短編 許慈と胡潜
時は遡り、許靖が劉備の臣下として働いていた頃。
***************
「ああっ、
背後から突然そんな声をかけられ、許靖は嫌な予感がした。どう聞いても楽しい話を持ってこられた雰囲気ではない。
つい先ほど大きめの仕事を終え、役所の中庭で茶を飲みながら一息ついていたところだった。
ちょうどモクレンの白が華やかな時期なので、それを眺めながらゆったりと過ごす予定だったのだ。
しかしゆったりどころか、走らなければならないような空気を感じる。
「……なんでしょう?」
許靖はとりあえず飲みかけの茶を流し込んでから振り返った。
おそらく振り返ってしまえばもう茶は飲めない。
「
(またか)
許靖はその名を聞き、少々
許靖は中庭に据えられた長椅子から腰を上げ、呼びに来た役人に小さくうなずいてやった。それから小走りに走り出す。
許慈、というのは許靖と同じように劉備に仕えている役人だ。
高名な儒学者に師事していた男で、学問の素養が高いことから学士として劉備に雇われている。現在は廃れてしまった宮中儀礼を制定し直すため、古典の調査を命じられていた。
ただし、その仕事は許慈だけに課せられたわけではない。複数の学士が担当していた。
「また
許靖のその質問、というか確認に対し、呼びに来た役人は謝ってきた。
「すいません……」
それは謝罪ではあったが、肯定の返事でもある。
この役人は許慈の部下であり、上司の起こした面倒事の詫びを入れている形だ。
さすがに許靖は気の毒になった。
「あなたが謝ることではありませんよ。しかしその様子だと、いつもより激しそうですね」
「私が部屋を飛び出した時には胸ぐらを掴み合っていました」
許靖ははっきりと苦い顔をした。
仲が悪いなら離れて過ごせば良さそうなものだが、不思議と世の中はそうなっていない。胡潜も許慈と同じように、劉備から古典の調査と儀礼の制定を命じられているのだ。
つまり許慈と胡潜は同じ任務に望む同僚で、議論しながら仕事を進めなければならないわけだ。
しかし議論とは一面、喧嘩のようなものでもある。仲の悪い二人がそれをすれば、揉め事になるのも当たり前だった。
(とはいえ、喧嘩のたびに私が呼ばれるのが当たり前になっているのは納得いかないが……)
許靖はそのことに強烈な不満を抱きつつ、許慈の執務室に駆け入った。
そして驚いた。
これまでの二人は喧嘩しても相手を怪我させるようなことはなかったのだ。それが今は鞭を手にして突きつけ合っている。
「ちょっ……ちょっと二人とも!それはさすがにやり過ぎでしょう!」
許靖は慌てて二人の間に入り、暴行沙汰になるのを止めた。
しかし二人とも鞭を下ろさない。互いを睨みつつ、まず胡潜の方が口を開いた。
「許靖殿、止めてくださるな。こやつは一度痛い目を見なければ分からんのです」
言われた許慈の方も黙っていない。
「それはこちらの台詞だ。今日という今日は堪忍袋の緒が切れた。いくら大恩のある許靖殿とはいえ、私はもう止まる気はありませんよ」
許慈は大恩、と言った。
それが喧嘩のたびに許靖が呼ばれることになっている原因だ。
この許慈、学者として優秀な男なのだが、十数年前まではただの難民だった。戦を避けるため、許靖と同じように交州へと避難していたのだ。
それがこうやって公務につけているのは、許靖に従って益州に入れたからだ。許靖が巴郡太守として抜擢された時に共に益州入りし、許靖によって引き立てられてきた。
そんな男だから基本的には許靖に頭が上がらない。許靖が止めれば許慈はグッと怒りを抑えるし、喧嘩は片方がおさまればもう片方も落ち着くものだ。
そして胡潜は胡潜で名士として大物たちの尊敬を集めている許靖に一目置いている。加えて許靖は高官でもあるし、その言うことを
それで喧嘩のたびに許靖が呼ばれ、止めさせられているのだった。
が、今日に限っては許慈も言うことを聞く気がないと言う。その頬は真っ赤で、許靖の目から見てもいつもより怒っていることは確かだと思えた。
