土鬼神
つーちゃん2G。
第1話
風が吹いていた。その風は少し湿気を含んでいて、優しく肌にまとわり付く。
丘の斜面に少女は座り、髪を風のささやきにあずけていた。
腰までかかるプラチナブロンドの髪、白皙の頬、青い憂いのある瞳。柔和な顔は今、遠くに浮かぶ雲を見上げていた。
不意に少女が呟く。
「お兄ちゃん、どうして死んでしまったの……?」
少女は少し俯き、側に咲いている野花にそっと手を当てた。
少女の名前はフィル。十七歳。代々祠を守る神の使いの家系に生まれ、その村の巫女として生涯を終える娘である。
フィルには兄がいた。五年前までは。
フィルとは十歳年が離れていた。フィルはよく兄になついていた。兄も歳の離れたフィルを良く可愛がっていた。だが、そんな二人を悲劇が襲った。
戦争である。
七年前に起こった戦争は、イクシャータ、アルセノ、両国の正面からのぶつかり合いになった。イクシャータ国の領土内にあるこの村からも男たちが徴兵されていった。兄は神の使いの家系として、この村の代表に選ばれた。
戦争は二年間続いた。しかし、勝敗は決まらず、七年経った今も両軍にらみ合いが続いている。
兄は良く戦った。小隊指揮官として、戦士として、敵に甚大な被害を与えた。それが災いし、敵軍から最大攻撃目標として指定されていた。階級も、駆け上がると言うよりは飛び上がっていき、遂に一個師団を任されるようになっていた。
だが、アルフィーノの戦場で敵の奸計に陥れられ、自軍の撤退のために最後まで戦場に残り、そこで命を落としたのである。
その後、遺体が村に運ばれてきた。
村の決まりで、祠の中に祭られる神、すなわち土鬼神様になるために祠の裏手にある炉に入れられるのである。
兄が炉に入れられた数日後、フィルは祠の中に入って土鬼神様の像が一体増えている事を目撃している。
その像は入り口から一番奥の正面に壁を背にして立っていた。他の土鬼神と違い、両側頭部から角を生やし、立派な外見をしていた。
フィルはこれが兄だと確信し、その土鬼神様の足元で一夜明かした事がある。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん……。」
と、何度も何度も呟きながら。
そして、いつしか眠ってしまっていた。
エソンの村。人口およそ二百人のこの村は、イクシャータ国首都、レイブから約百三十キロ離れている。丘陵地帯にあるこの村は、緑と水に恵まれた四季のある集落地である。
気候穏やかな土地であるため、ほとんどの人は農業に従事し、取れたての新鮮な農作物を売って日々の生計を立てていた。商用道路に近いため、人の出入りも結構あり、そのためか村独特の閉鎖的な雰囲気はなく、往来の人たちにも開放的だった。
フィルはそんな村で生まれ、育った。
小さい頃のフィルは良く笑う子だった。兄の後をいつも追いかけ、兄のまねをし、時にしかられ落ち込んでも笑顔だけは忘れずにいられた。
フィルが笑顔を見せなくなったのは、五年前、兄が死んでからだ。
フィルはその日の事を今も鮮明に思い出せる。フィルはその時十二歳。自宅の寝室で巫女になるための書物を読んでいるときだった。部屋のドアをノックする音が聞こえて、扉をあけてみると母親が口に手を当て、涙を流しながらフィルの名を呼んでいたのだ。
何事かと思い、フィルは母親に問いかけた。
「お母さん、どうしたの……?」
すると母親は涙を流しながら言った。
「フィル、お兄ちゃんがね、お兄ちゃんがね……。」
そう繰り返しながら母親はフィルの手を引いて玄関のほうに連れて行った。
玄関の扉の外には、白いひげを生やし勲章を大量に胸につけた偉そうな六十半ばの男が一人と、戦争に行っていたはずの村の男たちが大勢集まっていた。
そしてその人だかりの円の中に棺おけがひとつ置かれていた。
人々は悲しそうに、あるものは俯き、あるものは空を仰いで涙を流していた。
白ひげの、勲章を大量に胸につけた男が母親に歩み寄って言った。
「奥様、お初にお目にかかります。私はワッツアー・アバレスタ中将と申します。このたびは誠に遺憾ながらこのような事になり慙愧の念に堪えません……。」
