選ばれた子、選ばれなかった子20
静かな声と冷たさとでまぶたを開けると、一人の青年の顔が視界を埋めた。
それを見た桃花は、多分自分は寝ぼけているのだろうと思った。
というのも、青年の顔が自分の一番最初の記憶、自分の代わりに死んだ従兄の顔に思えたからだ。
もちろん幼児と青年で顔の造作も随分と成長しているし、なぜか髪も一筋白い。しかし特徴があまりにそのままで、桃花には従兄にしか見えなかった。
特に伯父である夏侯淵によく似た目元は血縁だとしか思えない。
「……夢?」
小さく言った桃花の首に冷たいものが押し付けられる。
「大きな声は出すなよ。お前の首に当てられているのは刃物だ」
そう言われ、首の感触は間違いなく現実なので夢ではないと理解した。
どうやら自分は危機的な状況にあるらしい。
「……あなたは?」
それは桃花が青年に発した問いだったのだが、むしろ青年の方が桃花の顔を覗き込んだ。
青年は片手に小さな灯火を持っており、それを桃花の顔前に持ってきた。
目をじっと見つめてから、軽く笑う。
「なんだか、赤ん坊の時とあんまり変わらない顔をしてるな」
そう言われ、桃花はまさか本当に死んだはずの従兄なのだろうかと考えた。
そして、そのつもりで言葉を返してみる。
「あなただって、五歳の時とあんまり変わらないじゃない」
その青年、徐林はピクリと眉を上げた。
それからいぶかしげに尋ねてくる。
「お前、俺が誰か分かってるのか?」
「綝?私の従兄の」
「……おい、嘘だろ。赤ん坊の時に見た俺の顔を覚えてるのか」
「人に言うとよくビックリされるんだけどね。覚えてる」
「仮にそれが本当だとしても、二十年以上も齢を取ったら人の顔は変わる」
「あなたが先に赤ん坊の時とあまり変わらないって言ったのよ」
「お前の目がまん丸で赤ん坊みたいだからだ」
「あなたの目こそ、伯父様そっくり」
徐林はその目をすっと細くした。
それから少し声を低くして聞いてくる。
「伯父様ってのは夏侯淵のことか」
「え?ええ……だってあなたはその息子でしょ?」
「あいつの息子じゃないが、血を引いてるんだから仕方ないよな」
「……?よく分からないけど、生きてたんだね。私、ずっとあなたに伝えたいことがあったの」
「なんだ」
「ありがとう、って」
突然の礼に、徐林は眉をひそめた。
「何に対してだ。お前に礼を言われる筋合いはないと思うが」
「あなたが代わりに馬にはねられてくれたから私は助かったの」
「それはあの男がやったことの結果なだけで俺の意志じゃ……いや、それよりお前状況が分かってるのか?夜中に忍び入られて、首に刃物を当てられてるんだぞ?」
桃花は言われて、自分はやはり寝ぼけていたのかもしれないと思った。
従兄の生存や再会があまりにも衝撃だったのは確かだが、今は命を質に脅されている状況なのだ。
とはいえ、何をどう脅されているのかがよく分からない。
「あー……私はどうしたらいいの?」
「どうもしなくていい。今から殺されるだけだからな」
「殺……っ!?」
「声を小さくしろ」
徐林は刃をさらに肉へ食い込ませた。あとは横に軽く引くだけで頸動脈が切れる。
「俺は黄巾党の暗殺者として生きてきた。人を殺すのにためらいもないぞ」
「暗殺者……って、人をこっそり殺す人?」
「そうだ」
「じゃあ、なんですぐに殺さないで話をしてるの?」
桃花がそこまで落ち着いて尋ねられたのは、妙な話だが徐林からあまり危険を感じなかったからだ。
殺されると言われて驚きはしたものの、その徐林から全く殺意を感じない。
それは対象が知らぬ間に殺すのを最良とする暗殺者特有の雰囲気のせいなのだが、そうとは思わない桃花は妙に警戒心の湧かない相手だと思った。
