八月二十六日
きっと、
開きっぱなしの障子を抜けて、窓硝子越しに朧気な
──昨夜は何時に寝たろう。いつの間にか朝になっている。思い出したくもない昨日の話がやけに鮮明に思い出されて、そこからの自分の記憶というものは、面白いくらいに思い出せなかった。
『あやめちゃんはもう、死んでるんよ』たったそれだけの小夜の言葉が、僕の
そっと目蓋を開いて、窓硝子の向こうを眺めてみた。
──あやめが死んでいるなんて、信じられなかった。この四年間で彼女の訃報なんて耳に入れていないし、何より僕は昨日、あの場所で彼女と会ったのだ。麦わら帽子に純白のワンピースを着て、昔と変わらない
けれど、わざわざ小夜が『あやめちゃんはもう死んでいる』などと、そんな冗談を創り上げるとも思えない。もしかしたら彼女は、本当に死んでいるのかもしれない。──それなのに、僕はあやめのことを認識している。その
──そんな
◇
祖父母には朝の散歩と称して、僕と小夜は早々に家を出る。彼女は昨夜のことを誰にも話していないらしく、こちらが何かを言われることはなかった。ただ、朝早くに居間へと起床していた小夜の面持ちを見るに、何か言い知れぬ不安を胸の内に渦巻かせているらしい。立場は違っても、それは僕だって同じことだった。
瓦葺きの数奇屋門は、この曇天に降られている。鈍色をした紗の向こうから日差しが仄かに照るくらいで、だから枝葉の影も今日は、消え入りそうなほどに薄ぼけた色をしていた。夏の面影はもはや、アスファルトに篭める熱気と埃っぽさ、そうして、何処から匂うかも分からないぺトリコールみたようなそれだけだった。
「──彩織ちゃんは、本当にあやめちゃんに会ったん?」
門を抜けると、小夜は真っ先にそう
「うん、会った。ずっと一緒にいたし、話もした」
「……死んでるのに?」
「……うん。僕はそんなこと、まったく知らなかったけど」
「だからって、死んだ人が見えて話せるん?」
「まさか。でも──少なくとも僕はそうだった」
「……それで、ウチを連れて試すんかぁ」
いつもの明朗快活な態度とは違って、小夜は珍しく弱気だった。それもそうだろう──死んだはずの人間と『会って話した』と言われれば、誰でもまずは嘘を疑うに決まっている。ただお互いにその相手が嘘を吐くなどとは思えないのだから、こうして
「でも、あやめちゃんが死んだっていうのは変わらないんよ」
「……うん」
「彩織ちゃんは、そのことをウチに伝えたいだけ?」
「……そう、だね」
返答に
「なんか、ごめん。僕もよく分かってなくて」
「……いや、いいんよ」
そのまま二人は、無言で歩いていった。何となく歩調を早めたいような、遅めたいような──そんな雑多な心持ちでいる。アスファルトに硬く鳴る靴音が響いて、何処かで雀が
鈍色の空を仰いでいる木々は、やはり
緩やかな坂ばいを進んでいく。青青とした木々の匂いも、立ち込める土草の匂いも、今の僕には届かなかった。ここまで来ても、蝉時雨にはまだ遠い。森閑とした空気の中に、たった何匹かの蝉が鳴いて、たった二人の足音がして、息遣いがして──それだけを聞くともなく聞いているうちに、視界は晴れてきてしまった。
──僕は思わず息が詰まる。
民家の軒先に、あやめはいた。昨日と変わらない場所で、変わらない格好で、ただ、やはり、何処かを茫洋と見詰めている。それがおかしいことに、僕はもう気が付いてしまったのだ。
「……いる、んだよね」
彼女は小声でそう洩らす。たった一言きりで、現状を再確認するのには充分すぎた。僕はそのまま頷いて、遠目にあやめを見る。
「……そっか」と小夜は呟いた。伏せがちにしたその瞳には、どんな感情の色が現れていたか、よく分からない。そうして矢庭に
視線を今一度、あやめに向ける。彼女はもう、死んでいるらしい。まったくそんな風には見えない。鈍い日差しに反照する黒髪も、その一筋一筋までが繊細に靡いていた。健康的な肌も、指先の爪も──とにかく彼女の存在そのものが、生きている人間そのもののように思われて仕様がない。そんな、望みにもならない、
依然として、あやめは僕に気が付いていないらしかった。とにかくもう一度、彼女と話がしたい。その一心で歩を踏み出す。それが嫌に重かった。これはきっと、僕があやめに抱いている愚考の重さなのだろう。分かりきっている現実を直視できていない、自分自身の弱さでもある。それでも、進まなければいけなかった。
「……ぁ」
砂利を踏む足音で、ようやく彼女は僕に気が付いたらしい。不意を突かれたように肩を跳ねさせると、ほんの小さな、声にもならない声を、この虚空に洩らした。たった一、二メートルかそこらの距離を隔てて、お互いの息遣いが夏の朝に融けてゆく。
「……来ちゃったんだ」
あやめは僕から視線を落とすと、気恥ずかしいような物悲しいような、そんな何かが綯い交ぜになったらしい笑みを洩らした。彼女の言葉の意味が、今はよく分かる。──本当は来てはいけなかったのかもしれない。でも僕は、来てしまった。自分の
「──来ない方がきっと、幸せだったのにね」
果たしてその言葉を、僕とあやめの、どちらが言ったのだろう。或いは、二人とも言ったのかもしれない。──来ない方がきっと、幸せだった。確かにその通りなのだ。僕も彼女も、きっと。
あやめは
「──私、もう死んでるんだよ」
脳髄をありったけの力で殴られたような気がした。酷く
口の中が嫌に乾いてくる。呼吸が段々と浅くなる。心臓が締め付けられるように痛い。脈搏が幾つを打っているかなどは、意識する余裕すらなかった。現実を直視するのが関の山だった。
「……でも、それだけじゃなかったの」
あくまでも淡々と、彼女は告げる。
「──なんかね、目が見えないんだ」
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