母親はその男の言葉を聞きながら泣いていた。フィルは瞬時に理解した。自分にとって最悪の事態が生じてしまった事を。おぼろげな足取りで棺桶に近づく。すると棺桶の周りの人だかりはまるで水が引くようにフィルに道をあけた。
「お兄ちゃん・・・?」
フィルは事態を理解していた。理解はしていたが未だに信じられなかった。まさか、神の恩恵を受けているはずの家系に生まれた兄が戦場で命を落とすなど。戦場へ行っても兄だけは無事に帰ってくると、根拠のない自信を持っていたのだ。
棺桶の横にひざまづき、放心しているフィルに母親が近づいてきて言った。
「フィル、お兄ちゃんにお別れを言いなさい……。お兄ちゃんは勇敢に戦って、仲間の命を守るために死んだのよ……。」
母親にそう言われても、フィルは現実感が沸かなかった。だが、数人の村の男が棺桶の蓋を開けてくれると、残酷な現実がフィルを直撃した。
兄はその桶の中で花に包まれて横たわっていた。
「お兄ちゃん……?」
フィルは兄に問いかける。しかし兄は無言だった。眼を閉じ、その狭い棺桶の中で身じろぎもしない。周りの男たちは涙を流し嗚咽を漏らしていた。
「お兄ちゃん……、お兄ちゃん……!」
フィルの声はだんだん高く大きくなってゆく。
「お兄ちゃん!」
フィルの声が悲鳴に似た叫びを上げるようになった頃、母親がそっとフィルの肩に手をかけた。
「フィル、お兄ちゃんを寝かせて上げましょう……。これからは守り神となってあなたを見守っていってくれるわ……。」
フィルは母親の顔を見上げた。だが母親は涙を流しながら静かに首を横に振った。
その瞬間、フィルの中で何かがはじけた。涙があふれ、声にならない声を上げ、泣きじゃくった。それを見ていた母親も、男たちも。中将一人以外は全員泣いていた。
数分後、フィルの父親とその村の長老が家に到着した。
父親はその村の神官だったため、兵役を免れたのである。
父親は泣きじゃくるフィルをそっと抱きしめるとやさしく耳打ちした。
「フィル、これからお兄ちゃんは神様になるんだ。フィルもわかってくれるね?」
フィルは父親に抱きつきながら泣いた。父親はフィルを優しく抱き上げると、そこに居る全員に向かって言った。
「炉の準備は出来ました。これから、わが息子フィオルを神式の儀に向かわせます。」
荘重な顔をして中将に向かって言う。
「ワッツアー・アバレスタ中将、あなたも立ち会ってもらえますか。」
ワッツアー・アバレスタ中将は、
「うむ。」
と、一言頷くと、葬列の最後尾についていった。
「さあ行くよ、フィル。」
父親はそう言うと、泣きじゃくるフィルを抱きかかえながら葬列の先頭へと向かっていった。
祠は村はずれの小高い丘にある。蝋燭の炎で足元を照らしながら葬列は続いていった。
祠の裏手に着くと葬列は止まった。
父親が葬列に向かって言った。
「フィオルをここへ。」
そう言うと、棺桶を担いだ数人が前に出てきた。それを見届けると父親は、よく通る大きな声で皆に言った。
「これから神式の儀を始める。」
神式の儀とは、いわば死者の埋葬である。祠の裏手にある炉と言うものに死者を入れ、弔うのだ。炉に入った死者はどうなるかと言うと、炉から消えうせ、代わりに祠の中に陶器で出来た神像が一体立つのである。
その炉に今、兄が埋葬されようとしている。フィルは複雑な気持ちでそれを見守っていた。悲しみと一抹の喜びの中で。
悲しみはある。兄を失った悲しみが。あの優しいお兄ちゃんはもう笑いかけてくれない。優しく頭をなでてくれる事もない。そんな深い悲しみが心の中に渦巻いている。だがしかし、同時に喜びも感じていた。お兄ちゃんが神様になる、これからもずっと自分を見守ってくれる、そんな喜びだ。
フィルは幼い頃から神に仕える巫女として育てられてきた。だから、死んでも魂は永遠不滅だと本気で信じている。死者の魂はいつか昇華して神になるのだと教わってきたからだ。そんな家系に生まれてその教えを疑う事など微塵もあるだろうか?だから今、眼前で展開される光景に胸を躍らせているのである。
「では、フィオルを炉の中へ。」
