短編 凛風と翠蘭の益州合流1

 時は遡り、許靖が益州に移って二年が経った頃。


***************


烏林うりんから確報が届いた。曹操ソウソウ軍の負けで間違いないらしい」


 趙奉チョウホウは主君である士燮シショウの執務室に呼び出され、そう告げられた。


 部屋には南海貿易で利を上げている士燮らしく、異国情緒あふれる調度品が並んでいる。


 その中に妙な顔つきの木彫りがあったのだが、趙奉はその顔と自分の顔が似ているかもしれないと思った。


 士燮の話を聞き、思いっきり眉をしかめてしまったからだ。


「それは参りましたね」


 そう、士燮の治める交州は曹操に勝って欲しかったのだ。


 趙奉が言ったように、士燮も正直なところ参りきってる。


「そうだな。まさかあの戦力差をひっくり返すとは」


孫権ソンケン軍の周瑜シュウユが相当やったということでしょうか?」


「それだけではなく、劉備リュウビ軍の働きも大きかったという話だ。あそこには関羽カンウ張飛チョウヒという戦歴の猛者もいるしな」


 烏林にて曹操を破ったのは、孫権と劉備の同盟軍だ。


 何倍もの戦力で攻めてきた曹操を見事に打ち負かしている。


「策と火計で曹操の大船団を焼き払ったそうだ。河の岸壁が赤く染まるほどに燃えたらしく、世間の口は『赤壁』という二字で埋まっているという話だ」


「赤壁……地名が変わってしまうかもしれませんね」


「ははは、そうだな」


 士燮は趙奉の冗談を笑ってから、真面目な顔に戻った。


「しかし我らとしては困る。これまでずっと曹操にゴマをすり続けてきたわけだからな」


 士燮の言う通り、交州は曹操の庇護を受けるため、その擁する帝へ貢納を続けてきたのだ。


 曹操が勝てば中華はほぼ統一され、士燮もその友好勢力として無事に存続できたのではないかと思う。


 しかし曹操が負けて北へ帰ってしまうと、孫権が距離的に最も近い勢力になってしまう。


「孫権は攻めてくるでしょうか?」


「今は大戦を終えた後だし、しばらくは曹操がいなくなった後の支配地奪取が優先だろう。交州へ来るのはまだ少し先なはずだ」


 士燮はそう答えたが、要は質問への回答は肯定ということだ。


 孫権はそのうち攻めてくる。


「大きくなった孫権に、交州だけでは抗えません」


 趙奉は一人の武官としてそう言った。


 戦うべき身として情けなくも聞こえる発言だが、職業軍人としては客観的な判断をきちんと伝える必要がある。


 士燮もそのことは了解していた。


「私もそう思う。だからとりあえずは周囲の勢力とよしみを通じるべきだと考えている」


「曹操以外で大きな勢力となると……」


「益州の劉璋リュウショウだな」


 交州と益州は連絡路が狭いとはいえ、隣接している。


 そして益州はこの乱世の中で、半ば独立国のように覇権争いから離れて戦力を維持している。


 力のある土地なのだ。


「まぁ益州はこちらの争いに関わることに消極的だからな。大きな期待はできんかもしれんが、それでも繋がりを持てるなら持つべきだろう。今後孫権との関係がどうなるとしても、こちらの力が強ければ強いほど有利な交渉ができる」


 益州と聞き、趙奉の頭には一人の温和な顔が浮かんだ。


 許靖だ。


 二年ほど前に益州の巴郡太守に就くため、交州を出た。


「でしたら、まずは許靖殿を窓口にされたらいいかもしれません」


 士燮は許靖を登用こそしなかったが、礼を尽くして遇していた。


 窓口としては適任だし、士燮もそれは考えている。


「私もそうするつもりだ。しかし今の許靖殿はあくまで劉璋配下の太守であり、私の味方ではない」


「それはそうですが……」


「もちろん許靖殿なら私に悪くはせんだろう。しかし可能なら、その周囲に私の手駒を置きたいのだ」


 趙奉はここまで聞き、自分が今日ここに呼ばれた理由が推察できた。


「つまり、私に許靖殿の麾下になれと?」


 恐らくはそういう事だろうと思った。


 そして士燮は大きくうなずいてそれを肯定した。


「そうだ。お前と許靖殿は個人的にも仲が良かったからな。どこまで効果があるか分からんが、お前がそばにいて交州のためになる発言をしてくれるだけで流れが変わることもあるかもしれん」


