アトキシック・ガール

むい

case.1 Detached


 0.


 あの奇妙な体験を物語として整理するに当たって、まずは私という人物について語っておく必要がある。


 年齢は十八歳。職業は学生。性別は女性。

 得意な教科…なし。不得意な教科…なし、強いて言えば国語。

 毎日の習慣…なし。部活動…陸上部、のちに帰宅部。

 バイトはしていない。テレビは、見ない。


 今熱中できるもの…なし。


 今どきアンドロイドだってもう少し個性的に違いないと思うけれど、私はこれで、「自分が特徴のない人間である」、と言いたいわけではない。なんなら「言いたい」というこの言葉自体が、私からはもっとも遠い言葉であるかもしれない。

 私は誰かに自分の存在を強く意識して欲しくないのだ。

 言っておくが人が嫌いなわけじゃない。むしろ、他人に対しては最大限の敬意を払いたいと思っている。単純に私は、誰かにとって意味のある「何か」でありたくないのだ。

 そういう気持ちは、もしかしたら没交渉や無関心をもたらすかもしれない。あるいはそういう思いから出た振る舞いが、かえって刺や毒のある態度と受け取られるかもしれない。それでも私は、「自分であること」と「他人を尊重すること」は背中合わせだと信じていたい。

 もちろん「人と人とは、お互いに支え合うものだ」、そう言う考えは正しい。私だって、一生純粋で生きていけるなんて無邪気に信じているわけじゃない。

 だからもし、「生きていくためには誰かと影響し合わずにはいられない」、そういうことになるならば、せめて私は誰にも触れられないところから、誰にも通じない毒を投げていたい。

 したがって次の声明をもって、簡潔ながら最大限の自己紹介とさせていただこう。


 私は無毒な毒でありたいのだ。


 これから話すのは、そんな「個性豊かな」私が経験した途方もない冒険譚であり、教訓なきドキュメントだ。最もそれは私視点での感想であって、別の誰かからすれば心踊るファンタジーに映るかもしれない。得るものも失うものも何もない時間ではあったけれど、あの日々の彩りはたしかに鮮やかではあったはずだから。



 1. 


 朝、目が覚めて最初に感じたのは寒気だった。窓から入り込んだ冷気が布団ごと私を覆っている。寝起きの身体は重く、まるで私が肉体の持ち主ではなくなったようだ。

 ようやく到来した春の実感は日中だけ。朝方は依然としてもう少し冷え込む日々が続くらしい。これは昨夜見たニュースキャスターの言葉だったかな、そこまで想起して、頭が徐々に覚醒してきたということに気が付いた。

「ハル、朝よー」

 階下から母の声がする。今起きようとしていたところだよ、そんな定型文をぐっと飲み込んで、私はえいやとベッドに手をついた。さて、今日も一日が始まる。

 仕度が済んでリビングへと降りると、そこには私の分の朝食だけが残されている。一家揃っての朝食、というのは我が家ではもう久しく実施されていない。私に合わせていたら親は仕事に遅れてしまうだろう。なんなら、夕飯ですら各々で済ませてしまうこともある。そういう風に言うと人は往々にして同情の目を向けてくるが、私自身は別に寂しい食卓だと感じたことはない。同級生の家庭がどうかは知らないが、家族仲だっていたって良好だと思う。むしろ、そういう形にこだわらない家庭という方がどうも私には合っているらしかった。

 カリカリになるまで放置されたトーストを母が淹れてくれたカフェオレで流し込む。腹部が熱を得ると、目の焦点もようやく合ってくる。

 私は目と意識だけを先走らさせて、手短に準備を終える。姿見を覗けば、自身の首越しに肩口で切り整えられた後ろ髪が見えた。うん、変に跳ねてしまっているところはない。こめかみの辺りに数度手櫛を入れる。

 鞄の持ち手に腕を通した私は、履き慣れて大分柔らかくなってきたローファに爪先を突き立てて、弾き出されるように玄関の扉を開いた。


 ●


 さて、ここまではいつも通りの朝だった。

 私の頭は、はっきりとこの時の景色や感触を憶えている。厳密に言えば、家と学校のちょうど中間くらいにある踏み切りに差し掛かったところまでは、たぶん不思議なことはなかったはずだ。


 じゃあ、つまりは必然的にそこから先で何かがあった、ということだ。


 いかにも冷静を装ってそう分析してみるが、やはり現状の究明には何ら至るところがない。大丈夫だ。そもそも、この状況を解明しようなんて頭を働かせ始めたわけじゃない。むしろ私は、現実逃避的に記憶を探り始めたのだ。

