八月二十八日

晩夏の夢

今日も朝から快晴だった。容赦なく燦々と照りつける日差しがアスファルトを焼いて、その熱気が肌にまとわりついてくる。それが嫌で嫌で仕方がなかった。あの坂道に洩れる陽だまりをなるべく避けて歩きながら、なおやかましい蝉時雨に辟易へきえきしている。早くも肌着が汗に張り付いてきたようで、それを考えると心地が悪い。いつも通り日記帳を持っている手も、やはり汗ばんでいる。


あやめの家に到着する頃には、額にも汗が滲み始めていた。湿っぽい感触を人差し指で適当に拭いながら、いつも彼女が座っている縁側の周辺に視線を遣る。案の定、あやめはそこにいた。

ただ今日は、座っているというよりも足だけを縁側に出して、腰から上は奥の座敷に寝かせているような格好をしている。


足だけ日差しが当たっていて変じゃないのかしら──などと思いつつも、縁側の傍らに転がっている彼女のサンダルと、ところどころ皺になっている純白のワンピースと、お腹に可愛らしく置いてある麦わら帽子と、座布団を顔に被せて寝転がっているあやめとを順々に見下ろしながら、さてどうしたものかと苦笑した。



「あやめちゃん、起きてる? 迎えに来たよ」

「……んー、起きてる。なんとか」

「ずいぶん遅くまで寝てたんだね。寝坊?」

「違う……。夢を見ようとしてたの」



「夢?」と僕は聞き返す。彼女は一つ頷いてから座布団をどけると、そのまま大きなあくびを洩らしつつ身体を起こした。眠そうに目元を手で擦っている姿は、小さな頃、よく見た気がする。



「うん、夢。夢がね、見たかったんだ」



はにかむように柔らかな笑みを、あやめは零す。相変わらず、目線の先と僕の位置が合っていない。仕方の無いことだけど。



「それよりもさ、今日はどこに行くんだっけ。予定」

「えっとね……神社かな。神社と裏手の小川のところ」

「じゃあ神社は明日にして、今日は駄菓子屋さんに行こう」

「駄菓子屋さん? 別にいいけど、なんで」

「だって、暑い日はね、ラムネが美味しいよっ」



悪戯っぽい彼女の笑みに僕もつられて笑いながら、少しだけ手間のかかる外出の準備を二人で始めた。サンダルの場所が分からなくなったあやめにサンダルを履かせて、麦わら帽子を被せて、うろ覚えだった駄菓子屋の場所を教えてもらって、お財布の所持金を確認して──そうして、炎天下には生ぬるいような温かさの手を繋いでから、慣れた坂道をのんびりと二人で歩いていく。


陽だまりをいちいち避けるのも面倒臭くなって、ときおり顔や腕に焼けるような日差しを受けながら、遠く近くを何処からともなく聞こえてくる蝉時雨に、少しだけ耳を澄ませていた。緩やかに下りた視線の先には、線路と稲田、遥かに山が見えるきりの、もはや見飽きてきた田舎の情景ばかりがどこまでも広がっている。



「ねぇ。彩織ちゃんって、夢を見る時はカラー? モノクロ?」

「カラーかな。たまに淡い時もあるけど、だいたいカラー」

「人によって違うみたいだね。私は昔からモノクロなんだ」



坂道を下りきると、頭上を覆っていた木々が途端に晴れていく。その切れ間から現れた炎陽が、入道雲の白に映えていた。そのまま左手に折れて、民家と畑しかない道路の傍を、ただ道なりに進んでいく。向こうの曲がり角まで、住宅はたった一件だけだ。



「目が見えなくなってからは、ずっと昔の記憶ばかり見ててね。たまに違う夢も見たけど、似たような夢ばかりだった。でも、昨日の夢はね、モノクロじゃなかったんだよ。カラーの夢。それも、彩織ちゃんと二人で駅の帰りに駄菓子屋さんに行く夢でね」



浮き立つような口ぶりと屈託のない笑みで、あやめは続ける。心做こころなしか、歩調も軽やかになっているような気がした。彼女のサンダルが軽快な靴音を立てて、アスファルトを弾んでいく。



「だから、彩織ちゃんのおかげだよ。駅はちょっと古かったし、待合室も暗かったし、ホームから見えた景色は夏だった。ちゃんと色があって、これ全部、彩織ちゃんが見た色なんだよね。それが凄く嬉しかったから、夢の中だけど駄菓子屋さんに行ったんだ。二人でラムネ飲んで、暑い日はラムネが美味しいねって」



「でも」とあやめはまた、今朝のようにはにかんだ。



「でも、私だけ楽しんでるのも悪いから、彩織ちゃんが来たら今日は駄菓子屋さんに行こうって決めてたんだ。だけどいつ来るか分からなかったし、また寝ればカラーの夢が見れるかなって。それで、うとうとしてたら、彩織ちゃんが迎えに来てくれてた。カラーの夢が見れるかどうかは、また今夜、試してみるねっ」



そう言って相好を崩した彼女の面持ちがあまりにも楽しそうで、僕も思わず浮き立つような気持ちになる。『色を分けてあげる』なんて思い付きが、まさか自分の予想以上の結果になって、ここまで喜んでもらえるとは思ってもいなかったから。そう考えると、なんだか救われたような気がした。あやめに喜んでもらえるくらいには、僕の行動に価値はあったということなのだろう。