「それはまぁ……そうかもしれませんが……」


 打つ手としては不確実なものだろうが、こういう人の心情に関わることはどうしても不確実にはなる。


 ただ、趙奉として気になるのはそれだけではなかった。


「しかし……その……自分に間者ができるとも思えませんが……」


 その心配を聞いて、士燮は笑った。


「ははは、私もお前にそういう事ができるとは思ってない。普通に許靖殿の治める巴郡の将となり、許靖殿のために戦え。そうしながら交州のことを考えた言動をしてくれればいい」


「それなら出来ると思います」


 趙奉は士燮に対する忠誠心の高い将だ。


 益州へ行ったとしても、どうせ交州のことを考えてしまうだろう。


「もちろん向こうで交州のために出来ることがあればやって欲しいが、無理はしなくていい。それでも私はせっかくある許靖殿という綱を、少しでも太くしておきたいのだ」


 もちろんそう言う士燮には、政治家らしい打算もある。


 どうせ戦っても勝てない孫権を相手にするのなら、趙奉を戦力として持っているよりも外交力として使った方が得なのだ。


 ただし感情としてはそれだけではない証拠に、士燮は少し目を細くして趙奉の顔を眺めた。


「……お前とは長い付き合いだからな、無理にとは言わん。正直に言うと私も寂しいし、どうするかはお前が決めていいぞ」


 趙奉としては、そう言ってもらっただけで十分だった。


 そもそも自分はこういう政治家としても優秀な士燮を尊敬しているのだ。ただ近くにいたいなどという安い忠誠心ではない。


 だからその一手に自分がなれるなら、なりたいと思った。


「了解いたしました。巴郡へ赴き、許靖殿のそばで働きます」


「そうか、行ってくれるか」


「ただし……」


 と趙奉は一点要求することにした。


袁徽エンキ殿も一緒に行かせてください」


「……袁徽殿?」


 士燮はいったん不思議そうな顔をしてから、あぁ、と納得してうなずいた。


 趙奉は一応だが、その理由を付け加える。


「そうでなければ、娘が動きませんから」



***************



「益州に引っ越すのはいいけど、翠蘭スイランも一緒なんだよね?」


 趙奉は娘の凛風リンプウから開口一番そう言われ、


(それ見ろ、やっぱりだ)


と思い、小さく苦笑した。


 二人は自宅で卓を挟んで向かい合い、話をしている。


 卓には干した果物が置いてあり、趙奉はそれを摘み上げながら答えた。


「ああ、袁徽殿も一緒に行くことになっている。お前たちの旦那が承諾すればだが、翠蘭の一家も移るだろう」


 そういう話になっていた。


 袁徽は脳梗塞で倒れてから講義を控え、主に書きものをしながら過ごしている。


 交州でなくとも活動はできるので、士燮シショウから益州入りを提案されてそれを受けた。


『私もここで学問を続けてきて、多少の造詣ぞうけいを深めたつもりでおります。益州の学問の徒と談議できるのは、残された余生の喜びとなるでしょう』


 士燮にそう答え、学者らしい理知的な笑みを見せた。


 交州は儒学の学問という点では後進地域だ。


 もともとは異民族の土地であり、士燮が教化に勤しまねばならないほどの状況だから、袁徽と議論できるものなどそういない。


 そこをいくと益州も中央から遠いとはいえ、交州よりもずっと学問が盛んだった。


 ただ、趙奉も袁徽も一人娘が可愛いので出来れば連れて行きたい。それで益州への転居を提案しているのだ。


「袁徽殿も今頃はお前の家で翠蘭に話をしている頃だ」


 ここは趙奉の自宅で、凛風はすでに家を出ているので実家ということになる。

 