そう父親が言うと、棺桶を担いだ男たちが炉へ歩み寄ってきた。炉の蓋が左右に開く。中は不思議な光で覆われていた。フィルはもう泣いていない。父親の腕の中でその不思議な光景に目を奪われていた。
棺桶は炉の中に入ってゆく。フィルは心躍らせながらその光景に見入っていた。
棺桶が完全に中に入り、蓋が閉じられる。不思議な光はもう見えなくなっていた。
父親はフィルをそっと隣に立たせ、その場にいる皆に声を大にしていった。
「また一体、新たな神が誕生するであろう!わが息子、フィオルは天に召された!」
父親がそう言うと、その場にいた全員が歓声を上げた。フィルも一緒になって歓喜の声を上げていた。だが、父親と母親は喜んでいなかった。父親は険しい顔をしたまま、母親は涙で顔を濡らしていた。まだ十二歳のフィルにはその表情の意味が分からなかった。
三日後、なんとなしにフィルは祠へ行ってみた。その後、兄がどうなったのか好奇心に駆られたのだ。
夜、両親が居間で話し合っているとき、裏口のほうから忍びだしてきた。祠のある小高い丘は月明かりに照らされて静かな光の中にたたずんでいた。祠の中を覗いてみると、天井に近い位置にある穴から月明かりが差し込んでいた。
フィルは恐る恐る祠の中に入ってみた。そこで違和感を感じた。
祠の入り口から奥へ続く道があり、左右に土鬼神の像が整然と立ち並んでいる。それはいつもの事なのだが、その入り口正面、奥へと続く道の突き当たりに行った遺像が立っていた。その像は他の土鬼神と違い、両側頭部から角を生やし、装飾も立派なものが施されていた。
フィルは直感した、これが兄の像であると。もう生きて話しかけてくれる兄は居ないが、代わりに像が立った。これからは物言わず見守っててくれる、そう想うと寂しさと嬉しさが交互にむねに襲い掛かり、いつしかフィルは像に向かって、涙を流しながら語りかけていた。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん……、戦争は怖くなかった?死ぬとき痛くなかった?もうお話できないんだね……、遊んでもらえないんだね……、でも見守っててね、お父さん、お母さん、そして私を……。お兄ちゃん……。」
像の前で語り続けるフィルも、睡魔には勝てずにいつしか像の前で眠ってしまっていた。
翌朝、目が覚めたフィルは驚いた。祠で眠ってしまったはずが、自室のベッドで目が覚めたからである。さわやかな朝日がフィルのベッドに燦燦と降り注いでいた。訳がわからず、二階の自室から一階の居間へと向かう。そこでは両親が疲れた顔をして朝食を摂っていた。
怒られると思っていたフィルは、恐る恐る両親に声をかけた。
「お父さん、お母さん、お早う……。」
父親と母親は怒らなかった。立ち上がり、フィルを両側から抱きしめ、母親は安堵の涙を流しながら、父親は優しく言った。
「ああ、フィル。フィオルが居なくなって、あなたまで居なくなったらお母さんどうしようかと想ったわ……。」
「フィル、昨日は大変だったんだぞ。フィルが神隠しにあったんじゃないかって、村の人総出で探したんだ。」
父親に頭をなでられながら、フィルは意気消沈した。
「ごめんなさい、お父さん、お母さん……。」
父親はフィルから離れテーブルについた。
「もうこんな事はしないね、フィル?」
「うん……。」
フィルのその言葉を聞くと、父親は朝食の続きを摂り始めた。
母親は、フィルを強く抱きしめ頬を寄せてきた。
「フィル、お兄ちゃんといっぱいお話できた?」
母親の言葉にフィルは表情を明るくし、頷いた。
「お母さん、あのね、昨日はいっぱいお兄ちゃんとお話したよ!」
フィルの言葉に母親はフィルの顔を見つめて言った、穏やかな表情で。
「どんなお話をしたの?」
「あのね。あのね……。」
フィルは楽しそうに母親の手をとって昨夜の事を話し始めた。
五年後、イクシャータ国首都レイブ。国の中央にあるこの都市は、城塞都市である。どこから敵が攻めてきても大丈夫なように、都市の周りを堅固な城壁で二重に固めてある。その中央に位置する城は政の中心であり、また、王が住む所でもある。その城の主、カリアシ・ドゥル・イクシャータ王は元帥から報告を聞いて暗鬱な表情をしていた。