お互いに上機嫌で、握っている手も、やや熱気を帯びて汗ばんできたような感じがする。けれどそんなことは気にもせずに、あやめは楽しそうに話し続けていた。雨宮家の前を通り過ぎて、住宅街を抜けて、また駅前に出る。彼女が教えてくれた駄菓子屋の場所は、そこの商店から左に折れて数分ほど歩いた先だった。



「──あ、あった。駄菓子屋さん。懐かしいね」

「うん。どう? ぜんぜん変わってない?」

「ううん、まったく。ほとんど昔のまんまだね」



入口の硝子戸からは、何やら雑多なお菓子の陳列棚が見える。そのちょうど手前に木製のベンチが一つだけ置かれていて、他には飲料水を冷やしているショーケースやアイスケース、自動販売機が並んでいた。どこかの排水口から水が垂れているのか、アスファルトを伝って染みができている。そのせいか苔も生えていた。


ここのショーケースに目当てのラムネが無いことを確認すると、僕は軽く深呼吸をしてから硝子戸に手をかける。今まで普通にあやめと喋ってきたけれど、本来なら彼女は誰にも見えないはずの存在だ。そこで迂闊に変な態度をとってしまったら、僕の宜しくない噂が広まってしまう恐れがあるし──などと駄菓子屋に入るのにも気を張りつめさせながら、引き戸をくぐって自然を装う。


扉の上隅には風鈴か何かが付いていたのだろう、澄んだような音色が一帯を泡沫のように融けてゆく。部屋の中は冷房が効いていた。肌が空気の違いを察知して、どこか引き締まるような心地の良い感覚がする。先程の風鈴の余韻も相まって、身体に篭もっていた熱気が一気に消えていくような、妙な爽凉感があった。あやめも同じらしく、二人で顔を見合わせながら小さく微笑む。



「あらま、雨宮さんとこの彩織ちゃん。来てくれたんね」



すると矢庭に、座敷の向こうから老婆が姿を現した。緩慢とした動作で歩いてくると、そのままカウンターの前に腰を下ろす。



「あっ、おばあちゃん。この間の宴会はどうも」

「うんうん、あの時は帰りにお菓子あげるって言ってな。だから今日は好きなもん適当に持ってきな。三百円までタダよ」

「あれ、そんなに。貰っちゃってもいいんですか」

「構わん構わん、好きに持ってき。好きなもん食いな」

「ふふっ、どうもありがとうございますー」



「良かったね、彩織ちゃん」と喜ぶあやめに頷きながら、陳列棚を見回していく。カウンターから見えないような位置に進んだあたりで、「何が食べたい?」と彼女に小声で問いかけた。



「彩織ちゃんの好きなのでいいよっ。みんな美味しいしね」

「じゃあ、どれにしようかな……。あ、カゴ持たなきゃ」



傍らに置かれていた台から小さなカゴを取り出して、その中に適当なお菓子を入れていく。定番のうまい棒やカルパス、チョコレートや飴に始まって、袋詰めの三十円スナックや六十円スナックというのも選んでみた。計算して、きっかり三百円ぶん。それから目当てのラムネも二人分、ショーケースから取り出しておく。



「おばあちゃん、これください。ラムネは別で」

「あい、それじゃあラムネ代ね。百八〇万円」

「はい、百八〇──え、百八〇万円? なんで?」

「これは、おばあちゃん強気の値段設定だね……」



既に用意しておいた手の中の百八〇円がいちばん困惑している。この村だけとんでもないインフレが起きているのだろうか──という僕とあやめと百八〇円の困惑も他所に、おばあちゃんはそのまま僕から百八〇円を奪い取った。いや、徴収した。たぶん。



「これじゃ、あと百七九万と九八二〇円が足りないでね」

「えー、困ります……。しかも計算が早いし……」

「おうおう、困り困り。これが田舎の駄菓子屋ジョークさね」

「……そんなこと、昔はやってなかったでしょう」



苦笑しながら、中身を入れ終わったビニール袋を受け取る。片方はあやめと手を握っているし、もう片方は日記帳を抱える上にビニール袋も持たなければいけないから、少し大変な形だ。やはりそれを変に思ったのか、おばあちゃんがすぐ聞き咎めてくる。



「彩織ちゃん、片手でそんなに持つんかい」

「まぁ……。実はこっちの手、ちょっと痛めちゃって」

「あらら、そりゃ大変だ。どうもお大事にね」

「うん、お世話様でした。また来ますね」



手を握らせている当の本人は、さも面白そうに笑っていた。何とか言いたくなるのを堪えながら、最後まで自然を装って駄菓子屋を後にする。屋根のひさしから一歩進むと、南に昇ってきた太陽が僕の瞳を直射してきた。焼けるように暑いというよりは、このアスファルトから立ち込める熱気が邪魔で邪魔で堪らない。慣れてきた頃には、どうせこの日差しが邪魔に感じてくるのだろうけど。


歩くたびにカランと鳴るラムネの音だけが、唯一の救いだった。

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