 そして今の凛風と翠蘭、そしてその夫である馬雄バユウ馬修バシュウは同じ家に住んでいて、袁徽はそちらに行っているはずだ。


 別々に話をしているのは、本人たちの本音をきちんと聞きたいと思ったからだ。


 凛風と翠蘭はあまりに仲が良すぎて、どちらかがこうしたいと言えば合わせてしまう気がした。


(しかし、凛風に関しては思っていた以上にすんなり受け入れたな。まぁ気の強い娘だから尻込みしないのだろう)


 趙奉はそのことに安堵していたが、娘だけでなく家族の問題でもある。


 凛風はそのことを口にした。


「修君はお医者さんとして開業を考えてるって話だったから、ちょうどいいかもしれないね。うちの人はちょっと聞いてみないと分からないけど……」


 馬修は医者であり、馬雄は商人だ。


 馬修が医師として開業するに当たり、太守である許靖の後ろ盾があるなら患者も付きやすいだろう。


 ただ、商人が越した先で仕事があるかどうかなど知れたものではない。


「あの真面目な男ならどこで何をやっても生きていけるだろう」


 趙奉はそんなふうに軽く考えていた。


 能力というものは人によって高い低いがどうしてもあるが、結局のところ真面目で誠実な人間であれば大抵の職場でやっていけるものだ。


 趙奉は義父として、馬雄の真っ直ぐ過ぎるほどなところが気に入っている。


 しかし、共に生活していかなければならない妻としてはそうも言っていられない。


「そんな簡単なことじゃないでしょ。それに私もそうだけど、故郷を出るのって父さんが思ってるより勇気がいることだよ?」


「でもお前、花琳カリンさんたちが益州に移住する時は『ついて行きたい』って泣いてたじゃないか」


「それはそうだけど……」


 確かに自分だけでなく、翠蘭も泣いてそう言っていた。


 今でもその気持ちは変わらない。


 花琳は母のようなものだったし、芽衣メイは姉のようなものだった。


 春鈴シュンレイ許游キョユウは姪っ子と甥っ子のようなものだったし、子供たちにとって姉と兄のようなものだった。


 会いたいし、一緒にいたい。


 それに、花琳にはこの二年でさらに強くなった自分たちを見て欲しかった。


「まぁ……正直に言うと嬉しい気持ちもあるよ。私は皆がいいって言うなら全然行くけど」


 先ほどもそう言っていたが、益州に行くのは構わないのだ。


 ただ父がそうであるように、やはり家族が一緒でなければ嫌だ。


「とりあえず、皆の意見を聞かないと。それにまだ小さくてもあの子たちだって……」


「お母さーん!!」


 と、表から元気いっぱいの声が上がった。


 その夏の日の太陽のような声に、凛風は顔をほころばせながら立ち上がった。


 目の前の趙奉も似たような顔をしている。


「はいはい、こっちまで来ちゃったのね。翠蘭も一緒?」


「うん!みんな一緒だよ!」


 凛風が玄関まで出ると、いきなりウリ坊のようなものが腹に突進してきた。


 鍛え上げた腹筋でそれを受けたものの、常人であれば吹き飛ばされていたかもしれない。


「ちょっとテン、思いきりぶつかったら危ないっていつも言ってるでしょ」


「ごめんなさい!」


 と、甜は謝ったものの、その顔は満面の笑みで申し訳なさなど欠片と感じられない。


 甜は凛風と馬雄の一人娘だ。


 可愛い盛りなのだが、今年で五つになったのだからもう少し落ち着いて欲しいというのが母の希望だ。


 やれやれ、と思いながら凛風がその頭を撫でてやると、甜の頭からはポロポロと木の葉や土が落ちた。