「陛下、我が軍七万の兵がわずか四万の敵軍に敗れました……。」
シュマッダ元帥は無念そうに伝えた。王はシュマッダ元帥に問うた。
「敵軍は新兵器でも開発したのか?」
その声は沈痛に響く。返ってきた答えは否であった。
「新しい戦術を使用したらしいです。」
「新戦術?それはどういうものなのか?」
王は重々しくシュマッダに聞いた。
「斜線陣です。」
シュマッダはよどみなく答えた。
「残兵は。」
「一万六千です。」
王は目の前で手を組み、額を組んだ手の甲に乗せた。
「シュマッダ、敵軍はいつこの首都レイブに攻め込んでくる。」
「商用道路を使用してくると想われますので、一ヵ月後には首都に到着する計算になります。ただし、補給のため道路近隣の村や町には甚大な被害が出るでしょうな。自国からわざわざ持ってくる必要がない、食料は強奪すれば良いわけですし……。」
王はその言葉を聞くと、苦虫を噛み潰したような表情になった。
「あの一帯は農民が多い。略奪と虐殺が大量に起こるだろう……。アルセノの蛮族共め、好きにはさせんぞ!シュマッダ!」
王は顔を上げ、叫んだ。
「はっ、陛下。」
「近衛の騎馬隊一万騎お前に預ける!道路近隣の住民には避難をさせろ。それから食料を残さず回収しろ!」
元帥は王の意を瞬時に理解した。
「焦土作戦でございますな、陛下。」
王は重々しく頷いた。
王が焦土作戦を決めた次の朝、伝令が商用街道近隣の村や町へ散っていった。一刻も早
く市民を避難させるために。だが、首都から一番遠くのエソンの村まで百三十キロある。
アルセノの国境からは約五十キロ。伝令は馬に鞭を叩きつけ、必死に急いだ。願わくば市
民に一人も犠牲が出ないようにと。
「フィル、どうしたの?」
「ううん、何でもない。ちょっと考え事。」
フィルは少し驚いてそう答えた。確かにぼーっとしていたが、気配すら感じさせず忍び寄ってきた幼馴染に驚嘆したのである。
「クッキー焼いてみたんだけど、食べる?」
フィルは礼を言うと、ひとつクッキーをかじった。
その幼馴染はフィルの横に座ると、フィルの顔を見てにこりとした。フィルもつられて笑顔のようなものを作ったが、瞳は沈んだままだった。
「どうしたの?またお兄ちゃんの事思い出していたんでしょ。」
「うん。」
「フィルは本当にお兄ちゃん子だったからねぇ、寂しいのも当たり前か。」
そう言って彼女はまた微笑む。
「昔は二人でよく遊んでもらったっけ、あんたんとこのお兄ちゃんに。」
「そうね、カーシャ。」
フィルは幼馴染の名を呼ぶと、笑顔未満の表情をした。
彼女、カーシャ・アステルはフィルが三歳からの友達である。この村に同い年の娘はカーシャしかいない。カーシャはフィルと違って活動的だった。髪を肩の辺りでそろえ、ズボンをはき、木に登ったり、がけの上の花を摘んできたりと、フィルがはらはらするような行いばっかりしてきた。だがそれも十五歳までの事だ。カーシャは十五になると突然おてんばを止めた。スカートをはき、身だしなみを整え、挙句の果てに詩集まで読むようになったのである。フィルは何事が合ったのかを聞いた。彼女いわく、好きな男性が出来たのである、と。
未だ恋を知らないフィルは友人が羨ましかった。兄に対する気持ちは恋ではない。憧れだ。恋をするとどんな気持ちになるんだろうか。フィルには想像もつかない。友人の変貌を見て、きっとそれは素敵な事なんだろうとおぼろげに理解はした。すると今度は相手が誰なのか興味を掻き立てられた。カーシャは言を左右に振って容易に答えようとしない。だがフィルはある日決定的なシーンを目撃する。そのシーンとは、カーシャが木陰から一人の少年を見つめていたためだ。
その少年は荷馬車に乗って配達業務をしていた。優しそうな顔立ち、すらりと伸びた手足、屈託のない笑顔、白い歯。カーシャが惚れるのもわかる気がした。
品物を届けた後、再び荷馬車に乗り込もうとした少年をカーシャが呼び止めた。
「アラン!」
声を上げて荷馬車に小走りに駆け寄っていく。
「アラン配達お疲れ様。今日はもう終わり?」