(とはいえ、役所内で暴行沙汰を起こさせるわけにはいかない)
許靖は二人の怒りをおさめるための言葉を探した。
「二人とも、少し落ち着いて自らを顧みてください。あなたたちは宮中儀礼を制定している学士ですよ?人々の礼について定める立場です。そうやって鞭を突きつけるのは、礼にかなった行為ですか?」
許靖の言うことはもっともだし、二人とも儒者として恥じ入る心はある。
だから息を荒げながらも、鞭は下ろしてくれた。
「……分かっていただいて良かった。しかし、今日はまたどんなことがあってここまで盛り上がったのですか?」
許靖はほっと息を吐いてから事情を尋ねた。
よほどのことがあったのかと覚悟して聞いたのだが、実際には特別なことはなかった。
「どんなことも何も、いつも通りですよ。胡潜の馬鹿が馬鹿正直に古典そのままを採用しようとしているだけです」
許慈の言葉に、胡潜はまた鞭を振り上げた。
「何だと!?貴様が古典と異なる儀礼を草案に入れたから教えてやっただけだろう!学士でありながらその貧弱な記憶力、馬鹿はお前だ!」
「何ぃ!」
と、許慈の方もまた鞭を振り上げる。
許靖はいい加減に腹が立ち、二人の鞭を両手で掴んでグッと下げた。
胡潜と許慈は六十を過ぎた許靖の意外な膂力に驚き、少しだけ気持ちを沈めて鞭を下ろした。
許靖はそんな二人の瞳を交互に見てから、大きなため息をついた。
(まったく……二人ともよく似た「天地」をしているのだから、上手くやれば仲良くできそうなものなのに……)
許靖の見る瞳の奥の「天地」には、同じ生き物を中心にした光景が広がっている。
(蜘蛛、か)
二人の「天地」には蜘蛛がいた。
許慈の方は巣を張って獲物を待ち伏せる蜘蛛、胡潜の方は獲物を追いかけて仕留める蜘蛛だ。
許慈の蜘蛛は賢く、これ以上ないほど理想的な場所に巣を張っている。そこは民家の近くだから灯火に誘われた虫を捕らえるのに都合が良い一方、人の目についたり邪魔になるようなところは避けていた。
許慈の理知が詰まったような印象を受ける。
一方の胡潜の蜘蛛は貪欲に獲物の虫やカエルなどを追っていて、それを食べている途中でも他の獲物が目に入れば飛びついていた。
こちらからは俊敏で好戦的な印象を受ける。
実際に二人の喧嘩でもまず突っかかるのは胡潜の方で、その抜群の記憶力に裏打ちされた駄目出しが発端になることが多い。
(議論の内容自体はどちらが正しいとも言い難いのだが……)
胡潜は古典と違うから良くないと言う。
許慈は古典通りにする必要はなく、本質を追求した上で都度変えればいいと言う。
もちろん全て古典通りというのは非効率的過ぎるだろうが、儀礼という性質上、先例も無視はできないだろう。
(要はその均衡だが、もう少し譲歩し合うことはできないものか……もはや相手の意見に反対することが目的のようにも見える)
よく似た「天地」の場合、とても仲が良くなるか、とても仲が悪くなるかの両極端になることが多いように思う。
そしてこの二人はどうやら悪くなる方のようだった。
(どう言い聞かせれば……)
以前からずっと考えているが、良さそうな言葉が見つからない。
これまではとりあえず当たり前のことを言ってなだめてきた。
しかし事がここまで荒れてくると、通り一遍等の対応をして終わったのではさすがにまずそうだ。
「……まずはお互いにしっかりと考えを伝え合うことが重要だと思います。どこかでゆっくりと話し合える場を用意しますから、二人とも付き合ってください」
意外なことに、その提案にまず反応したのは許慈でも胡潜でもなかった。
先ほど許靖を呼びに来た許慈の部下だ。
許靖の袖を引き、
「許靖様、ちょっと……」
と言って、部屋の外を指さした。
***************
「今晩はここでじっくり話し合いましょう。ここの飲み屋で」
と言って連れてこられた店を見て、
そうなる理由があるからだ。
許靖もそれは分かっているのだが、何も言わずに店の戸を潜った。