 よく見ると、顔を服も泥だらけだ。


「甜……もしかして、また一人で山に入ったの?」


「ううん!川!でっかいカエルを捕まえたの!」


 甜は袋を握っており、それを開けて凛風に見せた。


 中には確かに大きなカエルが入っている。しかも五匹も。


 人によっては鳥肌でも立てそうな光景だが、甜は胸を張ってまた大声を上げた。


「美味しそうでしょ!?」


 日本には定着しなかったが、カエルを日常的に食べる地域は多い。現代でも中国や東南アジアではごく普通に食用にされている。


 味が鶏に似ているせいか、中国では『田鶏』とか『水鶏』とも書く。


 凛風も別にカエルを食べること自体には抵抗ないが、母として叱るべきことは叱らねばならない。


「一人で行っちゃだめって言ったでしょ?」


「一人じゃないよ!キョウも一緒だったんもん!」


 そう言って後ろを指さす。


 そこには目元の垂れた大人しげな男の子が立っていた。


「膝を怪我したのも恭が治してくれたよ!」


 見ると、甜の膝には軟膏が塗られていた。いつものことだが、こけて擦りむいたようだ。


「凛風おば様、申し訳ありません。私からも足場が悪くて危ないと注意したのですが……」


 そう言って頭を下げた馬恭は、翠蘭と馬修の一人息子だ。


 随分としっかりした言葉遣いだが、これで甜と同じ五つなのだからよく驚かれる。


(翠蘭がちゃんと教育してるとはいえ……同じ家で暮らしてて、どうしてこうも違いが出ちゃったのかな?)


 凛風にはそれが常々疑問だった。


 馬雄と馬修は兄弟で、凛風と翠蘭も血は繋がっていないとはいえ姉妹だ。


 それで結婚後は一緒に住んでいるのだが、育ったのはあまりに違う従兄妹だった。


 甜はまるっきりの野生児で、山野を駆け回って小動物や虫などを取るのがとにかく好きだ。


 今日のようにカエルをたくさん捕まえたり、山に入ればウサギの巣穴を目ざとく見つけて捕まえたりする。


(この子は山に捨てられても一人で生きていけるな)


 それは母として喜んでいいことなのかどうか分からないが、出来ることが多いのはきっと良いことなのだと思うことにしている。


 先日など川で遊んでいるうち、知らぬ間に一人で泳げるようになっていた。


 この生命力は凄まじいと思うのだが、それに付き合うのは正直しんどい。


(まぁ……大きくなったら落ち着くよね)


 それもそう思うことにして、できるだけ自由にさせてきた。


 一方の馬恭は逆に落ち着きすぎているほどで、五歳とは思えないような分別を持っている。


 ほとんど手のかかることが無い子だった。


 ただし知識欲だけは凄まじいようで、言葉が話せるようになった頃からよく質問漬けにされて困ったものだ。


(子供は皆『なぜなに期』があるっていう話だったけど、恭君のはちょっと凄かったな)


 しかも馬恭は大人の言うことをよく聞いて、よく覚えるのだ。


 そして母である翠蘭は女だてらに儒学教養があり、父である馬修は医師だ。知識は豊富にある。


 二人とも息子の質問に適当なことを答えるようなことはせず、結果として齢不相応な礼儀正しさと知識を身につけた少年が出来上がった。


 特に医術には興味を持っており、損になることではないので馬修は聞かれるままに教え込んでいた。


 今日もそうだが、甜が多少の怪我をしても馬恭が手当してくれるほどなのだ。


(まぁ助かるっちゃ助かるけど……)