「やあ、アステル。この村の配達は終わりだよ。」
「じゃあ今日これから……。」
すかさずアランと言う少年はカーシャの頭をなでて言った。
「悪いねアステル。隣村に今日中に届けなきゃいけない荷物があるんだ。また今度ね。」
アランはカーシャに謝ると、手綱を引いて出発しようとした。
「今後いつここに来られるの……?」
カーシャは残念そうに言う。
「うーん、早くて三ヵ月後かなぁ?そうそう、この間街で君の好きそうな詩集を見つけたんだ、いい子にしていたらお兄さんがプレゼントしてあげよう。」
カーシャの髪をくしゃくしゃにしてそう言う。今度はカーシャが反論する番だった。
「何がお兄さんよ!ひとつしか違わないくせに!」
怒った様な表情でカーシャは言った。アランは嬉しそうに笑いながら手を振ってカーシャの前から姿を消していった。残されたカーシャは、いつまでもアランの通っていった道を眺めていた。そんなシーンをフィルは木陰から目撃していた。
「また何ぼーっとしてるのよ、フィル。」
その一言でフィルはわれに返った。隣ではカーシャがフィルの顔をまじまじと見つめていた。とてもじゃないが二人の逢瀬のシーンを盗み見していたとは言えず、
「えへへ……。」
と言ってごまかした。
「聞いて、今日彼がこの村にやってくるの。何ヶ月ぶりかしら。彼が来たらフィルにも紹介するわね!」
カーシャはそう言って満面の笑みを浮かべる。紹介されると言う事は、あの日からかなり進展が合ったらしい。
フィルはふと思いついた。
「あ、だからカーシャ、クッキー焼いたんだ。」
カーシャは微笑みながら頷くと、立ち上がって服に付いた葉っぱをはたき落とした。
「私、先に家に戻ってるわね。彼が来るといけないから。」
そう言ってスカートのすそを翻しながらフィルの元を去っていった。
一人になったフィルはまた物思いにふける。優しかった兄のこと、忌むべき戦争の事、そして自分の将来について。
昼ごろ自宅へと戻ってきたフィルはなにやら居間が騒がしい事に気が付いた。居間には数人の客人が居た。中年の女性、初老の男、村長、そして父親と母親である。中年の女性は鼻息も荒く、その場に居る皆に説明していた。
「だから、カーシャちゃんの彼氏が言ってたんだよ。アルセノ軍がもうそこまで来ているって。私らも疎開したほうがいいんじゃないかい?」
「ではうちは負けたのかい?」
初老の男がそう言った。
村長がその言葉をさえぎって言った。
「なに、負けるはずがない。数の上で敵軍を圧倒しておるんじゃからな。それに王都からは何も言ってきておらん。心配は無用じゃて。」
それでも中年の女は心配そうに言った。
「王都からの伝令が遅れてるのかもしれないよ、心配だから子供たちだけでも疎開させようかねぇ。」
その話を目を閉じて微動だにせず聞いてた父親がはじめて意見を言った。
「よし、女、子供は疎開させよう、後老人もだ。兵役を免れた男たちはこの村に残って様子を伺う。私は祠を守らねばならないので残るが、ソニア、明日の朝一でフィルをつれて王都へと行ってほしい。あそこならちょっとやそっとの攻撃は防いでくれるはずだ。」
名前を呼ばれた母親は、
「ええ。」
と言って頷いた。
「では早速出立の準備にかかってくれソニア。何もないことを祈るが、万が一と言う事もある。できる限り急いでくれ。後は村長、お願いできますか?」
父親に言われた村長は、任せておけと胸をたたいて村民に伝えるべく部屋を辞した。残った初老の男と中年の女性も、こうしちゃ居られんと、あわただしく自宅へと向かってい
った。
その様子を一部始終見ていたフィルは、居間で険しい顔をして座っている父親の側へいって聞いてみた。
「お父さんは逃げないの?」
父親は一瞬表情を和らげ娘にこう言った。
「お父さんは神官なんだよ。ここの祠を絶対守らなくてはいけない。それが代々受け継がれてきた使命なんだ。いつかフィルが立派な巫女になってこの使命を受け継いでくれると、お父さん嬉しいな。」
フィルは父親の頬に軽く口づけをした。
「うん、分かってる。私一日も早く巫女になれるよう努力する。だからお父さん、それまで生きててね。お兄ちゃんの分まで頑張るから……。」