許靖がするすると入ってしまったから二人とも追わざるを得ない。バツの悪い顔のままついて行く。
「あら、許慈さんに胡潜さん。いらっしゃい」
迎えてくれたのはこの店の女将だ。
二人の顔を見るなり親しげな笑みを浮かべて小首を傾げた。
「今日はお二人一緒なのね。お隣同士の席でいいのかしら?」
許慈と胡潜は顔を見合わせてから無言でそっぽを向いた。
仕方なく許靖が代わりに答えてやる。
「私を間の席にしてください」
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
女将は三人を案内してからあらためて許靖に会釈した。
「ここの店を取り仕切っております、
麗月が頭を下げると束ねた髪が一筋降りて、はらりと頬にかかった。
その黒が白い頬に美しい線を引き、まるで描きかけの絵画のようになった。
(何と言うか……色気のある女将だな)
許靖は花琳が聞けばむくれてしまうようなことを心の中だけで思った。
麗月は三十をいくつか越えた女だが、十代二十代では絶対に出ないような色香を漂わせている。
ただ美人というだけではない。挙措や声、目つきに艶があり、どこか男を撫でるような視線を送ってくる。
しかも髪をしっかりと整えているくせに、うなじの辺りにほつれた毛が幾本か垂れていた。つい隙を感じてしまう姿だ。
(これでは二人が執心してしまうのも仕方ないな)
許靖は昼間にした許慈の部下との会話を思い出していた。
『私もつい先日他の吏員から聞いたのですが、許慈様と胡潜様は同じ女に
『懸想?つまり女を取り合っているというわけですか?』
『そういう話です。成都の裏通りに麗月という未亡人がやっている飲み屋があるのですが、お二人ともそこに通い詰めているのだと聞きました。恐らくそれで互いを敵視しているのではないかと』
『なるほど』
『しかもお二人とも見栄を張るために高級なものばかりを注文していて、かなりの額を散財をしているそうです』
『それは……』
それはさすがに同僚としても、一知人としても見過ごせない。
そんなこんなで許靖は二人の話し合いの場を麗月の店に指定し、併せて麗月との関係も探ろうとしたわけだ。
(この様子だと、二人が麗月さんを取り合っているのは間違いなさそうだな)
麗月を前にした二人の態度でそれがよく分かる。それこそ許靖に微笑む麗月を見て苛立っているようにすら感じられた。
「許靖といいます。許慈殿、胡潜殿とは同僚でして」
「ああ、あなたが許靖様ですか。許慈さんからお聞きしていますよ。すごい名士の方で、今の許慈さんがあるのは許靖様のお陰だとか」
(そつなく客の上司を立てるか……)
こう言われて嫌な上司はいないだろう。
別に許慈は部下というわけではないが、もしそうなら人によっては上がった好感度が出世に繋がるかもしれない。
(美人で賢く、接客が上手い)
理想的な女将で、店も繁盛しているようだった。
麗月は許靖たちの注文を聞き、追いたくなるような尻を向けて下がっていった。
「……で、仕事の話なのですが」
許靖は女将を見送ってからそう二人に切り出した。
許慈も胡潜も、むしろそちらの話題にホッとしたような顔をした。
「まずは胡潜殿。胡潜殿は本当によく古典を記憶されていて、先例との相違があれば即座に指摘してくださいます。素晴らしいことだと思います」
「ありがとうございます」
「しかし一点確認しておきたいのですが、新しく制定される儀礼は先例と全く同じでなければならないと思ってらっしゃいますか?」
「いえ、そんなことは……そもそも古典の間でも相違や矛盾が見られることも多いですし、全く同じとまでは……」
「そのご認識、了解しました。では次に許慈殿」
「はい」
「許慈殿は儀礼の目的や本質をよく考えてくださるので、現実に即した礼を提案してくださいます。現場の吏員としてはありがたいことです」
「光栄なお言葉です」
「ですが儀礼には先例があり、それを全く無視していいと思ってらっしゃいますか?」
