呂布の娘の嫁入り噺40
龐舒は涙を流しながら目を覚ました。
夢を見たのだ。
何かとても大切なものが、自分から遠く遠く離れていく夢を。
「……なんだ、夢か」
目を開けた龐舒がすぐに安心したのは、視界の中に自分の大切なものが全て揃っていたからだ。
呂布、魏夫人、そして玲綺。
この三人さえいれば、自分はどんなことがあっても生きていける。そう思えるほどに大切な三人だった。
「目を覚ましたか」
呂布がいつもの憮然とした顔でそう言った。
その表情も龐舒を安心させてくれるものの一つだ。
しかし、魏夫人と玲綺の顔はいつもとは違う。泣き腫らした目が赤く、頬には涙の跡もあった。
「二人とも、どうしたの?」
龐舒は問いながら体を起こし、周囲を見回してここが自宅の寝室であることに気づいた。寝台の下には貂蝉も座っている。
意識がはっきりしてくると、つい先ほど何が起こったのかも思い出した。
「あ……呂布様……僕……」
呂布は目を閉じてうなずいた。
それから弟子に確認する。
「俺は、お前が俺の首を持って投降するのが一番だと思っている。それは出来んか」
龐舒はうつむき、自分の手に目を落とした。
手が震えている。それをやろうとしても、動きそうもない。
そう自分で理解してから、首を横に振って答えた。
「申し訳ありません……それが最善の選択だとしても、やはり僕には出来ません……申し訳ありません……」
龐舒は二度謝った。
命じられた通りにするのが師のためだということも分かっている。
しかし、それでも出来ないのだ。
「そうか」
呂布はいつも通り短く答え、目を龐舒から上げた。
そして、どこか遠くを見つめながらつぶやく。
「最近、丁原様の気持ちが少し分かるのだ。あの時はなぜ死を前にして、あれほど満足そうな顔ができたのか分からなかった。しかし、今なら理解できる気がする」
呂布は龐舒へ目を戻した。そして静かに告げる。
「俺は、死ぬならお前の手で殺されたいと思う」
その言葉に龐舒は唇を噛み、手を強く握った。
やはり震えは止まらない。
「……申し訳ありません……僕には出来ません……申し訳ありません……」
震える声で謝罪を繰り返す龐舒のそばに魏夫人が座り、優しく抱きしめてくれた。
「いいのよ、優しい龐舒ちゃんにそんなこと出来るわけがないんだから。あなたもそんなにいじめないであげて。こんなに苦しんでるじゃない」
「別にいじめているつもりはないのだがな」
呂布は妻に責められて苦笑した。鬼神だか龍神だかでも、妻を前にするとただの夫になってしまう。
「まぁ、無理ということなら仕方ない。お前が寝ている間に二人には話しておいたのだが、次善の策を採るぞ」
「……次善?」
龐舒は顔を上げて師の方を向いた。
呂布は軽くうなずいて答える。
「そう難しいことではない。降伏前に、お前たち三人だけで城を抜け出すのだ。俺を殺せんと言うなら、せめて妻と娘を守って逃げてみせろ」
「それは……出来ることならそうしたいですが、この包囲の中を抜けられますか?敵は伝令すら逃がさないように密な網を張っています。かなり難しいと思いますが……」
「袁術と連絡を取った時に使った道があるだろう?一度は塞がれた道だが、あの辺りは身を隠しやすい。近くでかなり派手に気を引けば、三人くらい通れないことはないはずだ」
実は袁術とは再提携の話がすでにまとまっており、援軍を送ってくれるという約束になっていた。
が、呂布陣営は一縷の望みにかけてそれを頼んだだけで、本心では大した期待などしていない。
袁術はすでに力を失っており、兵を送る余裕などないのだ。事実、この下邳城に袁術軍は来ていないし、今後も来ない。
ただし、その使者を送るために包囲の状況と地形とを詳細に調べさせてはいた。呂布は上手くやれば三人くらいなら抜けられると確信している。
「包囲の気を引くのは俺の方でやるから心配するな」
龐舒はそう言う師の腕を掴んだ。
「なら、呂布様も一緒に逃げましょう。無条件降伏なんかしてやる必要はありません」
呂布は予想通りの弟子の反応に、心の中だけで笑った。
「言っただろう、かなり派手に気を引く必要があると。俺でなくては無理だ。それに高順たちのような部下を置いて行くことは出来ん。俺はここに残る」
「でも」
まだ説得を続けようとする弟子の手に、呂布は自らの手を重ねた。
そこに優しく力を込め、己の思いを伝える。
「龐舒、俺はもう俺の人生に満足しているのだ。兵たちにも言ったが、良い夢を見られたと思う。この乱世で思い切り暴れることができた。後は家族が幸せに生きられるなら、何も思い残すことはない」
呂布は龐舒がそれ以上の反対を口にする前に、後ろを振り向いた。
そこにはたった一人の愛娘、玲綺がいる。
「玲綺。俺が父として最後にしてやれることは、お前の嫁入りを今度こそ無事に送り出してやることだ。龐舒と互いを思いやり、助け合い、仲良くやるんだぞ」
「お父様……」
「不器用な父で悪かった。娘として腹の立つことも多かっただろう。しかし父は娘の幸せを何よりも望んでいる。いつの時代、どこの世界の父親も、それだけは変わらないものだ」
玲綺は涙をぽろりと流してうなずいた。
龐舒が起きる前に、父から別れの話は聞いている。その時にも母と一緒に随分と泣いた。涙が枯れたと思えるほど泣いたのだ。
しかし、それでも涙はやはり出てくるのだった。
「知ってる……知ってるわよ、お父様が私のことを愛してくれたことくらい。そりゃ腹が立つことだってあったわよ。これだけ近い人なんだから。でもね……親が愛してくれてるって分かることほど……子供にとって安心できることなんてないのよ……」
嗚咽を漏らしながら、父の胸に顔を埋めた。
そこに魏夫人も寄り添い、同じように夫を抱きしめる。
二人の様子に何か感じ取ったのか、貂蝉も呂布の足にすり寄って来た。
そんな世界で一番の幸せを噛み締めながら、呂布は龐舒へと向き直った。
「龐舒には、こういう俺にとって一番の宝を託すのだ。しっかりと守ってくれ」
これほど幸せな顔でそう言われては、龐舒も決意と共に首を縦に振るしかない。
弟子として、一人の男として、師の命を、一人の男の願いを受け止めなければならないと思った。
「……分かりました。奥様と玲綺は僕がこの身に代えても守ります」
「違う、そうではない」
呂布は弟子の決意を即座に否定した。
そんな反応を全く予想していなかった龐舒は、小さな声で聞き返した。
「え?」
呂布は龐舒の頭に手を伸ばし、優しく撫でてやった。
「お前はもう、俺の息子だ。俺の家族だ。一番大切な宝だ。だから俺は、お前が傷ついても悲しい。この身に代えてもなどと言わず、お前自身も健やかであれ」
龐舒はたまらず、呂布へと抱きついた。
涙がとめどなくあふれてくる。
悲しさ、寂しさ、愛おしさ、感謝……様々な感情が師との思い出と共に膨れ上がり、あふれ出てくるのだ。
呂布は三人の暖かい涙に濡れながら、あらためて幸せだと思った。
世に父親という生き物は数いれど、自分ほど幸せな父親はおるまいと誇らしい気持ちになった。
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