空き缶を投げる。

雨籠もり

空き缶を投げる。

「2020年の夏は退屈ですね。結局、オリンピックは延期、病原菌は世界を蝕み続けている」

 そんな言葉を、ベランダの仕切り越しに話しかけられたものだから、僕はあまりの唐突さにバランスを崩して思わず、後ろに倒れてしまった。冷たいコンクリートの感触が背中に広がる。

 臀部を擦りながら、転げたことを仕切り越しの隣人に悟られないように、静かに立ち上がった。殺人的な熱気が肌を覆っている。今すぐ海に飛び込めたなら、どれだけ清々しいだろう。外出自粛令さえ無ければ、なんて考えてしまう。

「ええ、僕も、かなり退屈しています。自室で出来ることはほぼやり切ってしまいました」

 そう言って、足跡のついたベランダの手すりに寄り掛かってふと、一週間前のことを振り返る。

 退屈凌ぎにと、買ったままで封を開いていなかった短編集を読んでみたり、長年聴いていなかったレコードを再生してみたり、僕は暇を潰していた。しかし、これは多忙すぎた仕事の副作用なのか、はたまた伴侶を持たない男の運命とも言うべきか、やはりすることも無くなってしまった。

 それからは、ベランダから見えるベンチを見続ける日常が続いた。レトロな雰囲気を持つそのベンチは、双つの青く茂った街路樹に挟まれて小さく存在している。朝方、東から伸びる光芒を受け止めて、西に沈む太陽を見送る、そのすべての経緯を、僕はベンチを中心にして、眺め続けるのだ。

「ゲームなどは、しないのですか」

 隣人の彼が、爽やかな声色でそう尋ねた。僕はその声色に、何処か通常とは違う懐かしさを覚えて、ふと右上の空を見上げる。綿のような雲が浮んでいる。

「ゲームなどは……いいえ。スマートフォンも、テレビも持ち合わせていないものですから」

 視線を下ろすと、やはりベンチが在る。普段と変わらない景色の中に、まるでその場に生えたかのように――木造りの人工物は、佇んでいた。

 彼は小さく、朗らかに笑って、悪戯を企む子供のような無邪気さを踏まえて、仕切り越しに続ける。

「いえ、テレビゲームではなくて、ただの遊びですよ。じゃんけんや、トランプ。」

 ただの遊び、か。

『遊んでよ、お父ちゃん』

 そんな台詞を投げ掛けられた気がして、僕は咄嗟に後ろを振り向く。しかしそこに生き物は在らず、ただ読み終えた文庫本と、割れたレコード盤、そして倒れた椅子と、垂れたロープが在るだけだった。

 風が、ベランダの手すりの下から、僕の足元を吹き抜けて、伽藍堂の部屋を引っ掻いて――また、足元を過ぎる。

「トランプもじゃんけんも、相手が居なくては出来ない遊びだ。僕には、共に生きてくれる女性も手を握ってくれる子ももういないから――やはり、僕に出来ることはないよ」

 嗚呼、暇だ――と、胸の内で呟いた。暇で暇で仕方がない。時間の濁流に手を伸ばしたところで、掬える時間などほんの僅かなのだ。人生が死ぬまでの暇潰しであるとするならば、暇を潰せない僕は既に、生きてはいないのだろう。

 或いは、既に死んでいるか。

 あの二階建ての、白い壁に頭をぶつけて――血が噴き出して、自分の感情を、爪痕をつけるように、殴り書きにして、既に死んでいるのではないか。

 そんな僕に彼は、酷く冷淡に尋ねた。

「だからあなたは――自ら死のうとするのですか」

 まるで心臓を矢で射抜かれてしまったような衝撃だった。風に揺れた街路樹の葉が、囁くように震えている。僕は深呼吸を数えてから尋ねた。

「どうして、それを?」

「それは――あれだけ、繰り返し椅子から飛び降りられては、気付いてしまいますよ。それに第一、さっきだって、あなたはそのベランダを乗り越えて、飛んでしまおうとしていたじゃありませんか」

 僕は否定のしようが無かった。だからと言って、その事実を、僕の口から肯定しようとすることもなかった。

 黙ってしまった僕の代わりに、彼は続ける。

「答えてはくれませんか。あなたは、ただ、暇であるが故に、死のうとするのですか」

「それは……違う。」

「それではどうして、あなたは死ぬのですか。」

 彼の言葉には、詰問するような厳しさも険しさも無かった。しかしながら適当ではなく、確かな疑問を抱えている。彼の言葉は、まるで娘の髪に櫛を入れて梳かすように、僕の心の奥底をほどいてしまうのだった。

 ほどかれてしまった僕は、一本の糸になる。ぴんと張られた糸に指が触れて小さく鳴るように、僕の口は言葉を並べ始める。そしてそれを、僕はそのままにしておいた。

 眼下にはベンチが在る。

「離婚したのですよ。僕は数十年前に、家族に、妻に――見限られて。」

『遊んでよ、お父ちゃん』

 僕は彼女を愛していた。彼女もまた、僕を愛していた。彼女との愛は婚約と言う形で花開き、また、出産という形で実った。

 元気な男子だった。産まれてから離婚するまで、彼はずっと笑顔の、向日葵のような男子だった。

 出産を機に、僕はいっそう、仕事に精を出し始めた。最愛の妻を、可愛らしい息子を養う為に、いや、幸せにする為に、僕は馬車馬の如く働いた。努力を重ねて、残業は勿論のこと、休日すらも勉強に費やした。