 野生児な娘を持つ母としてはありがたいことではあった。


 それに馬恭はやや内向的で家にこもりたがるところがあるので、甜が連れ出してくれるのは助かると翠蘭も喜んでいる。


 そういった所では相性の良い二人で、実際に仲も良い。


「でも恭君がいるからって、子供だけで行っちゃ駄目って言ったでしょ?」


「いや、一応だが私もついて行ったんだ。二人が速すぎてだいぶ置いていかれてしまったが」


 と、恭の後ろから現れたのは袁徽だ。


 頭をかきながら申し訳無さそうな顔をしている。


「翠蘭に話をした後、ちょうど馬雄君と馬修君が帰って来てね。翠蘭と話をしてもらう間、私は甜と恭を連れて外に出ていた」


 そう言う袁徽に続いて翠蘭、馬雄、馬修も現れた。


「お姉様、ごめんなさい。お兄様にも私が先にお話してしまいましたわ」


 馬雄は凛風の夫なわけだから順序が違うかもしれない。


 翠蘭は儒学者の娘らしくそれを気にして謝ったが、凛風はそういったことを気にするたちではないから笑って応じた。


「いやいや、手間が省けて良かったよ。で……男衆としては、どう?益州は」


 まずは兄の馬雄が妻の質問に答えた。


「実はさっきも、ちょうど時期が良かったかもしれないという話をしてたんだ」


「良かった?」


「前にも少し話したと思うけど、うちの店ちょっと経営状況が芳しくなくてね……」


「ああ……」


 凛風もその話なら聞いている。


 売上が下がったわけではない。


 むしろ既存店舗は好調だから新店舗を建てたのだが、そこで思うように顧客を得られなかったのだ。


 事業というものは必ずしも客が減って潰れるわけではなく、投資に失敗して潰れるというのもよくあることだ。


「傷が浅いうちに新しい店舗を閉じようという話になったんだけど、そうなると何人かには暇を出さないといけないだろう?いま私が辞職したら、一人仕事を失わなくて済む」


 馬雄は人一倍優しい男だから、そういう考え方をしてしまうのだった。


 妻としてはそんな夫のことを愛おしく思う一方、やはり生活は心配になる。


「でも、向こうで仕事があるかな?」


 それに関しては袁徽が答えた。


「そこは許靖殿が紹介してくれるだろう。やり取りした文にも商人絡みで色々あったと書いてあったし、その辺りの繋がりは太そうだ」


 それに続いて、弟の馬修も兄の仕事についてやや楽観的なことを口にした。


「兄貴には益州で薬絡みの商売をしてもらえたらって思ってるんだ。そしたら医者の俺も助かるし、俺のところである程度の売上にはなるしね」


「あ、やっぱり修君は開業するんだ」


「もし行くならそのつもり。先生からも独立を勧められてるよ。きっと益州入りも喜ぶんじゃないかな?あっちの医学書が手に入りやすくなるから」


 凛風の後ろで話を聞いていた趙奉は、娘婿たちの反応にホッと息を吐いた。


 それから翠蘭にも尋ねる。


「翠蘭はどうなんだ?」


「私はお姉様が一緒なら一向に構いませんわ。それに、花琳先生や芽衣さんにも会いたいですし」


(どうやら反対の家族はいないようだ)


 趙奉はそう思って大きく手を叩く。


「よし!じゃあこれで決まり……」


「待って」


 凛風は父の言葉を途中で止めた。


 まだ希望を聞いていない家族がいるのだ。


 凛風はその二人を交互に見ながら尋ねた。


「甜、恭君。今ね、家族みんなで遠いところに引っ越そうかってお話をしてるの。二人はそれでもいいかな?」


 二人ともまだ小さいとはいえ、意思を持った家族の一員だ。


 こういうことは必ずしも希望を叶えてやれるわけではないが、きちんと話をしておきたいと思った。


「んー?新しいところには何があるの?」


 甜は首を傾げてそう聞き返してきた。


 一方の馬恭は冷静に問うべきことを問うてくる。


「遠いところ、と言われましてもどのようなところか分かりかねます。甜の言うように、そこに何があるのかを教えて下さい」


 凛風は相変わらずな五歳児の物言いに苦笑した。


 苦笑しながらも、二人の興味のあることで考えて答えた。


「そうだね……新しいところには……ここにはいない生き物もたくさんいると思うよ。それと、ここにはない書物もたくさんあるだろうね」


 二人はその言葉に目を輝かせた。


 そんな二人へ、翠蘭がさらに付け足す。


「あと、春鈴ちゃんと許游君もいますよ。また二人と一緒に、たくさん遊べますね」


 甜も恭も、この二人のことが大好きだった。


 二年前に移住してしまった時にも、その後しばらく『春鈴ちゃんは?游君は?』と、何度も繰り返し聞いていたものだ。


 二人ともまだ小さいながらに姉、兄のような存在をよく覚えているらしい。


 頬を紅潮させて、元気いっぱいの声で己の意志を表明した。


「「行く!!」」



***************



「あっ、お母さん見て見て!!チョウチョ!!」


 そう言って駆け出そうとするテンの手を、凛風リンプウは素早く掴んだ。


 甜は紐を繋がれた犬のように大きく体をのけぞらせてから、母親のことを振り返った。


「離して」


「駄目。またはぐれそうになっちゃうでしょ。ちゃんと道を歩きなさい」


 凛風は自分たち進む道の先を指さした。


 目の前にはクネクネと曲がりくねった下り坂が続いている。


 山の木々に遮られて遠くまでは見えないので、子供としては面白くないのだろう。


 そんな気持ちがよく分かる声を上げた。


「つまんな〜い」


「つまんなくても進まなきゃ新しいお家に着かないんだよ。頑張ろう」


 と、凛風は言ったが、正直なところ甜はかなり頑張っていると思う。


 五歳で長い距離を、しかも大人と同じ歩速で歩けと言われても普通は無理だ。しかし、甜はかなりの部分を自分で歩いていた。


(交州の家を出てもう結構な距離を進んだけど、疲れた様子もないんだよね。寝て起きたら完全回復してるし)


