短編 張裔3

張裔チョウエイ殿、少し飲み過ぎではないでしょうか?」


 張裔はそう言ってきた男へ、ジロリと睨むような視線を向けた。


 その目は酔いによって完全に据わっている。


「では、飲む以外にすべきことをいただきたい」


 多少ろれつは回っていなかったものの、張裔は明確な意思を持ってその要求をした。

 

 が、返ってきた答えは今までに何度も聞いているもので、それは張裔を失望させるだけだった。


「私の権限では、どうにも出来ません」


 この男はこれまでも全く同じ文言を繰り返し口にしているのだが、どうやら真面目な男なようで、特に嫌がる様子もなく真剣な口調で返答してくれた。


 が、張裔にはその真面目さが憎らしい。


 真面目に監視をしてくるので、逃げ出すことすら叶わないのだ。


(呉に送られたのはいいとして、ここまで捨て殺しにされるとは……)


 張裔の状況は、そういうものだった。


 呉に送られてからすでに数年が経っているが、ずっと放置されている。


 もちろん初めこそ多少の尋問は受けたものの、その後はただただ無為に時を過ごさされているのだ。


 ただし、逃がすということもしない。この男のように真面目な監視役を付けられ、さらに住居は頻繁に変えられた。


 この数年で呉のあちこちを転々とさせられたが、おそらく逃亡防止の措置だ。一箇所に長く居られると、逃げ出す準備を少しずつ進められる危険があるからだろう。


 普通に衣食住は用意してくれるし、監視付きならば外出も認められている。こうやって飲む酒も、頼めば飲み過ぎるほどに買ってきてくれた。


(しかし……仕事がないということが、こうまで自分を追い詰めるとは……)


 わんに入った酒の揺らめきを眺めながら、張裔はその事をあらためて思った。


 考えてもみれば、これまでの自分の人生は何かを効率よく進めたり、効率を上げるために改善したりすることで組み上げられていたように思う。


 だからやるべきことが何もないという状況は、自分の人生が空になってしまったようなものだった。


(自分が酒に溺れられるとは、夢にも思わなかったな……)


 そんなものは、自堕落したくずのすることだと思っていた。しかし世の中にはどうにもならない苦しみと、素面ではそれに耐えられない心があるのだと分かった。


 少しだけ優しくなった張裔は、蜀でのことを懐かしく思い出してみることにした。今に光がないから、過去にそれを求めたのだ。


 すると、浮かんでくる光景はなぜか諸葛亮の顔ばかりだった。少し見上げなければならない長身と、涼やかな目元ばかりが目の前に現れる。


(丞相……木牛、流馬は完成しましたか?天灯は?連弩の小型化は?)


 酔って揺らめく世界の奥に見える諸葛亮へ、そう問うてみた。


 しかし幻は答えを返してくれない。


(……本物の丞相でも、こんな役立たずには答えてくれまい。私は何も出来ない、無能な人間なのだから)


 張裔は自嘲して酒をあおった。


 そう、自分は無能なのだ。だからこうやって捨て置かれている。


 いや、捨て置かれているどころの話ではない。呉を支配する孫権ソンケンは、張裔が送られてきたのに会いもしなかったのだ。


(考えても見れば、当たり前かもしれないな。私は先の戦いで丞相と張飛殿に完敗した上に、今回も地方豪族に捕縛されるという醜態を晒している)


 そう、自分は無能なのだ。だからこんな状況に陥ったのも仕方ない。


(きっともう、丞相も私のことを忘れていることだろう)