「いいえ。そもそも劉備様の命令は廃れてしまった儀礼の復活ですし、もちろん先例も重要です」
「分かりました」
許靖はそこでいったん言葉を区切ってから、麗月の置いていった茶を口に含んだ。
その苦さを口中で転がしてから言葉を続ける。
「ではお二人とも、どこかで妥協しないといけないということは分かっていらっしゃると思います。まずはそれを理解してください」
「……はい」
「……そうですね」
と、二人は申し訳無さそうに頭を下げた。頭のいい男たちなので、自分たちに問題があった事自体は理解できている。
許靖はそのことに安堵しながら、もう一点付け加えた。
「それと、劉備様のことをもう少し理解していただきたい。あの方は中山靖王劉勝の血を引いていらっしゃるから伝統というものの価値を理解されています。しかしその一方で、叩き上げの武人でもあられるから非効率的なものを嫌います。どちらか両極端になってしまった草案など上げてしまえば、間違いなくお叱りを受けますよ」
二人ともこの説諭にはギクリとした顔になり、いっそう頭を下げた。
劉備は益州という広大な地域を治める長であり、その叱責は当然恐ろしい。その後の自分たちが学士として立っていられなくなる可能性もある。
二人で視線を交差させたが、その視線はそっぽを向くのではなく床に下ろされた。多少の改善があったと見ていいだろう。
と、ここまでは許靖の望む通りになったわけだが、許靖としては満足などできていない。
むしろここからが本番だと気合を入れ直しながら尋ねた。
「……で、お二人は今の話だけで喧嘩をやめられますか?それとも例えばですが、このお店が無くならなければ喧嘩はやめられませんか?」
二人はバッと顔を上げ、胡潜の方は身を乗り出してきた。
「きょ、許靖殿!まさかっ、お上の力でこの店を潰そうと!?」
その懸念に対し、許靖をよく知る許慈の方は鼻で笑った。
「ただの例え話だ。許靖殿はそんなことをする方ではない。短い付き合いでもそれくらい分かるだろう」
鼻で笑われた胡潜は許慈を睨み、乗り出した身を憎き同僚へ傾けた。
「何おぅ!この場においてもまだ挑発してくるとは貴様、馬鹿もいいところだぞ!」
「ば、馬鹿だと!?挑発してるのは貴様の方だろうが!」
「やめてくださいっ」
許靖は両手を広げて二人を止め、それから盛大なため息をついた。
やはり一筋縄ではいかなさそうだ。
「あらあら、喧嘩するほど仲がいいってよく言いますけど」
と、麗月が盆に小皿を乗せてやってきた。
三人の前にとりあえずつまめるものを置き、それから順番に酒を注いでいく。
注がれる間、許慈と胡潜は先ほどとは人が変わったように大人しくなっていた。
「人に迷惑をかけるような喧嘩はいけませんよ。めっ、めっ」
そう言いながら、二人の額を人差し指で優しくつつく。
「いや、これは……」
「失礼しました。お店の迷惑になるようなことはしませんので」
二人は飲む前から顔を赤くし、目尻をゆるく弛緩させてしまった。
許靖は呆れるような気持ちでそれを眺め、再び盛大なため息をついた。
「まったくお二人とも……」
「フフフ……許靖様は許慈さんと胡潜さんのことでご苦労なさってるんですね。なんだったら私が宮仕えをして、仕事中のお二人をなだめて差し上げましょうか?」
麗月のその冗談を、許靖は半ば本気で実行してもらいたいと思った。
しかし許靖には常人以上に、その冗談が冗談であるとよく分かるのだ。
「しかし麗月さんの望みはこの店を大きくすることでしょう?宮仕えなど、きっと性に合いませんよ」
麗月は長いまつ毛をしばたたかせ、それから小首を傾げた。
「お店を大きく?私……そういうことはあまり口にしたことがないんですけど……どなたかからお聞きしたんですか?」
常連である許慈と胡潜も不思議そうな顔をしている。もしかしたら、裏通りで今くらいの店を続けるのが望みだろうと思っていたのかもしれない。
許靖は余計なことを言ったと思った。
麗月の瞳を見て、そういう検討をつけていたのだ。
(やたら巣の大きな蜘蛛だから……)
