が閉まった。もたもや視界が別の色へ染まる。今度はこの時期の昼間の空のような、爽やかなスカイブルーだ。


『それでは、実験を開始する』


 ガラス越しに切原がそう宣言するのが聞こえた。すぐに、深緑に発光する装置からガコンガコンという動作音が聞こえてくる。まったくもって安心感を与えない心配を煽るような音だったが、その音を受けてこの場に居る誰かが動く気配はない。きっと問題なく作動しているということなのだろう。本当にここまで来ると私に出来ることは何もなかった。

 これ以上出来ることがなかったので、代わりに私は自分が今やっていることについて想像力を働かせてみることにした。すなわち、もう一人の異世界者を召喚する実験に協力しているということについてだ。どういう風に協力しているかと言えば、それはプラスワンの世界にアクセスするための基準点を私が提供することによってだ。彼らの言葉を借りると位相値というやつを、身体に接続された数多のプラグを通じて私からその装置へと送っているのだ。この様子はきっと第三者からすれば、異世界者を強制的に連れてくることに私が積極的に協力しているように見えるだろう。

 だが私にはどうしても、その責任らしきものを自分に関連させて考えることができなかった。言い訳めいたことを言うならこれには成り行きというものがあるし、私が居なかったとしても験体は召喚されていたはずだ。総合的に判断すれば、そのことについて考えるのは、少なくとももう一人の異世界者が召喚された後からでも遅くはないような気がしていた。

 だから今度は、この実験によって何が変わるかについて頭を巡らせてみた。変化を端的に言い表すならば、プラスワン、つまりは元居た世界の住人が一人こちらの世界にやって来るということだ。一体どんな人が召喚されるのか、それはわからない。だから今考えられるのはもっと抽象的な、『同じ世界の人が一人増える』ということだけだ。そのことは私にとって重要な何かになり得るだろうか。

 やはりいくら考えてみても、私にはそれが何か大きなことだという風には感じられなかった。それは言い換えるならば旅行先で同じ都道府県出身の人に会うとか、転校生に共通の友人が居たとか、そういったことと大差のない軽さであるようにすら思えた。フェーザは自分にフーリエという同胞が居たことを心の支えにしていた。さらには私すらも巻き込まれたもの同士の同類だと語った。私にも、これから召喚される異世界人と比べたら、フェーザが同類だという方がまだ理解ができた。しかしそれだって出自や現状の相似というよりは、それがたとえ敵対の応酬だったとしても、繰り返し顔を合わせたという個人的な経験からそう感じているだけなのだ。

 結局、この時間を通じて生産的な思考は一つとして生まれなかった。何の成果も得ないで居る内に、プシュという気の抜けた音と共にカプセルの扉が開いた。視界が正常な色を取り戻す。


「実験は無事に終了した。直ちに撤収準備に取りかかる」


 切原が真剣な面持ちで次の指示を与えた。しかし、その顔にはさっきまでとは明らかに異なる安堵感が見え隠れしていた。どうやら、本当に実験は終了してしまったらしかった。

 私は身を椅子から起こして、横の巨大な召喚装置を見た。その装置はもはや深緑の光も不快な音も発していなかった。それらを失った代わりにその内部に一人の人間を宿しているのだ。しかし案の定、私には何の実感も沸いてこなかった。今この場に漂っている静けさは、この世界に人が一人増えたという事実と少しもマッチしていないように思えたからだ。はたして、自分がこの世界に初めて現れたときはどうだったのだろうか。私はあのときかなり動揺していたし、外の環境はちっとも静かではなかったように思う。でも、世界に現れた直後はどうだったのだろうか。私がまだ意識のなかった頃、同じように装置の内に不意に現れた時もその場は今みたいに静まり返っていたのだろうか。

 私にはわからなかった。単に、その時の様子を思い浮かべるための想像力が足りなかったからだ。だが、さっき私は元居た世界からこの世界に人がやって来るということについて、大した感慨を抱かなかった。そう考えると、この場の静けさにも多少の説得力があるようにも思えた。


「大丈夫か?」


 ぼうっと考え事を続けていた私に、切原が声をかけてきた。


「…大丈夫」


 それまで考えていたことを頭のどこかへと押しやる。それでも、もしかしたらもう一生取り出さないかもしれないが、その思考は一応捨てずに持っておくことにする。案外意外なところで、それこそ成り行きで続きを考えるかもしれない。

 私は再び、横の巨大で無機質な実験装置を一瞥した。やはりその姿のどこにも、人間を内に孕むのに十分な生命的なものを感じ取ることはできなかった。

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