第203話 傷跡と決断

 許靖は従者に別室へと案内され、食事が用意できるまで一人待った。


(何か……自分が思い描いていた展開とは違うことになったな)


 なんとも言えない妙な感情で座っていると、しばらくて従者から料理の用意が整った旨の連絡があった。


 運ばれてきた料理の膳は二つだ。それに劉璋がついて入ってきた。


「ご相伴に預かってもよろしいですか?」


 劉璋は問うたくせに、許靖の返事も聞かずに向かいへドシリと腰を下ろした。


「街の噂の報告を受けました。蜀郡太守、許靖殿はつい今朝方まで英雄だったのに、ほんの数刻で裏切り者扱いされているようですよ。もったいない」


 劉璋の言葉に、許靖は苛立ちを覚えた。


「人を殺せば英雄ですか。他人の未来を奪っておいて、讃えられるいわれがどこにあります。私が殺した人にも家族がいたでしょう。友人がいたでしょう。それらを悲しませれば英雄になれるのですか」


 許靖の言葉には棘があった。


 兵たちから英雄と言われても馬鹿馬鹿しさしか感じなかったのに、劉璋に言われると無性に腹立たしかった。


(劉璋様には英雄などと言って欲しくなかった)


 許靖の苛立ちの原因はそれだった。


 それが分かったからでもないだろうが、劉璋は特に言い返しもせず謝った。


「失礼しました、許靖殿の言う通りです。まぁ……とりあえず食べましょう」


 そう言って箸を取り、膳のものに手を付け始める。


「私は今朝ちゃんと食べたのですがね。許靖殿のおかげで、今日は一食分得をしました」


 そう言って、嬉しそうに料理を頬張る。


 許靖もやむなく食べ始めた。


 料理は籠城中ということもあってやはり質素なものだったが、口に入れてみるとこれが驚くほどに美味かった。


 食材を無駄なく使えるように野菜の皮や骨の多い小魚なども入っていたが、それらが邪魔にならないように、いや、むしろそれらの風味や食感を活かした絶妙な調理、味付けがされていた。


 また、少ない量でも満足できるようにか全体的にやや強めの味付けと、よく噛んで食べるような料理になっていた。ただ美味しく食べられればいいというだけの料理ではない。


(よく考えられている……そういえば城の料理人たちが民の間を回って、籠城中の調理のコツなどを教えていると聞いた。それも劉璋様の指示だな)


 劉璋は自ら料理人たちと籠城中の食事に関して研究をしていた。


 そして、それをきちんと民へ還元しようとしている。為政者のかがみだろう。


「美味い……」


 許靖は思わずつぶやいた。それは劉璋への賛辞でもあった。


 しかし劉璋はそこまで考えない。ただ料理に対する感想だと思った。


「今のを聞く限り、許靖殿は相当腹を空かしていたようですね」


「え?いえ、それほど……いや、確かにおっしゃる通りかもしれません」


 許靖は言われて初めて自分がかなりの空腹であったことに気がついた。事態が事態であったから、気が張りつめて空腹に気づく余裕などなかった。


「そうでしょう。もし今後、今回のような極端な考えに至りそうになったら、まずは腹を満たすべきです。喧嘩でも、戦でも、離縁でも、まず腹を満たして望めばそう極端な解決策を求めません。腹を満たしてから改めて考えれば、どんな事でも思い詰めていたほど大した問題ではないことに気づくのですよ」


 許靖は劉璋の弁に世の真理を感じた。


 確かにこうして腹を満たしてしまえば、その前後で心持ちはまるで違ったものになる。


 とはいえ許靖は戦の今後について、引いては多くの民の今後について劉璋に働きかけるべく来たのだ。


 目の前に人の生き死にがぶら下がっているのに、そうそう考えは変えられない。


「劉璋様、おっしゃることはごもっともですが、私は……」


「私に人を殺す経験をさせたかったのですね?」


 劉璋は許靖の言葉を遮り、許靖の意図を簡潔に言い当てた。


 図星を突かれた許靖の心臓がドキリと大きく跳ねた。


「私に人殺しを経験させて、そのおぞましさ、醜さ、苦しさを経験させようとした。人にもよるでしょうが、私ならば人が人を殺すということがどれほど異常なことか、理解できるとあなたは思った。そうすれば、これ以上の戦が止められると考えたのですね?」


「おっしゃる……通りです……」


 劉璋に自らの思惑を見事に言い当てられ、許靖は呆然とした。


(それほど浅はかな考えだっただろうか……?)


 そんなことを思っている許靖へ、劉璋は少し悲しそうな顔をして笑いかけた。


「許靖殿、私は人を殺したことがあります」


 少し遠い目でそう告白した劉璋は、どこか許靖の向こう側を見ているようだった。


「だからあなたの考えが分かりました。もうかなり昔になりますが、漢中で独立した張魯チョウロの母親が処刑されたという話は聞いたことがあるでしょう?あれは、私自らがこの手で殺しました」


 劉璋の言う通り、張魯の母親は息子が漢中で不服従を続けていることを理由に処刑されている。


 当然ここで息子だけでなく母親にも罪があったかという話になるが、これが意外にも無関係ではない。


 そもそも張魯が漢中を手にすることができたのは、その母が美貌と巫術を種に劉璋の父、劉焉リュウエンをたぶらかしたからだと言われている。


「私は敬愛する父を惑わせたあの女が憎かった。周囲にも煽られて、私自らが斬りました」


 劉璋は両手を開き、それを凝視した。手は小刻みに震えていた。


「慣れぬ者が、首など簡単に落とせるものではありませんね。今思えば可哀想なことをしました。何度も叩いた。痛かったでしょう……」


 劉璋は震える手を強く握った。握ってもなお、手は震え続けていた。


「許靖殿の考えた通りですよ。私はあれで、人が人を殺すことの異常さを知りました。戦など、極力起こすべきものではない。その時はそう強く思ったものですが……」


 劉璋は目を閉じて、奥歯を強く噛んだ。


 辛い記憶による苦しみと、それを活かせなかった自分への苛立ちで歯がギリリと鳴った。


「……長く政治に浸かった私は、結局はこんな様です。止められなかった。必死に止めようともしなかった。食事も喉を通らないほどのあの苦しさを、私は忘れてしまっていたのか……」


「劉璋様……」


 苦渋を滲ませる劉璋に、許靖は何の言葉もかけられなかった。


 自分自身、何を言われてもあの苦しみからは逃れられない。楽にしてあげられる言葉など思いつくはずもなかった。


 劉璋は震える手で、自分の膝を強く叩いた。その衝撃で目の前の膳がガタリと揺れる。


 劉璋は膳に最後に残っていた干し肉を睨みつけると、手掴みで口へほおりこんだ。


 よく咀嚼してから、それを飲み込む。そして力強く立ち上がった。


「許靖殿のおかげで、自分が刺史として何をすべきか思い出しました。感謝します」


 劉璋は許靖へと目礼し、それから従者に向かって命じた。


「主だった官吏を全て集めなさい。重要な話があります」

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