 それではそろそろこのあまりにもおかしな現状に目を向けるとしよう。私は制服を着て、鞄を背負っていた。手足は自由に動くし、その身体は見慣れた私のもので間違いない。ここまでは当然の話だ。


 しかし、そこから1mmでも外に話を広げた途端、この状況は一変する。


 まず、私は座っていた。歩いていたのだから立っていなくてはおかしいのだが、たしかに座っていて、しかも、サイドカーに乗っていた。サイドカーである以上、左側にはオートバイの運転手がいる。真っ黒なジャケットとフルフェイスのヘルメットによって運転手の素性はわからないが、身体の大きさからおそらく男性だろう。

 そして、このオートバイは激しく揺れていた。しかもたんに縦に振動しているのではなく横に揺れていた。つまり、たんに走っているのではなくて、蛇行しながら走っているのだ。ずいぶんと調子に乗った走行だけれど、しかし、それが運転手の趣味や素行によるものではないということは、左右から、そして時たま背後から聞こえてくる音によって判断できる。

 オートバイの背後からは真っ白なワンボックスカーが迫っていた。サイドカーが曲がる度にワンボックスも同じ方向に曲がるので、それは間違いなく私たちを追ってきていた。いや、本当はそんなことをわざわざ確認するまでもない。ワンボックスの搭乗者は窓から身を乗り出し、黒光りのする拳銃をこちらへと発砲していたからだ。

 そう、あれはたしかに拳銃だ。テレビでしか見たことのないものだから確信も現実味も持てないが、光ったと同時にこれまたテレビで聞き覚えのある音がするのだから、たぶん間違いないだろう。つまり、サイドカーの周辺で定期的に聞こえる甲高い音は、発砲音と、彼らの放った銃弾がアスファルトと接触する音だ、ということになる。

 最後にそもそもこのいわゆるカーチェイスというやつが、どこで行われているかに触れておこう。答えは、わからない、だ。いやこの答えは、知らない道を走っているという事実以上のものを含んでいる。だってそうだろう。


 青が赤の上にくる歩行者信号を見たことがあるだろうか。

 反時計回りに数字が振られた時計はどうだろう。

 あるいは、「四足歩行のロボット」が道路を闊歩する世界を知っているか。


 私はこんな道を知らない。こう言ってよければ、私は「こんな世界」を知らなかった。


「もう話しかけて良いか?」

 突然、オートバイの男が声を発した。たぶんこの言葉は、キョロキョロと辺りを見回すのを止めた私に向けられているに違いない。

「もう少し早く話しかけてほしかったわ」

 私は本心からそう言った。こんな訳のわからない状況では、解説は早いに越したことはない。とはいえ、とりあえず一つ安心できることもあった。それは、どうやら「この世界」の言葉は私の知っているのと同じものらしい、ということだ。

「肝の座ったやつだな。一応」

 男は一度開いた口を不意に閉ざして大きくハンドルを切った。身体が大きく左に揺さぶられる。車輪のわずかに右側で火花が跳ねた。どうやら私の目と鼻の先で跳弾が起きたらしい、ということに気が付いたのは、それから数瞬遅れてのことだった。

「一応、動揺させまいと君が落ち着くまで待ってあげたつもりだったんだ、伊藤ハルさん?」

 男は最後だけ意味ありげに語調を伸ばした。その名前を聞き逃すことがないように、という配慮のつもりだろうか。

 伊藤ハル、それは私の名前だ。なるほど、私はこの世界を知らないし、この男のこともおそらくは知らない。しかし、男の方は私のことを知っているらしい。

「話ってなに?」

「もう察しが付いているかもしれないが、ここは君がすんでいた世界とは違う世界だ。それも価値観とか文化とかがじゃなくて、文字通りに、ね」

 その言葉は中身の割りに平坦な声色で伝えられた。しかし、私を驚かそうとする意志が感じられない分、それにはかえって説得力があった。なるほど、別の世界ね。私はそのキーワードを頭の中で繰り返し反復する。しかし、やはり現実味はこれっぽっちも湧いてこなかった。

 それでもとりあえず、現時点で言えることが一つだけあった。それは、はるばる異世界からやって来たというのに、何の説明も準備もなく謎の男とカーチェイスをさせられるという今の状況について言えることだ。私は不機嫌さを隠すこともなくその言葉をつぶやいた。

「とんだお出迎えだわ」

「ははっ、違いない」

 呆れた口調が面白かったのか、男が笑いながら同意を返してくる。しかし残念ながらその同意には、先程とはうってかわって少しの説得力も見出だすことができなかった。

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