ただ、桃花の質問に徐林は戸惑ってしまった。なぜなら自分でもすぐに殺さなかった理由が分からなかったからだ。
「……少し……話をしてみたくなってな。殺す前に」
徐林は考えて、そういうことだろうと自分を理解した。
(これまでこういう事はなかった。初めて自分の意志で殺そうと思った相手だからかもしれない)
さらに深く考えて、そう思った。これまでは父が暗殺の対象を決めていたし、戦では敵だから殺していた。
しかし今は自分で決めて、自分がそうしたいから殺そうとしている。
任務でもなく敵でもない相手の暗殺は初めての経験で、自分の意志だから感情のまま殺す前に起こしてしまった。
「まぁ……少し話したら殺すから大丈夫だ」
何がどう大丈夫なのかよく分からないが、桃花は相変わらず従兄を危険だと感じない。
ごく普段通りの声音で尋ねた。
「話すって、何を?」
「いや……そこはあんまり考えてなかった」
「何それ。じゃあ私の方から聞いてもいい?」
「なんだ?」
「私はどうして殺されるの?」
「ああ」
と、徐林はその質問に納得した。
突然生き別れの従兄から殺されると言われても、この娘にとっては寝耳に水の話だ。事情を説明してやろうと思った。
「それはな、夏侯淵を苦しめるためだ」
「伯父様を?」
「そうだ。あの男は俺の父さんを殺した。だからあの男にも大切なものを失う苦しみを与えてやりたい」
「…………」
桃花は話をすぐに飲み込めず、理解するまでに少し時間がかかった。
「……えっと……父さんって……あなたの父親は伯父様だけど、そうじゃなくて育ててくれた別のお父様がいて、それを伯父様が殺したってことでいいのかな?」
「そういうことだ」
「そっか……うーん……殺されたお父様は可哀想だけど……でも、それでなんで私を殺すの?」
「言っただろう。あの男の大切なものを奪うためだ。お前に恨みはないがな」
桃花はもしかしたら自分だけ伯父に助けられたことを根に持たれているのかと思ったが、そうではないらしい。
しかしそうなると、話がおかしい気がする。
「えーっと……」
「まぁ、そういうわけだ。死んでくれ」
「いや、待って」
「下手に暴れるとかえって痛い思いをすることになる。諦めて自ら命を差し出すのが楽に死ぬコツだ」
「いやいやいや、そんなコツ要らないって。っていうか、子供を残して死ねないし」
徐林は子供と言われて、動かしかけた腕の筋肉を止めた。
急いで調べた情報には桃花と張飛の間に子がいるというものはなかったのだ。
「子供がいるのか」
「いるよ、まだ赤ん坊だけど。さっき自ら命を差し出せとか言ってたけど、そんな子供を捨てるようなこと出来るわけないじゃない」
「捨てる?」
「そうでしょ?育てなきゃいけない子がいるのに自分から死のうとするなんて、捨てるのと大差ないよ」
その言葉に聞き、徐林は押し付けていた刃を桃花から離してしまった。
そして首を横に振りながら、独り言のようにつぶやく。
「それは……駄目だ。親が子供を捨てちゃいけない。それは良くないことだ」
そう言う徐林の目はどこか桃花とは違うところを見ているようだった。
突然様子が変わった徐林に桃花は驚いたものの、刃が離れたのはありがたい。首を撫でながら上半身を起こした。
「私だって捨てたくないよ。でも、死んだらこの世に置いていくことになるじゃない」
(俺は……子の親を奪うところだったのか)
つい先日、父を奪われた自分は苦しかった。
だからその苦しみを夏侯淵に味わわせてやりたいと思ったわけだが、見知らぬ子に味わわせたいなどとは欠片も思わない。
