夏、ラムネの日

「やっぱり暑い日は、ラムネが美味しいねっ」



いつもの縁側に座りながらあやめはそう言って、このラムネみたく爽やかな、屈託のない笑みを僕に向けてくる。「そうだね」と返事してから、自分も一口、ラムネ瓶を傾けて飲んでみた。透き通った瓶の向こうには、爛燦と照る太陽が放射状に煌めいている。中にあるビー玉がカランコロンと鳴くのも、耳に涼しい。


口いっぱいに夏が広がってくる。透明で、爽やかで、小さく炭酸が弾けていて、ラムネ味としか言いようのないラムネ味。夏をこの瓶に詰め込んで、そうしたらこれは、まるで夏の落とし物みたいな、そんな気がした。だったらこれも、夏の匂いなのだろう。



「昔も、喉が乾いたらラムネを買って飲んでたよね。僕とあやめちゃんで駄菓子屋さんに行って、あそこのベンチで休んでて」

「そう。おばあちゃんが扇風機を出してくれて、おまけでアイスをくれたこともあったもんね。在庫処分って言ってたけど……」



そんなこともあったよね、と二人で顔を見合わせて笑う。縁側から見るこの庭の景色は、やはり、昔から何も変わっていない。木々の青さも、この蒸し暑さも、蝉時雨も、何もかもが変わらないままで、変わってしまったのは、自分たちだけだった。初めて出会ったあの夏から、もう十年近くが経とうとしている。



「──ねぇ。結局、僕たちってどう仲良くなったんだろうね」

「うん……どうなんだろう。かなり昔のことだもんね」

「でも、初めて会った時は覚えてるでしょう。この間も話した」



あやめは小さく頷くと、懐かしむように目を細める。



「私がここで麦茶を飲んでたら、彩織ちゃんがやってきてね。初めて見る子だったから、誰だろうって思ったんだけど。でも、その日は暑かったし、何かおもてなししなきゃって考えて──」

「それで、僕に麦茶を分けてくれたんだ。飲みかけだったけど」

「──そう。別に子供だから、その時は全然、気にもしてなかったのに……。後になって思い出すと、かなり恥ずかしいことしてたね。普通に、別のグラスに麦茶を入れてくれば良かったのにね」



そう言って気恥ずかしそうに、彼女は口元から笑みを洩らした。

──思い返せば、結局、それが僕の初恋なのだろう。年に数回、それも大体は夏休みにしか帰省しない田舎の村で、冒険をするような心持ちで遊びに行って、その先に少女がいた。昔から変わらない純白のワンピースと麦わら帽子を冠って、そんな、物語にでも出てきそうな少女の風貌をしていたのだから、なおさら。


そうして今も、その初恋の少女が、隣にいる。あまり意識しないようには努めてきたけれど、それでも、完全に無視できるわけではなかった。顔馴染み以上で幼馴染未満、ましてや現在のこの境遇に、思うところが無いわけでもない。けれど、そこに私情を持ち込むというのも、少々、はばかられるような気がしていた。


──初恋は、最初で最後。当たり前だけど、果敢ないもの。胸臆にそんな思いが浮かんでくる。無性にラムネが飲みたくなった。

咽喉を炭酸が洗ってゆく。そのまま胸の内にある一物も掻き消してくれそうな気がして、もう一度、夏の音を鳴らした。



「あの時は麦茶で、今はラムネかぁ」



呟くようなあやめの声に、僕は横目で彼女を一瞥する。



「どっちも、夏だねっ」

「……ふふっ。そうだね」



また二人で顔を見合わせて、手の中にあるラムネ瓶を見詰める。これが夏の落とし物なら、あれも夏の落とし物。結局、僕たちは、その殆どを夏に過ごしてきた。長いようで短い夏休みを、一日一日までも子供ながらに楽しんで、そうして夏を見送った。全部が全部、覚えているわけではない。けれど、それでも、夏の白い眩しさというのは、不思議なことに、今でも思い出せる。



「でも、今年の夏は、昔とは少し違うから。……このラムネは、昔からずっと変わらないけどね。いつ飲んでも、懐かしい味」



だから僕は、この夏を描き続けようと思う。どこか懐かしくて、どこか物悲しいような、そんな儚い一殺那。それを彼女と一緒に、この爛燦とした炎陽に降られながらでも、描きたいと思った。少女の盲目に色を分けるためにも、僕がそうしたいのだ。


あやめは小さく目元を綻ばせると、ラムネ瓶を日差しに掲げる。そうして見えないはずの太陽に、眩しそうに目を細めていた。ビー玉をカラコロと鳴らしながら、それを見つめ続けている。