父親は嬉しそうに頷いた。
「ああ、分かったとも。」
しかしフィルは恐ろしい予感を感じ取っていた。敵軍に蹂躙されるこの村の光景を。
その日の夜中、フィルは外の喧騒で目が覚めた。何事かと思い、ベッドから起き上がり寝室のカーテンの隙間から外を眺めてみると、うなりを上げる炎が目に入った。さらに眼下には大勢の重装歩兵たちが居る。在る者は放火をしていたり、在る者は人のうちの扉を破り中に進入したりしていた。炎の中では絶叫が舞い踊り、狂喜乱舞していた。
フィルはすぐに分かった。敵軍がやってきたのだと。
フィルは時間を浪費するような事はしなかった。パジャマのまま自室のドアを開け、下階に居る父親と母親を呼び起こそうと階段に出た刹那、目の前を煙に覆われてしまった。
家にも火をつけられていたのだ。
煙を吸い込まないように息を止め、一気に階段を駆け下りる。すると通りに面した玄関側、家半分が紅蓮の炎に包まれていた。フィルは息を止めたまま両親の寝室へと向かった。幸いな事に寝室は無事だった。両親も無事生存していた。フィルの顔を見ると両親は安堵の表情を一瞬見せたが、立ち上る煙を見て母親が言った。
「あなた、これは一体……?」
父親は冷静に分析した。
「どうやら敵軍が攻めてきたようだ。私たちも逃げるしかないな。ひとまず祠へと向かうか。」
「お父さん駄目よ!今出て行ったらあっという間に殺されちゃうわ!」
フィルは叫んだ。両親が死ぬ、自分も何も出来ないまま死ぬ、そんな運命はお断りだ。
だが父親は自身ありげに笑った。
「フィル、お兄ちゃんに武術を教えたのは誰だと思う?」
さらにこう付け加えた。
「今なら兵たちも分散しているはずだ。お前たちを逃がすだけの時間は稼げる。」
そう言い放つと、壁に飾ってあった六メートルもある長い槍と、青銅の盾を手に取り、三人で裏口から人目につかないように庭に出た。
庭に出ると父親は厳しい顔をして二人に言った。
「いいか、ソニア、フィル。我が家は四方を壁で囲まれている。脱出するにも正面玄関の門しか脱出口はない。だが幸いな事に、門へは家の左右どちらかからも回りこめる。兵たちの目的は分からないが、必ず屋内へ侵入しようとするはずだ。そこで半分ほど屋内へ侵入させる。残り半分は私が側面から攻撃してひきつけるので、お前たちは隙を見て門か
ら逃げなさい。いいね?」
フィルは恐怖を感じていた。もし脱出に成功しなかったら、もし大勢の敵兵が外で待ち伏せていたら・・・。恐怖はむねを締め上げ、体の末端まで震えさせていた。母親も同じ
らしく、顔面を蒼白にしていたが、子を思う親の気持ちが震えに歯止めをかけていた。
そう思ってる間に、轟音とともに扉は破られた。数人の兵士が室内に侵入してくる。
「走れ!」
父親はそういうとフィルたちと反対方向へ向かっていった。フィルも母親とともに家を迂回し、門へと走っていった。
家の側面、物陰から門のほうを伺っていると、重装歩兵たちが数人玄関から家の内部へ侵入しようとしているところだった。恐らく頃合を見計らっていたんだろう、父親が突如として物陰から姿を現し、その場に居た重装歩兵達を側面から長槍で貫いた。
「行け!」
父親は叫んだ。
それを聞き届けたフィルと母親は、一目散に門の外へと駆け出した。幸いな事に門の外
に敵兵は誰もいなかった。恐らく他の家の制圧に出ているのであろう。フィルと母親は駈
けて行った。
何件の家の前を通った事だろう、どの家からも悲鳴と火の手が上がっていた。途中幾人かの敵兵に見つかり、つかまりそうになったが、身軽なこちらに分があった。間の手を逃れ祠に着いたときには全身を虚脱感が襲ってきた。
果たして父親は無事なのか?フィルは我が身の安全を確認すると、今度は父親の安否が気になった。無事でいてくれれば良いが。
祠の中を見ると、幾人か逃げ延びた人が集まっていた。その中には友人、カーシャの姿もあった。安堵の色を見せるフィルとカーシャ。お互い抱き合って無事を喜んだ。涙を流しながら。
その時、フィルは不意に聞きなれない声で名前を呼ばれた。
「あなたがフィルさんですね、お噂はカーシャから良く聞かされています。ひとつ宜しくお願いいたします。」