「でも……俺はどうしてもあの男を苦しめたいんだ。あいつの大切なものを奪って、苦しめたい」
徐林は苦しげにそう言ったが、桃花にはそもそもそこが分からない。
「そもそもなんだけど、それでなんで私を殺そうって話になるの?伯父様には可愛がっていただいたと思うけど、私は伯父様の実子ですらないんだよ?」
「実子の俺を差し置いて選ばれてたじゃないか」
「それについて伯父様に聞いたことはないけど、私の記憶どおりなら私と伯父様が助かったのだって奇跡だったよ。たまたま馬があなたをはねて、それで転倒して。そんな切羽詰まった状況であなたを残したからって、別に選んだってわけじゃ……」
「違う!あの男は俺を捨てて、お前を選んだんだ!」
「……じゃあそれでもいいけど……伯父様を苦しめるために私を殺すのも……ねぇ?」
そういう言い方をされると、徐林としても方法を間違った気がしてくる。
「なら……どうしたらいい?」
「私に聞かれても」
「あいつがどうしたら苦しむか、育てられたなら分かるだろう」
桃花は考えてみた。
伯父が苦しそうにしていた時とは、どのような時だっただろう。
「うーん……伯父様は、伯母様にあなたのことを責められてる時が一番苦しそうだったけど」
「……?どういうことだ?」
「伯母様は伯父様があなたを置き去りにしたことをずっと怒ってたの。だからよく嫌味を言われてて、伯父様はそれが辛かったみたい」
「つまり、どうしたらいいんだ」
「多分だけど……今の伯父様が一番苦しむことは、あなたが不幸になることなんじゃないかな?ずっと気に病んでたから、生きてると分かったらあなたの幸せを何よりも望むと思う。そういう伯父様だったから」
そう言われても、徐林にはああそうかと納得などできない。
自分を不幸のどん底に叩き落としたのはあの男なのだ。
「あいつは俺の父さんを殺したんだぞ?一番大切な人を。それで俺の幸せなんて、望む権利があると思うか!」
徐林は実父の幻影を睨みつけるように桃花を睨んだ。
その視線には今まで感じなかった憎しみが溢れていたため、桃花は初めて怖いと感じた。
ただ、それは自分に対する憎しみではないのだ。
そう自分に言い聞かせ、駄々をこねる子供のような従兄を真っ直ぐ見返した。
「伯父様は軍人だけど、好きで人を殺すような人じゃないよ。あなたのお父様はどういった事情で殺されたの?」
「父さんは青州黄巾党の首領で、武装蜂起して、夏侯淵が鎮圧に来て」
「じゃあ伯父様は仕事でそうしただけでしょ」
「仕事だからって」
「暗殺者も仕事で人を殺すんじゃないの?」
「…………」
徐林は言葉に詰まった。
あまりに幼い頃から暗殺者をやってきたので、逆に深く考えることがなかったのだ。
(確かに桃花の指摘は筋が通っている)
徐林にはそれを理解できる頭はあるのだが、心はそうしようとしない。そうできないのだ。
父を殺したあの男を、そんな理屈で許すことなどできない。
「俺はそれでも、自分勝手でも、あの男を……」
徐林が呻くような声を出した時、廊下から足音が聞こえてきた。
大柄な男の体重でギシギシと床板が踏み鳴らされる。
そしてその足音の主は部屋に入る前から桃花に話しかけてきた。
「おい、桃花。起きてるか?なんか夏侯淵から急ぎの手紙が届いたんだけどよ、死んだはずのお前の従兄が殺しに……」
と、言いながら張飛が部屋の扉を開けた。
その時には徐林は桃花の後ろに回り、首筋に再び刃物を押し当てている。
それを見た張飛の存在感は一気に膨れ上がった。
徐林は突風のような威圧を受け、無意識に体の芯を震わせてしまう。
(これが張飛……まともに当たったら絶対に勝てない!!)
