小覇王の暗殺者4

「行ったぞ、魅音ミオン!!」


 雲嵐ウンランは矢を放ちつつ、妹に向かって叫んだ。


 その声に驚くようにして、山腹の池から鴨の群れが飛び立つ。


 ただ、実際には声に驚いていたわけではない。仲間の二羽がほぼ同時に雲嵐に射られていたからだ。


 雲嵐の弓は速い。空に上がる前の一羽をさらに捕らえ、猟果は三羽になった。


 しかし、鴨たちは雲嵐から離れる方向へと飛んでいる。だから雲嵐自身の手柄はここまでで、後はその先にいるはずの魅音の仕事だ。


 が、魅音がいるはずの所から矢は放たれない。


「……魅音?おい、魅音!!」


 雲嵐は強い口調で呼びかけたが、やはり魅音からの反応はなかった。


 代わりにその横合いから矢が飛んだ。許安キョアンの矢だ。雲嵐と魅音の中ほどに位置していた。


 立て続けに放たれた三本の矢のうち、一本が空中の鴨の胸に当たる。それで今日の猟果は鴨が計四羽ということになった。


 悪い結果ではない。


(でも、もっといけただろ!!)


 雲嵐は腹を立てながら、妹の方へと大股に歩いた。相手が飛ぶ鳥とはいえ、魅音の腕ならもう二、三羽仕留められたはずだ。


 しかし、魅音は明後日の方を見ながら立ち尽くしているだけだった。


(相変わらず、兄ちゃんの言うことを聞かないやつだな)


 改めてそう思いつつ、魅音を問い詰めた。


「おい、魅音。どういうつもりだよ」


 魅音は雲嵐の方を見もせずに答える。


「だって……今日は鴨肉の気分じゃなかったんだもん」


「……はぁ?」


「鴨肉って脂っこいでしょ?今晩は、もっとあっさりしたお肉を食べたい気分なの」


(……お前の気分で狩りをしてんじゃないよ!!)


 雲嵐は怒鳴ってやろうかと思ったが、その前に許安がわざと笑い声を上げてそれを制した。


「あはは。確かに昨日の夜に食べた猪はよく太ってたもんね。脂たっぷりだった。僕も今日はあっさり系の気分だな」


 許安が気を遣ってそう言ったのが分かったので、雲嵐は怒鳴るのをやめた。


(でも、魅音はもう十歳だぞ?この娘はいつまで自由人なんだ……)


 雲嵐はあきれ半分に自分の妹を眺めた。


 雲嵐と魅音が許貢に保護されてから、三年の月日が経っていた。この時期の子供にとって、三年という時間は大きい。


 十三になった雲嵐と許安は随分とたくましくなったし、魅音は魅音で一人の人間として十分な分別を持てるだけの齢になった。


 ……と思っていた矢先、先ほどの言い分だ。


(そういえば許靖様が『魅音は弓を持った自由気ままな猫だ』って言ってたけど……それが本質ってことは、一生このままなのか?)


 やや絶望にも似た気分でそう思った。


 許靖は今でもたまにやって来ては泊まっていく。会稽かいけい郡の太守である王朗オウロウとの連絡係のようなことをしているのだ。


 雲嵐にも優しくしてくれるし、その言も信頼に足るものとよく分かった。


 しかし魅音のこれに一生付き合わないといけないのかと思うと、うんざりした気分になるのだった。


(まぁ……魅音と許安が本当に結婚してくれるなら、それが唯一の救いになるんだけど)


 雲嵐は優しい笑みを浮かべる許安を横目で見た。


 許安は自分のものづくりに対すること以外へのこだわりが希薄で、魅音のわがままやこだわりをごく自然に受け入れられている。先ほどのように、周りとも上手くやれるよう配慮してくれることも多い。


 そんな許安のことを、魅音は今も変わらず好きなようだった。


 許安の方がどう思っているかは分からなかったが、妹も段々と幼さが抜けてきている。それに兄のひいき目を除いても、なかなかの美人になりそうだと思うのだ。


(今度、許安にそれとなく聞いてみるか)


 そんな気持ちで二人を交互に見ていた雲嵐は、ギョッとした。


 というのも、突然魅音が矢をつがえ、許安へ向けて弦を引き絞ったからだ。


「……え?み、魅音ちゃん?」


 許安も状況が分からず、上ずった声を出した。


 一方の魅音の声音はごくごく平静だった。


「安ちゃん、動かないで」


「いや、そう言われても……」


 向けられている弓矢は、許安が作った特別製の自信作だ。狩りだけでなく、人を殺すにも十分すぎるほどの能力がある。


「安ちゃんも、今日の晩御飯はあっさり系がいいんでしょ?」


「え?いや、まぁそうだけど……」


 人間の肉はあっさり系なのだろうか?というか、死んだら自分は晩御飯を食べられないのではないだろうか?