丁寧な言葉の持ち主は男だった。以前どこかで見た事のある・・・。
「もしかして、カーシャの彼氏さんですか?」
フィルは大きな声を上げていた。
「しっ、フィル!静かにしてちょうだい。」
母親がフィルをたしなめた。フィルは素直に従った。だが驚きは隠せなかった。
「そう、この人私の彼。」
カーシャがそう言って顔を赤らめる。こんな時でなければ盛大にパーティーでもやってお祝いしたいくらいだ。
正式に紹介され、一瞬だがその場に和やかな空気が流れた。次の瞬間には緊迫した声でその空気は破られてしまった。
「フィル、ソニア、大丈夫か!」
フィルの父親が祠に顔を出したのである。
「お父さん……。」
大丈夫?と言いかけてフィルは固まってしまった。父親が全身のあちらこちらから血を流し、満身創痍の状態で祠の入り口に寄りかかっていたからだ。
「お父さん!」
フィルはまたも叫んでいた。その声を耳にすると、父親はよろめき、地面に両膝を付いてしまった。槍騎の槍は半ばから折れ、盾はどこかに忘れてきたようである。
父親は呻きながら言った。
「駄目だ。どこもかしこも敵兵だらけだ。生存者を確認する暇さえなかった。ここも時期発見されるだろう……。」
そう言うと、血の吹き出す腹に手を当てて苦しそうに息を吸った。
「あなた!」
母親が父の元に駆け寄ってきて心配そうに父をいたわる。父親はソニアを手で退けて話を続けた。
「もうすぐ敵兵が来る。ここにいたら皆やられてしまうぞ!今すぐ避難するんだ!」
「避難すると言っても一体どこへ?」
若い男の声がした。
「君は誰だね。」
父親が問う。
「僕はカーシャの恋人です。配達の途中、敵軍の様子を知りこの村に駆けつけました。」
そう話す彼の姿をカーシャは誇らしげな様子で見ていた。
「ほう、では君がこの窮状を知らせてくれたんだね。」
父親は優しくカーシャの恋人に聞いた。
「はい、お役に立てればと……。でも少し遅かったようです。」
恋人はそういった。
父親は辺りを見回してからカーシャの恋人にこう告げた。
「では君に頼もう。ここにいる人たちを連れてこの村から脱出してくれ。」
恋人は驚いて言った。
「無理です!僕なんかじゃぁ……。」
父親はその言葉を無視して続けた。
「ここには若い男は君しかいない。後は女、子供、老人ばかりだ。やってはくれまいか?」
カーシャの恋人は数分悩んだ挙句、承諾した。
「分かりました。僕がやるしかなさそうだ。」
そうと決まれば膳は急げ。脱出経路の確認と移動方法の話し合いが行われた。
フィルはそれを静かに見守っていた。本当にこの村から出て行くのか、まだ信じられない気持ちだったが、脅威はもうすでに眼前に迫っている。再び恐怖が沸き起こっていた。
「では皆さん僕についてきてください!」
カーシャの恋人が叫ぶ。その声につられ、そこに集った人々は足取りも重く祠を出て行こうとした。
一瞬の出来事であった。風を切る音と共に何かが飛んできて、カーシャの恋人の胸に突き刺さった。恋人はまるで糸の切れた操り人形のようにその場に倒れ付した。カーシャの金切り声が聞こえる。恋人の胸には矢が刺さっていた。次の瞬間にはカーシャの腿に矢が刺さっていた。悲鳴をあげるカーシャ。そして一人、また一人と矢の餌食になって行く。
父親は目撃した、あれは。
「装弓騎馬隊!」
声を出さずにはいられなかった。六騎程の騎馬隊が下方からこちらへ射線を向けている。
祠から出た瞬間射抜かれてしまうだろう。さらには重装歩兵が密集隊形を組んで今まさにこの丘を登りつつある。
万事は休した。
フィルは恐怖に耐えていた。歯の根は噛み合わず、体中が震えている。目の前で一人、また一人倒されていく現実は耐え難いものがあった。父親は満身創痍、母親は倒れた人の看病をしている。
フィルは祠の奥に後ずさっていた。目と耳をふさいで現実から逃避したかった。だがそれをしなかったのは、フィルの心にまだ拠り所があったからだ。
それは土鬼神。
この土地の守り神であり、最愛の兄が眠る陶器の神像。フィルは何度も心の中で願った。
「神様、助けてください!」