『あなたのことが分からない』

 そんなある日、僕の妻は、息子が眠ってしまうのを待ってから、そんな言葉を、僕に押し付けた。

 どうして、と尋ねたことを覚えている。

『私たちが幾ら淋しくても、あなたは仕事に行くじゃない』

 そう、突っぱねるように返した彼女の指には、血の滲んだ絆創膏が、何枚にも重なって貼られていた。すう、と川のような涙が、彼女の頬を撫でていた。

 そうして――空っぽになった二階建てに、僕は一人取り残された。今思えば、僕がすべて悪いのだけれど、それでも、最愛を失った僕に残っていたのは、意味の無い名誉と、僕を責める為に昇る太陽だけだった。

 恋が育ち、結婚で花開き、出産で実るように、恋愛とは植物であるならば、僕の恋愛はその時、枯れて、花を――落とした。失ってしまった僕は、ただの機械になった。

 それでも、なんとか生きてこれたのは、あのベンチがあったからだと、僕は思う。

「下に、木造りのベンチがあるでしょう。あのベンチに、ある青年がいつも座って、本を読んでいるんだ。それも、僕が好きな小説家の本を――。ちょうど、僕の息子が育ったら、こんなふうだろうな。それくらいの、青年が。」

 仕切り越しの彼は、黙って僕の言葉に耳を傾けていた。

「その青年がいる間は、僕は平静で居られるんだ。楽しそうに本を読む青年は、僕がいつ、上から眺めても、ベンチで読書している。まるで夜になれば昇る月のように」

 しかしながら――彼は。

『外出自粛令』が出てから、彼はベンチに座って本を読んではくれなくなった。当たり前なのだけれど、それでも、生き甲斐でもあった彼の存在は、ぱったりと、消えてしまったんだ。

「彼が彼処で、本を読まないのならば、僕は生きていても、仕方がない。耐えられないんだ。今にも、あの下らない空に向かって、飛び出してしまいたくなる」

 数年前――妻と息子が出て行ったあの日。僕はあの日に死んでしまえば良かったものを、今日までだらだら生き延びてきた。死ぬ機会を無闇に先延ばして、僕の手元に最愛は今も無い。

「成程――そういうことだったんですね。」

 仕切り越しの彼は、しかし何の哀れみも無く、ただ自然的な、事実のひとつとして聴いてくれた。そしてそれが、僕には堪らなく嬉しかった。

 しかし、彼は――僕はてっきり、そこで会話は終わってしまうものとばかり思っていたけれど――静かに、語った。

「こんな冗談は、如何でしょう。」

 彼は奇妙に懐かしい声色で、続けた。

「父のことが大好きだった子が、しかし父は忙しく、仕方なく父の本棚を漁って、そこに在る本を読んでいた。物語について、父と話す為に――しかし父とは早くも別れることになってしまった。とある息子は、母のもとで暮らしつつも、仕事熱心だった父が忘れられなくて――父のことを、調べた。やっとの事で、父を見つけたけれど、いざ話しかけようとしても、小っ恥ずかしくて、話しかけられない。

 だから、彼がいつも見下ろしているベンチで、本を読むようになった。父が好きな小説家の本を、ずっと。父の傍で、まるで一緒になって読むように――読み続けた。そしてその行為が、堪らなく嬉しかった。

 息子は、自分の父の隣の部屋を借りて、ベンチでの読書を習慣にした、なんて。」

 彼は本当に、滑稽なほどの冗談を、語り終えた。

 僕は、馬鹿馬鹿しい、とその話を跳ね返すことも出来たのに、それはせずに――ただ、不思議な感覚に、目を見開いていた。そしてその感覚は、くっきりとした感触を、じっくりと時間を掛けて、心に表した。

 彼は僕よりも先に、言う。

「ねえ、もしもすることが無くて、そしてまだ、生きていてくれるなら――ひとつ、ゲームをしませんか」

「ゲームって、何を。」

「僕の部屋には、空き缶が大量に在るのですが、それを、あの、ベンチの傍にある鉄網のゴミ箱に向かって、投げ入れるんです」

「投げ入れるって、入らなかった分は、どうするんだ」

「それは、後から取りに行けばいいことです。外出自粛令が無くなった頃にでも、ふたりで。」

 僕は、彼の顔が見たくて仕方がなかったが、それは外出自粛令が解除された後、外れた空き缶を拾いに行く時にでも確認すればいいか、と考え直して、その時ふと、気付いた。外出自粛令が解除された時に空き缶を拾いに行くならば、僕は少なくとも、外出自粛令が解除されるまでは――死ねないのだ。

 生きていて良いのだった。

 まんまとやられた――そう考えながら、仕切りの下から伸びる手に握られた空き缶を受け取る。彼の手は滑らかで美しく、ちょうど僕の息子が育ったら、こんなふうだろうな、と言った感じの手をしていた。

 僕は空き缶の凸凹を指でなぞり、眼下の鉄網のゴミ箱を見定めて、空き缶を投げる。

 空き缶は程よい放物線を描いて青空を掬うと、すう、と落ちていった。

 その先には、あのベンチが在る。

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