そこには許慈、胡潜と同じように、蜘蛛の「天地」が広がっていた。二人が強過ぎる執心を抱いているのはこれが原因だろう。
麗月の「天地」にはやたら大きな巣を張った蜘蛛がおり、しかもその蜘蛛はさらに巣を広げようと働き続けている。だから店を大きくするのが望みなのだろうと感じたのだ。
(それと……何となくだが艶っぽい蜘蛛だ)
蜘蛛だけでなく蛇などもそうだが、多くの人間から気味悪がられるものには紙一重の色気がある。そういったものに熱心な愛好家がいる理由の一つだろう。
(この艶で許慈殿、胡潜殿の蜘蛛たちが惹かれているのだろうが……それよりも私には巣の大きさのほうが気になる)
許靖の第一印象としてはそうだったのだが、隠していたのなら迷惑な一言だった。
「あ、いえ……お店をやってる方は大抵それを大きくしたいと思っているものかと……」
「それは人それぞれですけど……」
「なんだ、そういうことなら言ってくれればよかったのに」
と、許慈が二人の会話に割って入った。
しかし悪いことをしたと思っている許靖は慌てて手を横に振る。
「いや、私の思い違いですから」
そう否定したが、許靖の異常な人物眼を知っている許慈はすでに確信していた。
「いえいえ、許靖殿の受けた印象がそうなら間違いないでしょう。もしかしたら麗月さん自身も意識していない深層心理かもしれません」
そう思える程度には、月旦評の許靖を信奉している。
だからそれはもう許慈の中で確定事項で、賢い許慈は上手く利用しようとした。
「麗月さん、よかったら今度二人でお店のことを話しませんか?きっと力になれますよ」
そんな許慈に対抗心を燃やした胡潜は、遮るように声を大きくした。
「こんな男なぞ頼りになりませんよ!麗月さん、私のほうがきっとあなたの助けになる!今夜早速、閉店後にでも相談を……」
「貴様っ、今夜などと不埒なことを!こんな男に近づいてはいけません!」
「な、何だと!?不埒はどちらだ!?」
「貴様だ!」
「貴様だろうが!」
(ああ、もう……)
許靖はまた始まった罵り合いに頭を抱えた。
二人の瞳の奥の「天地」でも雄蜘蛛たちが雌を巡って火花を散らしている。激しく前肢を振り上げ、互いを威嚇し合っているようだ。
しかしそこにまた麗月の、
「めっ、めっ」
が入ると、二人はたちまち眉根を下げて落ち着いてしまった。
これほどよく効く鎮静剤も無いだろう。
(……とはいえ、どうせすぐにまた再開するのだ)
それが分かる許靖はもう何度目か分からないため息をついた。
(これはもう……本当に麗月さんに役所に来てもらうしかないのかもしれないな。せめて今の仕事が終わるまで)
儀礼の取りまとめが終われば、二人は必ずしも一緒に働く必要はないだろう。部署を移してもらえばいい。
それに麗月は人を相手に働くのに相当な能力があるようだ。役所で応接などしてもらえれば、二人以外のことでも有用だろう。
(麗月さんの望みと少しずれるかもしれないが……昼間の短期だけでもお願いできないだろうか)
許靖は本気で頭を下げて頼もうかと思ったが、その前に麗月の瞳の奥の「天地」をあらためて見つめた。
本当に役所で働いてもらうならその人となりをしっかりと検討しなければならない。
(ざっと見たところ特に問題は無さそうだが……と言っても、蜘蛛のことをさほど知っているわけでもないから細かいことまでは分からないな)
もし蜘蛛に詳しい人間であれば『この蜘蛛はこういう性質がある』と言い当てられるだろう。
しかし許靖に分かるのは巣が大きいことと巣を広げる熱心さ、そして妙な艶っぽさくらいだ。
もしかしたら麗月の気遣いの篤さなどもどこかに現れているのかもしれないが、蜘蛛博士でもない許靖にはこの程度が限界だった。
(まぁ、大丈夫だろう)
そう思い、宮仕えの依頼を口にしたかけた許靖だったが、そこでふと「天地」の中に気になるものを見つけた。
巣の下に、何かバラバラと落ちているものがあるのだ。
(……ん?なんだあれは?……蜘蛛の……足?)