対峙しただけでそれが分かった。
暗殺ならともかく、正面から戦っても勝てるはずのない相手だと容易に理解できる。
その張飛は徐林を睨み、静かな声を発した。
「間男ってわけじゃねぇよな。まさか、この手紙にあった従兄の夏侯綝ってのはお前か」
いったんは震えてしまった徐林だが、その質問には怒りを持って答えた。
「俺は桃花の従兄だが、夏侯綝なんて名前じゃない。徐和の息子、徐林だ」
「そうか。まだ流し読みしかしてねぇが、手紙にもそんな事情が書いてあったな」
張飛は喋りつつ、半歩左にずれた。そちらの方に花を活けた花瓶がある。
意図を察した徐林は鋭く警告した。
「動くな。指一本でも動かせば、お前の妻を殺す」
その言葉は当然張飛には効果抜群で、ピタリと動きを止めた。
そして二人は互いを測るように無言で視線を交わし合う。
どちらも下手に動けば一瞬で最悪の事態になるのだ。
徐林はすぐにでも桃花を殺せるが、下手にやれば直後に張飛に殺されるだろう。二人とも簡単に動けない。
部屋中に緊張の糸が張り巡らされたような状態だった。
が、人質にされてる当の桃花だけは気の抜けたような声を上げた。
「うわぁ。張飛さん、顔こわっ」
完全な軽口だが、さすがの張飛も今は妻の冗談に付き合っていられない。
「いや、こんな状況ならこんな顔もするだろ」
「でも妻は笑顔の旦那様が好きだなぁ」
「お前な……」
「大丈夫だよ。綝は私のこと殺さないから」
男二人は思わず目をパチクリとさせた。
その気楽げな言い方もあいまって、桃花が本気でそう考えているのだとよく分かった。
しかし、それだと人質の意味がなくなってしまう徐林は即座に否定した。
「何を言ってるんだお前は。俺はお前を殺すためにわざわざ忍び込んできたんだぞ?当然殺す気でいる」
「でも殺さないでしょ」
「そんなことはない」
「じゃあこうしたら?」
桃花は無造作に体を前に傾けた。頸動脈に刃が押し付けられているのに、あえてそうしたのだ。
徐林の手がそのまま動かなければ刃は頸動脈を切り、桃花は死んでいただろう。
しかし徐林は慌てて桃花の動きに合わせて刃を前に動かした。
「ほら」
「お、お前っ……いや、これは張飛との駆け引きで……」
「別に無理しなくていいよ。でも張飛さん、綝を逃がしてあげてくれない?多分、もう私を殺そうとしたりはしないと思うから」
張飛には全く事情が掴めなかったが、どうやら従兄妹同士でなにかあったらしい。
桃花の態度に飲まれてしまったような徐林を見ると、逃しても大丈夫な気がした。
「よく分からんが……桃花を無事に離すなら逃がしてやってもいい」
もちろん下手に刺激して桃花を傷つけられる方が厄介だという打算も働いている。
いま圧倒的に不利なのはこちらだという客観的事実はあるのだから、飲んでもいい条件だ。
徐林は徐林で、張飛という一騎当千の豪傑が出て来た時点でまず生きて帰る選択をした方が賢いと判斷できている。
それに、暗殺は急ぐことでもないのだ。張飛が四六時中つけるわけでもないし、女一人殺そうと思えばいつでも殺せる。
「……いいだろう。窓まで移動したら桃花を離す」
「窓から出る時に殺さないだろうな?」
「そっちこそ、窓から出た俺を狙うんじゃないぞ。俺の武器は飛び道具だからな」
徐林はそれだけ警告して、ジリジリと桃花を引きながら窓際へと移動した。
そして徐林の背中が窓枠に付いた時、桃花は徐林へ礼を伝えた。
「ありがとう」
「……それならさっき聞いた。俺の意志じゃないと言っただろ」
「小さい頃のことじゃなくて、今私を殺さなかったこと。うちの子のためにそうしてくれたのは、あなたの意志でしょ?」
そう言われて、徐林は少しだけ沈黙してから鼻を鳴らした。
「……ふん、勘違いするなよ。今日は帰るってだけだ。俺はお前を殺してあの男を苦しめるって決めてるんだからな。父さんの首にもそう誓ったんだ」
「お父様はそれを望みそうな方なの?」
(この女は……いちいち真理を突いてくるから嫌いだ!!)
徐林は二十年以上ぶりに会った従妹に対し、そんな印象を固めてから背中を押した。
同時に窓から外へと身を投げる。
張飛からの投擲を警戒し、物陰を選んで動きながら屋敷を出た。
(桃花……)
夜道を駆けながら、赤子のような大きな目を思い起こす。
そういえばあの日の桃花もあの目で自分の腕を掴んで立っていた。
ただあの時は可愛かったように思える従妹は、今はどうにも憎たらしい。
(嫌いだけど……殺すと子供を置き去りにさせてしまうのか……でも……殺すって決めたし……)
この暗殺が父の命じた仕事だったなら、徐林はためらわずに殺しただろう。
しかし今回は自らの自由意志に基づくものなのだ。
自由は人を迷わせる。
徐林の心はその迷宮を
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