 子供とは凄いものだとあらためて思う。


 が、自分が子供の頃ですらここまでではなかったので、やはり甜の生命力が普通ではないのだろう。


 しばらく前、凛風と翠蘭の一家は益州へと移り住むために、元いた交州の交趾こうし郡を出立した。


 そしてつい昨日益州へ入り、今は許靖のいる巴郡へ向けて街道を北上している。


 幸いここまで天候には恵まれたから、旅としては快適な方なのだと思う。


 それに益州に入ってからは案内の兵が二人付いてくれており、荷も分散して担いでくれるので少し楽になった。


 ただし、関所ではそこの長だという役人が出てきて、


『本来ならもう何人か兵が付く予定だったのですが……赤壁の戦い以降、益州でも州境の警戒を強化していて人をあまり割けんのです。ご勘弁ください』


頭を下げてそう謝ってきた。


 趙奉たちとしてもその辺りの事情はよく理解できるし、趙奉、凛風、翠蘭の三人がいれば護衛の必要性もそれほど高くないと思われる。


 むしろ二人付けてくれたことに謝意を述べて関所を後にした。


 ちなみに許靖にはあらかじめ士燮から文が送られており、


『趙奉が交州で揉め事に巻き込まれたから、今後はそちらで働かせて欲しい』


ということにして、受け入れを依頼している。


 詳細が控えられていても、こういう頼み方をされて断れる許靖ではない。


 事情も聞かずに快諾の返事を送り返し、趙奉はやや申し訳ない気持ちを抱きながら道を進んでいる。


(着いたら許靖殿には本当のことを言おう)