 そう思っている間にも弓はしなり、弦は張力を増していく。魅音は自分の引ける最大限の長さを引いていた。


「おい、魅……」


 雲嵐が声をかけようとした瞬間、魅音は弦を離した。


 矢は高い音を立てて風を切り、高速で突き進む。


 許安の耳元をかすめて。


「ひっ!?」


 と、許安の喉から高い声が出るのとほぼ同時に、その後方でも別の声が上がった。


 それは、鹿の鳴き声だった。


「よし!!」


 魅音は自分の放った矢の行方に満足した。


 狙い通り、許安の向こうの樹間に見え隠れしていた鹿に突き立ったのだ。


 先ほどから魅音が明後日の方向を見ていたのは、これが理由だ。鴨が飛ぶ前から鹿を見つけ、そちらを狙える機会をうかがっていたのだった。


 魅音はいったん歓声を上げたものの、すぐに次の矢をつがえた。


 第一の矢はしっかりと命中したのだが、矢の一撃で仕留めるには鹿は大き過ぎる。よほど良い位置に当たらなければ、逃げられる可能性も高かった。


 ただ、この時はあまりに狙い通りに当たったため、第二の矢は必要なくなった。


 初めの矢は鹿の顎下あたりに刺さったのだが、ここには頸動脈が通っている。とどめを刺したり血抜きをしたりする時に切る部位であり、そこを傷つけられた鹿はそれほど時を置かずに倒れてくれた。


「やった〜。あっさり系のお肉〜」


 魅音は嬉々として鹿の所へと駆けて行く。


 鹿は獣肉の中でも特に高蛋白・低脂肪で知られている。健康志向も相まって、現代でも人気のジビエだ。


 雲嵐と許安は跳ねるような足取りの魅音を苦笑しながら眺めた。


 今日の猟果は鴨四羽から数段上がり、鹿一頭が追加された。


(魅音はああ見えて、実はやることはしっかりやるんだよなぁ)


 自由過ぎて腹の立つことはあったものの、兄としてそれは認めなければならない。


 そしてもう三年以上同じ時を過ごしている許安もそれを分かってくれており、その事は雲嵐にとってありがたいことだった。


「すごく立派な鹿だね。父上もきっと喜ぶぞ。運ぶのが大変だし、早く帰って来てくれないかな」


 許安はそう言って、周囲を見回した。


 今日は父である許貢キョコウも一緒に来ているが、心当たりの猟場を見てくると言って一人離れていた。そろそろ帰る頃ではあるはずだ。


 魅音も許貢に鹿を見せるのが楽しみだった。飼い猫が獲物を飼い主に見せるような心境かもしれない。


「ふふふ……父上、絶対『すごい!』って言うよね」


 嬉しそうな魅音が鹿のすぐそばまで来た時、鹿の体に影がかかった。それは魅音の影よりも、ずっと大柄なものだった。


 木の陰から一人の男が音もなく現れたのだ。


「……魅音っ、下がれ!!」


 その男の姿を見た雲嵐は、無意識に叫んでいた。


 その男の全身から、言いようがないほどの迫力を感じたからだ。


 そして魅音は魅音で何か感じたのか、珍しく兄の言うことを聞いた。


 猫のように後ろに跳ね、男と距離を取る。


(何だこの男は……なんで俺はこんなに怯えてる?)


 雲嵐は過度の警戒心を抱いている自分を不思議に思った。


 現れた男はまだ若く、二十歳を少し越えた程度だろう。端正な容姿をしているが、別に目鼻立ちの美しいことが迫力につながるとも思えない。


 怯えないといけないような事情は何もないはずなのだが、なぜか雲嵐の心は緊張した。


「やぁ、すまない。驚かせてしまったかな?」


 男はそう言って笑った。笑うと、不思議なほどに印象が変わった。


 つい先ほどまで警戒心を抱いていたのに、笑顔を向けられるとなぜが背筋がムズムズするほどの親近感が湧くのだ。


 それは思わず近寄って手を取りたくなるほどで、雲嵐はそのことに一層心を引き締めた。


(よく分からないけど……この男は普通じゃない!!)