***************
「……という余興を次の宴会で予定しているのだが。許靖殿はどう思う?」
そう劉備に尋ねられた許靖は苦笑を返した。
劉備の執務室に呼び出されて何を諮問されるかと思いきや、宴会の余興に関してだった。
ただし、ただ楽しいだけの余興ではない。確かに諮問されるべき内容で、許靖に関係していることだった。
「ええ。結構かと思いますし、愉快な余興だと思います」
劉備はその返答に吹き出した。
優しい許靖からまさかそんな返事を聞けるとは思わなかったからだ。
「ハッハッハ!よほど迷惑したと見える!」
「迷惑はしましたが、それより劉備様の手を煩わして申し訳ありません」
「それはまぁ仕方ない。なんでも女まで絡んでいるというではないか」
「ええ、おっしゃる通りです」
「そうなると男同士は難しいからな。では今言ったようにやっていいな」
「いえ、余興に一点付け加えていただけますでしょうか?」
許靖は懐から竹簡を一巻取り出し、劉備の前に置いた。
それは元々劉備に提出するはずだった報告書で、ちょうど良く呼び出されたのでついでに出させてもらった。
しかも余興に大いに関係ある内容だ。
「……?これは?」
劉備はいぶかしげな顔をしながら竹簡を開き、読んだ。
読み進めるうちに、その眉はどんどんしかめられていく。
そして最後まで読んでから、大きく深い息を吐いた。
「……分かった。この件は許靖殿に一任する。兵も好きに使え」
「ありがとうございます」
「それで、付け加える余興の内容についてだが」
「具体的なことに関しては劉備様にお任せしますよ。どう考えても私よりお得意でしょう?」
***************
宴もたけなわの宴会の中、許慈と胡潜は顔を真っ赤にしていた。
二人とも酒が入っている。
ただし、実際にはさして飲んではいない。
それでもこの顔の赤さは酒のせいなのだと、無意味に自分たちに言い聞かせていた。
「貴様!この儀礼の草案は先例と異なるではないか!脳みそはちゃんと詰まっているのか!?」
「何を貴様こそ!先例通りの草案しかあげられない能無しのくせに!少しは己の脳みそを働かしたらどうだ!?」
普段から許慈と胡潜が言い合っていそうな台詞だが、今それを叫んでいるのは本人たちではない。
宴会に呼ばれた芸人だ。
芸人二人が許慈と胡潜の服装を真似た上で、その罵り合いを演じてみせている。
劉備なりの説教だった。二人の不仲は聞いていたが、どうにも改善しないようなので自ら手を下したのだ。
「この無学者め!」
「この石頭め!」
こんな二人を普段から見ている役所の人間たちは失笑を禁じえない。
直接関係のない部署の人間も噂くらいは聞いたことがあったから、こんなふうなのかと半ば呆れて笑っていた。
さすがは劉備が企画しただけあって、面白い余興にはなっている。芸人の滑稽な仕草も手伝って、確実にウケていた。
しかし当の許慈と胡潜にとってはたまらない。身を小さく縮め、消え入りそうな様子で身じろぎしている。
芸人たちは大声で罵り合いながら、ついには剣を取り出した。
劇で使う刃の無い剣だが、それを頭上に高々と上げてから互いに振り下ろす。
ゆっくりと袈裟懸けに斬り合い、胸を押さえてバタリと倒れた。
しかし二人はそれで死んだという設定ではないらしい。這いつくばりながら、舞台の端へと進んでいく。
そしてその先の舞台袖から女が一人出てきた。
化粧のひどく濃い女で、おそらく色香の強い女を演じているのだろうと思われた。
「れ、麗月さん!助けてください!この男にとどめを!」
「いいえ麗月さん!私とあなたの仲です!この男にこそとどめを!」
許慈と胡潜は驚いた。突然麗月の名が出てきて、しかも自分たちのどちらかのとどめを刺せという展開になっている。
麗月に扮した女芸人はクネクネと体を捻りながら、懐より短刀を取り出した。
そして高い笑い声を上げ、高飛車な声を上げる。
「あなた達からはもう全財産をもらったから用済みよ!二人とも死になさい!」
そう言って短刀を逆手に持ち、二人に振り下ろそうとした。