と。しかし陶器の像は沈黙を守り続けている。フィルは涙を流した。こんなの嫌だ、こんな悪い夢は早くさめてくれと。だが一向に夢が覚める気配がない。それどころか重装騎兵の足音が地鳴りとなって、これは現実なんだとフィルに訴えてくる。
そしてその現実が槍と盾を構えた人の形となって祠の入り口に現れたとき、フィルは泣き叫んでいた。
「お兄ちゃん、助けてー!!」
と。
その叫びが祠全体に拡散したとき、祠から突風が吹いた。ついで地面が豪と唸りを上げた。その直後祠全体が揺れて一体の土鬼神が動き始めた。
フィルは呆然として動き出した土鬼神様を見た。
兄の土鬼神である。
土くれが剥がれ、埃が舞う。そして祠全体に足音を響かせながら、ゆっくりとフィルへ近づいてくる。フィルはその異様な光景に目が奪われ、言葉を発する事も忘れていた。
兄の土鬼神は、フィルの側まで来ると、フィルをそっと抱きかかえ肩に座らせた。
「お兄ちゃん……?」
フィルは言葉を発した。それは確認の意味が多分に含まれていた。
兄の土鬼神は瞳を鋭く光らせると、フィルに一本の杖を差し出した。
「これ、持っていろって事……?」
土鬼神はまたも鋭く瞳を光らせた。そして手を振りかざして見せた。
「こうするの……?」
フィルは兄の土鬼神と同じように、持っている杖を振りかざした。
するとまたも祠が揺れ、通路の両側に立っていた最前列の土鬼神が動き出した。
それを見ていたフィルの父は遠のく意識の中で呟いた。
「馬鹿な、土鬼神様が動くなど……。あれは、あの話はただの伝説ではなかったというのか……?」
フィルの母親は一体目の土鬼神が動いたときに、驚きのあまりすでに意識を失っていた。
驚愕したのは敵の兵士達だった。まさかこんな村にこんな化け物がいたとは。驚きのあまり逃げることも忘れ、その場に硬直していた。
そこを十数体の土鬼神が一斉に襲った。哀れな敵の兵士達は顎を粉砕され丘の斜面を転げ落ちてゆく。兵士たちは悲鳴をあげ、我先に逃げようとするが、密集隊形をとっているので思うように逃げ出せない。勇気のある一人の兵士が槍を突き立てたが、金属が陶器にはじかれるような音がして槍ははじかれてしまった。
立場は逆転した。追うものは追われるものへ、追われるものは追う方へと雪崩をうってゆく。
前衛の土鬼神が祠の外に出た。やはり外でも大騒ぎになっている。
「化け物だー!」
「いや、妖かしだー!」
等といった声が聞こえてくる。
装弓兵は矢を打つが土鬼神には全く効かないようである。
そうこうしているうちに決着はついた。アルセノ軍の撤退によって。
祠の中で戦況をうかがってたフィルは杖を収めた。どうやら決着は着いたらしい。それも味方の勝利で。死傷者はたくさん出たが、とにかく次期巫女として村を救ったのである。全滅は免れたのだ。
フィルは兄の肩から降りてまず父親と母親の容態を診た。父親は出血がひどいが、命に別状はなさそうである。母親のほうはただ気を失っているだけで数刻もすればひとりでに起きてくるだろう。次に心配なのはカーシャとその恋人である。カーシャのほうは腿に矢が刺さっているが、太い血管に傷を負ったわけではないのでとりあえず安心だ。彼氏のほうは手の施しようがなかった。矢が心臓にまで達していて致命傷だった。他の人たちは存命十五人、死者八人であった。
この場にいる生存者を確認すると、フィルは動けるものと土鬼神を集めて村へ向かった。火事の消化と生存者の救出のためである。あちこち駆けずり回った挙句、生存者は四十二名という次第。実に約七十五パーセントの人命が失われたことになる。
フィルは途方に暮れた。この村を再建するのに一体どれほどの月日がかかるかを考え、暗鬱となった。しかしその時、なんだかひどく硬いものが頭をなでているのに気がついた。兄の土鬼神様がそこにいた。フィルは兄に向かってこう言った。
「そうだね、お兄ちゃん。これから大変だけど、また色々宜しくね!」
フィルは穏やかに微笑んだ。
五年三ヶ月ぶりにフィルの顔に笑顔が戻った。
続く。
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