 雲嵐はそう思ったのだが、許安はそこまで危機察知能力が高くない。というか、そもそも人が好すぎて警戒心が足らないほどだ。


 だから男の笑顔を見て、ごく普通に好感を抱いた。


「いえ、こちらの者が失礼なことを言いました。申し訳ありません」


 そう言って笑顔で歩み寄る。


「こんな山奥でどうされました?私たちは見ての通り、狩りをしていたのですが」


 ここはよく雲嵐たちの狩場になっている山だ。


 周辺住人には山の使用料のつもりて獲物の一部を配っているから、この辺りの人間ならある程度知っている。


 しかし、この男は初めて見る顔だった。


「君たちの狩場だったか。実は俺も狩り目的で、仲間とともに獲物を探して散策していたのだ。しかし先客がいるなら横取りはすまい」


「お仲間は?もしかしてはぐれてしまったのですか?」


「そうだ」


「よろしければ、探すのを手伝いましょう。この辺りの山は地形が見た目よりも複雑なのです。闇雲に動いたのでは遭難しかねません」


 許安は持ち前の親切心でそう申し出た。


 男は笑みを深くしたが、首を横に振って答えた。


「ありがたいが、心配には及ばない。俺も仲間も地形を見るのは得意なのでな」


 それから魅音の射た鹿へと目を落とした。


「それに、こんな大物を放置して虎や野犬に食われたのでは申し訳ない。仲間とはその内会えるだろうよ」


 男は鹿のそばにしゃがみこんで、刺さっていた矢を抜いた。


「見事なものだ。まさかこんな可愛らしい少女の射つ矢で鹿が仕留められるとは……」


 褒められた魅音はそれで警戒心を緩めたのか、胸を張って弓を掲げて見せた。


「すごいでしょ?この弓は安ちゃんの特別製なんだよ」


 魅音の自慢する通り、この弓は木材だけで作られた普通の弓とは違う。


 外側には動物の腱が貼られており、内側には骨が貼られている。複数の素材が組み合わされて作られた、いわゆる複合弓コンポジット・ボウと呼ばれるものだ。


 こうする事で腱の張力と骨の応力が加わり、大きさに比して強力な弓になる。


 作るのに結構な手間のかかるものだが、ものづくりの好きな許安はその手間すら楽しんだ。製作に没頭し、自分たち三人の力に合わせた最適な弓を作り出していた。


「本当にすごいな。ちょっと見せてもらえるか?」


 男の言葉を素直に喜んだ許安は、嬉しそうに自分の弓を手渡した。


 男はそれをまじまじと観察し、実際に引いてみて唸るような声を上げた。


「これは……素晴らしいものだ。しかも、これほどの物を君たちのような若者が持ってるとは。もしかして呉郡の兵は、こういう弓を大量に所持しているのか?」


 男が最後の言葉を口にした時、その眉間がわずかに歪んだのを雲嵐は見逃さなかった。


(この人……呉郡の兵が強力な武器を持ってると困る人だ)


 そう感じたが、そこまで考えない許安は弓を褒められてご満悦だった。


「まさか。こんな手間のかかる弓、大量には作れませんよ。軍が所持しているのはごく普通の弓やです」


 普通にそう答えた許安の裾を雲嵐が引っ張った。


 振り返る許安に対し、小さく首を横に振ってみせる。


 許安にはその意図は分からなかったが、男には分かった。


(……こちらの少年は勘が良いな。俺が呉郡の軍事情報について探りを入れていることに気づいたか)


 そう思った男は、雲嵐の警戒を解くべく何か冗談を口にしようとした。誰でも笑えば心が緩むものだ。


 が、男にはそれができなかった。それどころではない事態が起こったからだ。


 男の顔めがけ、一本の矢が飛んできた。


「…………っ!!」


 男はそれを間一髪かわしたが、矢の刃がわずかに頬を撫でた。薄っすらと血が滲み、目の下に赤い筋ができる。


 矢は雲嵐が放ったものではない。魅音のものでもなかった。


 矢の来た方向を見ると、許貢が走りながら第二の矢をつがえているところだった。


「三人とも、そいつから離れろ!」


 言われて雲嵐と魅音は後ろに跳んだが、一番近くにいた許安はそうできなかった。


 男が許安を捕まえて、その首に剣を当てたからだ。


 それで許貢も第二の矢を放てなくなった。


 ただし、足は止めない。雲嵐と魅音を守るように、その前に立ちふさがった。


 雲嵐はその背中を見て、この上ないほどの安心感を覚えていた。


 現実的な問題を考えると、本来これはおかしい。弓さえ持っていれば許貢よりも雲嵐の方が強いはずだ。


 しかしそれにも関わらず、許貢がいてくるだけで雲嵐はなぜか安心してしまうのだった。


「獣と間違えた……というわけではなさそうだな」


 男はそう言いながら、許安の首筋に当てた刃をさらに押し付けた。あとは軽く横に引くだけで、頸動脈が簡単に斬れるだろう。


 許貢は男を睨みつけながら答えた。


「どうだかな。もし子供にまで手をかけるようなら、孫策ソンサクという男は獣と同じになると思うが」


 孫策。


 許貢の口にしたその名は、なぜか雲嵐の耳には不吉な響きをもって感じられるのだった。

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