 張裔はそう思い、そして自分で思ったことに対してひどい悲しみを覚えた。


 無理だ。耐えられない。


 そう思った張裔は、椀にまた酒を注いだ。


 そして震える手でそれに口をつけようとした時に、おとないを告げる声を聞いた。


「張裔殿!いらっしゃるか!?孫権様がお呼びですので、至急建業けんぎょうにお越しくだされ!」



***************



「ほう……酒浸りになっていると聞いていたが、なかなか良い目をしているではないか」


 孫権は張裔を一目見るなり、そう感想を口にした。


 言われた張裔はというと、恥ずかしくなって目をそらした。自分は褒めてもらえるような人間ではない。


「いえ。孫権様の聞かれている通り、酒浸りの屑ですよ。しかも無能だ」


「そうか?諸葛亮はそうは思っておらぬようだが」


 張裔はその名が出てきたことに目を剥いた。


「じょ、丞相が!?それは一体、どういうことで……」


 張裔は思うように舌が回らなかった。その名を聞くだけで焦燥に駆られ、言葉を途切らせた。


 孫権にはそれが面白かったらしい。不思議と青みがかったような瞳を細めて笑った。


「どうやら張裔殿にとって、諸葛亮というのは特別な存在であるようだな。その諸葛亮からそなたを返すように依頼があったのだ。蜀との和平交渉で、合わせてそれを頼まれた」


 このしばらく前、孫権と劉備は一度戦になり、孫権が勝った上でとりあえずの和睦をしていた。


 しかしその後に劉備が死んでから、孫権はしょくとの関係をどうするか明確にしていなかった。むしろ、蜀との提携には消極的であった。


 劉備死後の蜀も打倒を国是としていたが、それにはとの提携が必須になる。


 諸葛亮は使者を派遣し、蜀・呉の和平を説かせた。


 現実問題として、国力では三国のうち魏が圧倒的に勝っているのだ。提携は呉にとっても決して悪い話ではなく、和平交渉は見事に成立した。


「ずっと張裔殿を放置していた私としては、帰すことに何の異論もなかったのだがな。ただ、せっかくなのでその前に一度会っておこうと思ったわけだ」


 孫権は部屋の一角を指差した。そこには豪勢な肴と共に、酒が置いてあった。


「酒浸りという話だったが、私も浸りたいほどに酒が好きだからな。まぁ、張裔殿を酒の肴にしようと思ったのだよ」


(私は本来、酒は特段好きではないのだが)


 張裔はそう思ったものの、下手に機嫌を損ねて帰りの船便を失うのは避けたい。


 笑顔でそれに応じてみせた。


 席についた孫権は嬉しそうに酒を喉に流しつつ、張裔に尋ねた。


「私も諸葛亮のことはよく知っているつもりだが、随分と評価されているようだな?」


 張裔も酒をあおりつつ、質問に答えた。昨日まで飲んでいた酒とは全く違う味がした。


「いえ……丞相から見れば、私などそこらの石ころほどの価値しか無いでしょう。むしろ、覚えていただいていたのが驚きです」


「石ころであれば、わざわざ和平交渉で返還を求めたりせんだろう。下手をすれば条件の一つとして捉えられてしまうかもしれん」


「それは交渉の仕方次第ですし、何とも言えないところでしょう」


「そうかな。だが何にせよ、蜀に帰られることが相当に嬉しいようだな。出会った時と随分顔が違う」


 張裔は自分の顔をつるりと撫でた。


 自分で自分の顔は見えないものの、少なくとも昨日までは自嘲以外で笑うことなどなくなっていた。


「それはまぁ……嬉しいといえばやはり嬉しいですね。私は成都せいとの生まれですから、やはり故郷は恋しいです。正直に申し上げますと、何度も脱走して蜀へ帰ることを検討しました。危険を冒してでも、そうしたいと思ったのです」


「そうか。蜀はタク氏の寡婦で有名な土地だからな。思いを我慢できぬ者が多そうだ」


「なんの。呉の朱買臣シュバイシンの妻よりはマシでありましょう」


 孫権は一拍置いてから、爆笑した。


 ここでの二人の会話は古典の知識がいる上に、孫権の妹も絡んでくるから分かりづらい。


 卓氏の寡婦とは、好きな男と駆け落ちした蜀の大富豪の娘のことだ。


 対して朱買臣の妻とは、夫の出世を待ちきれず貧窮に耐えかねて離婚した呉の女性のことだ。


 そして孫権の妹は劉備と結婚していたのだが、しばらくして劉備の元から逃げ帰っている。


 ただ、その後の劉備は益州を穫って群雄として躍進した上に、最終的には帝になっているわけだ。孫権の妹はそのまま劉備の所にいれば、皇后になれた可能性が高いだろう。


 張裔は、いわゆるブラックユーモアとして即座に古典を引いて返答したのだった。


 孫権の高い笑い声は部屋の外にまで響き渡った。


 それを聞いた従者たちは、今日の主人がまた一段と上機嫌であることに頬を綻ばせていた。



***************



「この船は、どうしてもこれ以上の速度は出ないか」


 張裔はかいを漕ぐ船頭に対してそう尋ねた。


「いや、これ以上はどうやっても無理だ。そりゃ一時だけなら速くできるけどよ、バテちまって、結局は到着が遅くなっちまう」


「余分に銭を払っても、駄目か」


「銭の問題じゃねぇよ。無理なもんは無理なんだ」


「…………」


 張裔は焦っていた。


 蜀に帰るための船に乗っているわけだが、ただのんびりと水に揺られていればいいわけではなさそうなのだ。


(あれは間違いなく、孫権の従者だった)