 趙奉はそう思いながら、母親に文句をたれる孫娘を眺めた。


「もうずっと山の中だよ」


「山は好きでしょ?」


「遊べないんじゃつまんない!」


「村に着いたら遊んでいいから」


「いつ着くの?」


 その質問に凛風が兵の一人を見ると、笑って答えてくれた。


「もうこの坂を下りたら次の村ですよ。そう遠くありません」


 それを聞いた甜は翠蘭のところへ駆けた。


 その背中には息子の馬恭バキョウがおぶさっている。


 体力お化けの甜とは違い、馬恭の方は齢相応に母に背負われている時間が長かった。


 こちらの方が普通だろう。


「恭!勝負しよ!村まで先に着いた方が勝ちね!」


「ちょっと甜……」


 凛風がそれを止めようとしたが、馬恭自身が翠蘭の背中から降りる素振りを見せた。


「いいよ。村がもう遠くなくて走るのなら、僕の足でも大人の迷惑にはならないだろう」


 この大人び過ぎた子供は、大人を気遣ってそんなことすら考えているのだった。


「母上、下ろしてください。おぶってもらってばかりでご迷惑をおかけしました」


「恭、自分の力でなんとかしようとするのは良いことですが、無理せず大人を頼っていいんですよ」


「そうすべき時、そうすべきでない時をよく考えます」


「……あなたはとてもしっかりした子なのですが……母はたまにあなたのことが心配になります」


 翠蘭は困ったような笑みを浮かべて息子を下ろした。


 馬恭は母に頭を下げ、それから甜に向き直る。


「甜、競争だ」


「よ〜し、じゃあ……ヨーイドン!!」


 二人は一斉に走り出した。


 下り坂だから子供でも速い。


 凛風と翠蘭はそれを追って走ろうとしたが、兵の一人が先に駆け出す。


「私が行きましょう。村はもう本当に近いので、ゆっくり来ていただいて大丈夫です」


「すいません、助かります」


「よろしくお願いいたします」


 二人は親切な兵の背中に礼を伝えた。


 それから言われた通り、ゆっくりと歩いて行く。子連れの旅というのは常に気を張るから大人だけになれるとつい気持ちが緩んだ。


 山道は曲がりくねっているので先は見えない。


 それでも村があれば当然物音くらいするもので、しばらく行くと人の声が聞こえてきた。


 ただし、それは悲鳴だった。


「…………っ!!」


 凛風、翠蘭、趙奉の三人が同時に走り出す。


 何が起こっているのかは分からないが、危機感を煽るには十分な声だった。


 三人の中で一番足が速いのは凛風だ。


 飛ぶような速度で山道を下り切り、村が見えてきた。


 その入り口で、先行した兵が三人の男に囲まれていた。


 抜き身の剣を構え、その男たちに睨みながら叫ぶ。


「私は益州の正規兵だ!本隊が来れば貴様ら山賊など一網打尽だぞ!命が惜しければさっさと逃げてしまえ!」


 どうやら偶然にも村が賊に襲われるところだったらしい。


 凛風には兵の言うことがただのハッタリだと分かったが、男たちには十分過ぎるほどの効果があったようだ。


 顔を見合わせ、明らかに怯えた表情になった。


 しかも男たちの武器はただの木の棒だ。大した賊ではないのかもしれない。


「お、おい……早くずらかろうぜ」


 一人がそう言ったが、兵にとって不幸なことに他の一人が木の棒を振り上げた。


「ととと、とりあえずこいつを倒して追いかけられないようにしないと!」


 逃げても追う気などないが、そう伝える前に男は棒を振り下ろしてきた。


 兵もきちんと訓練は受けているのだが、多勢に無勢だ。


 一人の棒を剣で受けている間に別の男から腹を突かれ、さらにもう一人から頭を殴られて倒れた。


 男たちはそれから一目散に村の中へ駆けていく。


 凛風は少し遅れて兵のところへたどり着き、男たちを睨みながら兵の頬を叩いた。


「大丈夫ですか!?」


「う、うぅ……」


 兵は脳震盪を起こしてはいたが、大して強くは殴られていなかったらしい。


 頭を押さえながら身を起こした。


 凛風はすぐに一番大切なことを聞く。


「甜と恭君は!?」


 兵はまだ意識をもうろうとさせながらも、村の方を指さした。


「む……村の中へ走って行ってしまいました……」


 兵がそう言った時、先ほどの男たちが仲間へ向けて声を張り上げていた。


「おい皆、軍が来たぞ!」


「えっ!?な、なんでこんなに早く来るんだよ!?俺たち今来たばかりじゃねぇか!」


「分かんねぇよ!でも正規兵の服と剣だった!早く逃げないと!」


「し、仕方ない……すぐにずらかるぞ!急げ!」


 村のあちこちから賊と見られる男たちが出て来て、一方向に向かって駆けていく。


 凛風が来たのとは反対方向だ。


 もちろん凛風は男たちを追ったり倒したりしない。


 極端な話、母としては賊などどうだっていいのだ。ただ子供たちの身が心配だった。


「甜!恭君!」


 凛風は大声で二人の名を叫びながら村中を駆け回った。


 しかし二人の姿はどこにも見当たらない。


 胸の奥を焦がされるような恐怖が凛風の顔を歪めた。


「甜!恭君!甜!恭君!」


 金切り声のような叫びを上げるが、それでも二人は見つからない。


 村の端から端までを走り、凛風が目に涙を浮かべ始めた時、かすかだが娘の声が聞こえた気がした。


 しかしそれは遠く、はるか向こうの山から聞こえた気がした。


 凛風がその斜面を見上げると、確かに甜はいた。


 賊と思われる男の馬に乗って。


「お母さーん!お馬さんだよー!」


 かなり遠いが、満面の笑みで楽しそうに手を振っているのが分かった。


 その後ろには馬恭も乗っている。こちらは甜が落ちないように、甜と手綱をしっかり握っていた。


(私の足でも追いつけない……)


 すでに距離が離れすぎている。しかも相手は騎乗しているのだ。


 娘は姿が見えなくなるまで嬉しそうに手を振っていたが、母はどうしても手を振り返してやる気にはなれなかった。

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