二人は慌てて床を転がりそれを避ける。女芸人はその様子を可笑しがりながら追い殺そうとした。
本物の許慈と胡潜は思わぬ展開に唖然としている。そこへ背後から突然声をかけられた。
「許慈殿、胡潜殿」
二人がビクリと体を震わせて振り向くと、すぐ後ろに許靖がいた。
芸人たちに気を取られ、まったく気づかなかった。
「きょ、許靖殿……」
「こ、これはその……」
二人が特に焦ったのは、ほぼ全財産を麗月に貢いでしまったことが知られたようだと思ったからだ。
店を援助するにしても、そこまでやったのは人に言えるようなことではないと分かっている。
しかし許靖にとっては全財産などどうでもいいことだった。命との秤に乗せられるものではない。
「ご存知ですか?ある種の蜘蛛は、交配後に雌が雄を食べてしまうそうです」
唐突にそんな話をされ、許慈も胡潜もはっきりと困惑した顔を見せた。
しかしその意図にすぐ気づき、むしろ笑ってしまった。
「まさか許靖殿は麗月さんがその雌蜘蛛だとおっしゃられるわけですか?」
「そして我らがじきに食べられる、とでも?」
それは二人にとって一笑に付されるべき話だったのだが、許靖にとってはそうではない。
許靖は麗月の瞳の奥の「天地」に雄蜘蛛の遺骸を見たのだ。しかも一体ではなく、複数だった。
初めは意味が分からなかったが、気になったので分かりそうな人間に尋ねてみた。
『あー、多分それ雌に食べられた雄の死体じゃないかな』
『……何だって?蜘蛛は雌が雄を食べることがあるのか?』
『そうだよ。子作りした後に食べちゃうの。蜘蛛だけじゃなくて
許靖は一人の雄としてゾッとした。
事後に男を食べようとする女を想像し、身震いしてしまう。
『そ、それはもう妖怪みたいなものだな……』
『妖怪かぁ。でも実際には子作り前に食べられちゃうことも多いから、妖怪よりも虎とか肉食獣の方が近いかな。動くものが肉に見えるんだよ』
妖怪が虎になったところで恐ろしいのは変わらない。
ただ麗月を前に陶酔する許慈と胡潜を思い浮かべると、本人たちはそうでもないかも知れないと思った。
『しかし……好きな雌の栄養になれるなら、雄も本望なのかな?』
甜は許靖の詩的な発想に笑った。
『あはは、許靖おじさんって意外に夢見がち?』
『ん?いや、そんなことはないと思うが……』
『本物の蜘蛛の雄は子作り後だって食べられたくなんかないよ。終わったら一目散に逃げるのを何回も見たもん』
考えてもみれば当たり前の話で、許慈と胡潜も想い叶ったからといって食べられたくなどないだろう。
許靖は甜からこの話を聞いた後、すぐに人をやって調査させた。
そしてその結果は、あまりに案の定なものだった。
「私が調べさせたところ、麗月さんはこれまで別々の街で三度結婚し、三度とも夫と死別しています。しかもそのどれもが不審死です」
その事実には、麗月にベタ惚れな二人もさすがに表情を固化させた。
驚きのあまり小さな音だけの反応を揃って返す。
「「……え?」」
「どの街でも前夫の不審死の件は知られていませんでしたから、しっかりとした捜査は行われなかったそうです。『死んだ夫はまだ若いが、何かの病気による突然死だろう』ということでまとめられていました」
麗月が移り住んだのは益州内でもかなり離れた街だったので、誰にも知られずに過ごせたらしい。
しかし人がそこで暮らしていた痕跡を消すことは難しい。それに麗月はどの街でも店をやっていたから、調べればすぐに分かった。
「ですがこの三件が重なって放置はありえません。兵をやって麗月さんの店を家探ししてもらったところ……」
許靖は二人の前に袋を置いた。
「こんなものが見つかりました。
その単語に二人の表情はいっそう固くなった。
鴆毒とは紀元前から用いられてきた毒物で、おそらくヒ素など鉱物系の毒物であったのだろうと推察されている。
そういった化合物はものによっては無味無臭で、毒殺するにはもってこいだった。
「これを証拠に麗月さんを逮捕しました。そして本人も毒物が見つかっては言い逃れできないと悟ったらしく、過去の事件も含めて自白しましたよ」
そうなると、もはや許慈も胡潜も認めざるを得ない。