 船着き場でそれを見かけたのだ。どうやら張裔を探していたらしい。


(……孫権の元へ連れ戻される可能性があるな。そして、呉で働くことを求められる)


 張裔は孫権と別れた時から、何となくだがそれを感じていたのだ。


 酒席で孫権からえらく気に入られてしまった。


 だから、もしかしたらそういう事もあるかと思って急いで船着き場まで来たのだが、追手も思った以上に早かった。


 張裔は櫂が四丁ついた船に飛び込み、かなり多めの銭を払ってすぐに船を出させたのだった。路銀は余分にもらっている。


 しかし孫権の従者は張裔の乗った船が出発したの見て、すぐに自分も別の船に乗り込んでいた。


 その船も元から用意されていたものではないだろうから、即座に出発はできないだろう。ただし、普通に進んでいたのではいつ追いつかれてもおかしくはない。


(なぜ愚者の振りをしなかったのか)


 張裔はそこまで気が回らなかった自分を責めつつ、船頭にまた尋ねた。


「とにかく最高の効率で船を進ませたいのだ。例えばだが、もう一人櫂を漕ぐ人間が増えたとして、順番に一人ずつ休憩しながら進んだとしたら、速度は何割程度上がるだろうか?」


 船頭は虚空に視線を漂わせながら考えた。


「そうだな……まぁ、頑張って二割五分ってとこか」


「そうか。私も一応は水軍の訓練を受けたから櫂を漕げるが、本職のあなた達ほど速くは漕げないだろう。訓練の経験から考えて、おそらく私が漕ぐ時の速度は二割五分程度落ちる……」


 張裔は頭の中で見通しを立てた。


 酒に溺れてはいたが、暇潰しと脱走への備えのために体は動かしていたのだ。その程度は漕げるはずだった。


「よし、私も漕ぎ手として加わって休憩を増やすから、そのつもりで速度を上げてくれ」


 船頭は首を傾げた。


「おいおい、休憩が増えて二割五分速くなっても、あんたが漕いで二割五分遅くなるなら意味がないんじゃないか?」


 張裔は多少のいらだちを覚えながら、その船頭から櫂を奪った。


「私が休んでいる間は二割五分落ちないだろう。その分だけ到着が早くなる」


 船頭は手を打って納得した。


「おお、なるほど」


「まったく、人の上に立つのなら常に効率の計算を……」


 張裔は船頭に対して小言を言いかけたが、櫂を漕ぎながらそれをすると漕ぐ効率が下がるだろう。


 そう思い直し、すぐに言葉を飲み込んだ。



***************



 成都城が見えてきた。


 張裔は馬上からその懐かしい城壁を眺め、長い長いため息を吐いた。


(帰ってきた……)


 そんな思いとともに脳裏をよぎるのは、やはりあの長身と涼しげな目元だった。


(丞相、私のことを覚えてくれているだろうか)


 張裔はまずそこから考えた。


 和平交渉にかこつけて自分の帰還を要望してくれたとは聞いていたが、本当に諸葛亮の発案かどうかなど分からない。


 しかも、数年の時を経ている。その間に益州の状況も大きく変わっているだろうし、自分はすでに不要の存在になっているのではないか。


 仕事がないかもしれない、そして自分の大切な人に忘れられているかもしれないという不安は、故郷に帰ってきたという心の暖かさに一本の氷柱つららを刺していた。


 門番の顔がぼんやり分かるところまで来た頃に、城門から一人の男が走り出したのが見えた。


 その男はこちらに向かって全力で走ってくる。


(背が高い)