「ラムネ瓶って、こうやって透かすと綺麗だよね。お日様の日差しが反射して、ビー玉のところに当てると、もう一つお日様ができたみたい。なんか、いいね。やっぱりラムネは夏だよ」

「ふふっ、懐かしい。昔、よくこうやって遊んでたね」

「うんっ。後はね、ほら、ラムネを飲み終わったら、中にあるビー玉を取ろうとしたり。なかなか取れなかったけどね。でもハサミとか栓抜きで無理やり開けようとしたら、上手くいったの」



彼女との話題はいつも、だいたい他愛のない昔話だった。駄菓子屋で貰った三百円ぶんのお菓子を合間に挟みつつ、そんなことをしていたら、空腹も何も感じないままに時間だけが過ぎていく。昼下がりから片夕暮に差し掛かる頃には、僕もあやめも手持ち無沙汰になっていた。蝉時雨の音色を聞きながら悠然としている。


木々の向こうに斜陽が翳っていくのを茫然と見遣りながら、明日は何をするんだっけ、などと考えていた。明日は、そうだ。今日に行くはずだった神社に行く予定なんだ。この小さな村に一つだけの、それでいて村の三分の一はある大きな境内。裏手は山あいになっていて、小川がそっと流れている。だから子供の遊び場になっていて、幼少期の夏休みには、僕たちもよく遊びに行った。



「明日は、今度こそ神社にお参りだね」

「えへへっ、そうだね。今日は行けなかったもんね」

「うん。小川もあるし、涼めるかな」

「だねぇ。たぶん、他の子供たちもいるよ」



悪戯っぽく笑う彼女に、僕は苦笑する。君は人に見えないからご気楽でいられるけれど、こっちは自然に振る舞うのが疲れるんだよ──という文句の一つでも言いたくなったけど、堪えた。それに、どうしても行きたくないというわけではない。むしろ、あやめとなら、何処に行っても何をしても、楽しいような気がした。



「まぁ、神社の前に、私はまず試したいことがあるけどね」

「夢がカラーで見えるか、っていうやつでしょう」

「うん、今夜はひたすら寝てみる。だからお布団、敷いてっ」

「そういえば、ずっと畳の上で寝てたんだっけ……」

「ずっとお昼寝感覚だったからね。今日からはガチ寝だよ」

「ガチ寝」

「そう、ガチ寝」



彼女の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。ガチ寝。それが何となく面白くて、頬が緩む。布団でガチ寝、かぁ。

取り敢えず「お邪魔します」と挨拶してから、僕は椎奈家の居間に足を踏み入れる。斜陽が差し込んで、茜色に染まっていた。

押入れを開くと、布団が何人分か積まれている。彼女が気付いた時から既に、あやめの家族は、ここにはもう居ない。それなのに家具だけはこうして残っている。理由はいったい何故だろう。


でも、そんなことを僕が考えても仕様がない。ひとまず座卓をどかして、縁側からいちばん近い位置に布団を敷いた。明日、迎えに来ても、あやめはまだガチ寝をしているのだろうか。何だかそうなると、起こすのも躊躇われそうで、少し困るかもしれない。



「あやめちゃん、敷けたよ。こっち」

「やった。ありがとうっ」



雑に放られたサンダルを一瞥して、僕は彼女の手を引きながら布団まで案内した。枕の位置さえ分かれば、後は大丈夫だろう。掛け布団を膝のあたりまで掛けてやってから、小さく頷く。

あやめは手触りが心地良いのか、枕を抱き締めるように寝転がっていた。柔らかい笑みを洩らしながら、僕を見上げている。



「やっぱり畳とは違うね。これぞ寝慣れた我が家のお布団だよっ。おかげでのんびり寝れそう。ありがとね、彩織ちゃん」

「うん、それなら良かった。カラーの夢、見れるといいね」

「彩織ちゃんと一緒にいたから、きっと今日も見れるよ。明日、迎えに来るまでずっと寝てるね。それじゃ、おやすみっ」

「ふふっ、おやすみなさい。また明日、迎えに来るから」



大きく頷いたあやめの顔を見ながら、僕は居間から縁側に戻る。自分の履物を履くついでに、散らばった彼女のサンダルを揃えておいた。こういう無邪気なところは、昔から変わっていない。

──先程よりも深く沈んだ落陽は、山あいに倒景を彩っていた。茜と紫金、紺青の階調のなかに、目を凝らしてみると端白星が瞬いている。一番星。昔もいつか、ここで見かけた気がした。

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