そして認めてしまうと、あと少しで毒殺されそうだった己の身に震えざるを得なかった。
二人は先ほどまでとはまた違った目で舞台の上を見た。
そこではまだ女芸人が二人の男を追っている。
追われる男たちは死にかけていたはずなのに、急に飛び跳ねて逃げ始めたので観客たちが笑い声を上げた。
本職の芸人らしくきっちりと仕事を果たし、面白おかしい舞台にしてくれている。
しかし許慈と胡潜は笑う気になど全くならなかった。血の気の引いた顔で女芸人を凝視している。
その劇は最終的に三人が揉みくちゃになりながら舞台袖に去って終わった。
そして代わりに劉備が舞台へと上がってくる。一同を見回し、明るく笑いながら口を開いた。
「皆今のを小馬鹿にして笑っていたが、明日は我が身だと思うんだぞ。
そして六韜は中国に古くから伝わる書物で、かの太公望が王たちに講義するという形で書かれた兵法書だ。
その内容は多岐にわたるが、戦わずに相手を倒す方法として現代でいうところの『ハニートラップ』まで挙げられている。
「まぁ全財産くらいなら本人のことだからわざわざ罰しないが、もし国家の機密でも漏らされれば……」
と言いながら、劉備は芸人たちが使っていた刃の無い剣を取り上げた。
それをゆっくり頭上に上げ、いきなり手近な卓に叩きつけた。
バンッ
と大きな音がして、卓は粉々に砕け散った。破片が近くの人間に飛んで顔をそらさせる。
「こんな風に、厳しく対応せざるを得ないからな」
誰もが笑みを消し、口元を引き締めた。
中でも許慈と胡潜は彫像にでもなってしまったかのように固まっている。
「……さて、余興はこれで終わりだ。最後に少し白けさせてしまったが、また楽しく飲み食いしてくれ」
劉備はパンパンと手を叩いてから舞台から下がっていった。
(さすが劉備様だ)
許靖はそのやり口に感心していた。これで女絡みのことには皆気を引き締めるだろう。
「……で、許慈殿に胡潜殿。麗月さんの所有している資産に関してですが」
許靖は二人の方へあらためて向き直った。
もはや色々な感情が振り切ってしまった二人へ、ゆっくりと話す。
「基本的には殺された夫たちの遺族に慰謝料として渡される予定ですが、かなり溜め込んでいます。それで余剰分は国庫に没収されることになりました。ただし、もし権利を主張される方がいるなら……」
「いいえ、結構です」
と、許慈がまず首を横に振った。
そして胡潜も手を横に振る。
「残りはすべて国庫に入れるのがよろしいでしょう」
(払うべき勉強代だ)
口に出さずとも、そう思っていることは明白だった。
二人とも雌蜘蛛に惑わされて心が曇っていたが、どうやらようやく晴れたらしい。
羞恥心に眉を歪めながらも、どこかすっきりした目をしていた。
「では、そのように」
許靖はもはや何も説諭する必要はないと思い、短く答えてその場を立った。
ただ遠目に二人を見ていて、おやと思ったことがある。
給仕の女官が酒を注ごうと近づいてくると、どこか怯えたような表情になるのだ。
(二人とも、女というものが怖くなったかな?少し灸が効きすぎたかもしれない)
かわいそうな気はしたが、これもまぁ自業自得だろうとも思った。
それからの二人は揉めることもなくなり、しっかりと使命を果たしてくれた。
誰もが満足のいく儀礼を定め、失われかけた文化を見事復活させた。
その後の胡潜はあまり長く生きられなかったようだが、許慈の方は劉備の次代である劉禅の時に
この大長秋は皇后府の長で、後宮に力があるから後漢王朝では去勢した宦官のみが就くことになっていた。万が一にも後宮の美姫と間違いがあってはいけない。
ただし、後漢の後も宦官のみが任命されたかは不明であるという。もし宦官でないなら、どんな人物が適任だろうか?
高齢であることはもちろんだが、それに加えて女で痛い目を見たことのある者が良いと思う。
仮に女の姿が人喰い蜘蛛に見えてしまう男がいたとしたら、まず間違いは起こさないだろう。
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