 張裔はその男を遠目に見て、まずそう思った。


 そして反射的に馬を降り、張裔も走り出す。


「丞相!!」


 張裔はその職名を叫びながら、涙を流していた。


 二人は息を切らしながら、数年ぶりに互いの手を握った。


 互いの顔をしっかり見たいと思ったが、その視界は涙でぼやけてしまっている。


 諸葛亮も泣いていた。


「丞相、私のことを覚えていてくださったのですね」


「忘れるわけがないでしょう。私の判断が甘いために、死地に送り込んでしまった。その後悔を思い出さない日はありませんでした」


「涙をお拭きください。私は丞相に涙を流してもらうような価値のある人間ではありません。無能で、役立たずの人間です」


「何を言うのですか。張裔殿にはまだまだ役に立っていただきますよ。あなたの役職もすでに決まっています」


「役職が?それは何でしょうか?」


 諸葛亮は握る手に力を込めて答えた。


「私の副官です。張裔殿には、私の一番近くで働いてもらいます」


 その言葉に、張裔は思わず呆然とした。聞き間違いかと思ったが、完全に、しっかりはっきりと聞こえた。


「私が……諸葛亮の副官……」


 それは間違いなく、歴史に名を刻む存在になるはずだ。


「ええ、私の副官です。張裔殿も、組織では副官の方が仕事ができる必要があるということを知っているでしょう?これからはバリバリ働いてもらいますから、そのつもりでいてください」


 世界一仕事のできる男にそう言われた張裔は、自分の役割を思ってクラクラとめまいを起こした。



***************



 その後、諸葛亮は張裔を参軍(将軍などの幕僚)に任じて軍府の事務を統括させた。張裔はその高い実務能力を発揮し、諸葛亮の期待に応えた。


 諸葛亮はさらに益州治中従事じちゅうじゅうじを兼務させ、進んで射声校尉しゃせいこうい留府長史りゅうふちょうしなどといった重職にも就かせて張裔を重用した。


 この留府長史というのは、丞相が出陣中にその政務を代行する事を職務とする。つまるところ、諸葛亮は張裔に自分の代役をすら任せたのだった。


 そして数年後、張裔は遠征中の諸葛亮の元を訪れるために成都城を出立した。


 諸葛亮が留守の間のことは任せられているとはいえ、やはりうかがいを立てる必要のある事案は多い。また、文のやり取りでは細かい部分を詰めるのが難しかった。


 そういった事務処理のために、補給部隊に付いて前線へと赴くのだ。


 城門までの道には数百人もの人が並び、張裔を見送ってくれていた。


「張裔様は、多くの民に慕われておりますね」


 従者が誇らしげにそう褒めてくれた。確かに慕われていなければ、これほどの見送りはないだろう。


 ただ、張裔はそれが自分の徳によるものだとは思わなかった。


「全ては丞相の徳によるものだ。私はその丞相のために働いたから、このように慕われたに過ぎない」


「そうでしょうか?確かに丞相を悪く言う者はおりませんが……」


「そうだろう?国の最高職にあり嫌われることもせねばならないのに、ほとんどの人間から好かれている。よほどの徳だ。丞相は貴賤や近遠に囚われず、信賞必罰を忘れぬ方だからな。それ故に誰もが丞相のために働くのだ」


 従者は苦笑した。


 確かに諸葛亮を好いている人間は多く、諸葛亮のために働こうという者も多い。


 ただ、誰もが張裔ほどに慕っているかといえば、さすがにそうではないだろう。


「張裔様は……お幸せですね」


「……?どういう意味で言っている?」


「いえね。大切な人がいて、その人のために働ける人間というのは、そうそういないと思いますから」


「そうか……そうだな。確かに私は幸運なのだろう」


 張裔はつぶやくようにそう言い、自分たちの後ろに続く隊列を眺めた。


 そこには前線への補給物資を満載した木牛、流馬が並んでいる。


 これら諸葛亮の発明品によって、悪路の物資運搬は随分と改善された。


(こういったものを作れる人のもとで働けるのだ。これほど嬉しいことはない)


 往路、張裔はその幸運を噛みしめながら進んだ。


 が、長い道のりを越えていざ諸葛亮に会ってみると、久しぶりに会えた喜びよりも他の感情が強く湧いてきた。


 張裔は諸葛亮の顔を見て、挨拶の言葉を口にすることすら忘れてしまった。


「じょ、丞相!あまりに顔色が悪すぎます!相当なご疲労とは聞いていましたが、まさかここまでとは……」


「そんなにひどい顔をしていますか?私は元気なつもりですよ」


 青白い顔をした諸葛亮は笑顔を見せたが、それがまた力なく笑うものだから張裔の不安は大きくなるだけだった。


「少しお休みください。体を壊してはなんにもなりません」


「そうもいきません。今回の戦、私は勝てると思っています。しかしそれは全て私の想定通りにいった場合ですからね。一つの失敗も許されず、そのためには全力を尽くさなければなりません」


 諸葛亮はこの後も幾度となく北伐(魏との戦)を繰り返すが、この時の北伐は馬謖バショクという将の命令無視さえなければ勝っていたかもしれないと言われている。


 もともと働き過ぎと言われていた諸葛亮だったが、この戦ではほとんどのことを人任せにせず、あらゆることを自分自身で確認しながら進めていた。


「それは分かりますが……全てを丞相がやるというのは無理ですよ。人は休まず働き続ければ、死んでしまいます」


「働くのが好きな張裔殿がそう言うのなら、それは本当のことなのでしょうね」


「真実です。ですから私は丞相のために、このような書状をお持ちしました」


 張裔は一枚の紙を取り出した。


「それは?」


「私が聞き及んだ丞相の生活を、より効率的なものにするための改善案です。いくつか行動の順番を変え、仕事をまとめることで休む時間を多少なりと増やせるはずです」


 諸葛亮はそれを聞き、表情を明るくした。


「それは助かります!ありがとう……」


 と、礼を言いつつその紙を取ろうとした諸葛亮の手が空振った。


 張裔が紙を持ち上げてよけたのだ。


「これを渡すには、条件があります」


「……条件?」


「そうです。ただこれを渡しても丞相は空いた時間に仕事を入れるだけで、休息を増やさないでしょう」


「…………」


 図星だった。諸葛亮はそのつもりで喜んだのだ。


「この紙をお渡しする条件は、空いた時間の全部とは言いませんが、せめて半分を休息に回すと約束していただくことです。それが出来なければ渡せません」


 諸葛亮は張裔の瞳を見返した。


 真剣で、自分への好意にあふれ、そしてすがる様な眼差しだった。


 諸葛亮はうなずいた。


「……分かりました。約束しましょう」


「ありがとうございます」


 張裔は諸葛亮に紙を手渡した。


 手渡すと同時に、その手を素早く握った。


 そしてその手に力を込め、何か念じるように自分の額を近づけた。


「…………張裔殿?何をしているのです?」


 突然自分の手を取って拝むような姿勢になった張裔に、諸葛亮はいぶかしむような視線を落とした。


 そして張裔はというと、この男にしては珍しく、曖昧で揺れるような返答をした。


「その……気?のようなもの?を、送れないかと……」


「気?」


「いえ……なんというか、例えば私の寿命か何かを、丞相に分けられないかと思いまして」


 諸葛亮はしばらくキョトンとしていたが、突然弾けるように笑い出した。


 張裔の記憶にある限り、諸葛亮がこんな笑い方をしているのは初めてだった。


 諸葛亮はとにかく理性的な人間で、感情を抑えられないような笑い方をする人ではない。


 しかし今は可笑しいという感情があふれ過ぎて、理性の堤防を乗り越えてしまったようだった。


「気……気、ですか……あの超現実主義者の張裔殿が……こんな……」


 諸葛亮は痙攣するように笑いながらそう言ったが、張裔は大真面目だった。


 本気で自分の寿命の一部を諸葛亮に分け与えられないか、そう思って手を握っていた。


 張裔は生まれて初めて神に祈る人の気持ちが分かった。


 人は、自分の力ではどうにもならないことがあり、しかしそれをどうしても何とかしたいという願いが強ければ、こういった行動を取ってしまうのだ。


 超現実主義者で効率主義者の張裔がそうしてしまうほどに、諸葛亮は大切な存在だった。


 その諸葛亮は笑い過ぎて滲んだ涙をぬぐいつつ、まだ声を震わせていた。


「くっくっく……あぁ、お腹が痛い……しかし、こんなに笑ったのはかなり久しぶりです。本当に寿命が伸びたかもしれません」


「そうであれば嬉しく思います。丞相には、私よりも絶対に長生きしてほしいですからね」


 本当に寿命が移ったからでもないだろうが、張裔はこの二年後に没し、諸葛亮はさらにその四年後に没する。


 諸葛亮の張裔に対する信頼は終生揺るがず、張裔が亡くなるその時まで留府長史として己の政務を代行させた。


 ちなみに諸葛亮の死後にその跡を継いで国を主導した蔣琬ショウエンは、張裔の次の留府長史に当たる。


 もし張裔がもっと長生きだったなら、一時期でも蜀を背負って立つ存在になっていたのでは?


 ……などという夢想は、歴史好きの与太話程度には盛り上がるのではないだろうか。

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