第190話 人間ではない

「あれは……人間ではない」


 張裔チョウエイは遠い目をして、つぶやくようにそう言った。


「人間では、ない?」


 許靖はそれを繰り返した。


 二人は張裔の執務室で向き合い、湯を飲みながら話をしている。


 本当は茶を淹れたかったが、戦時中でそう贅沢も言っていられない。実際には州で茶も確保してはいるが、先々に備えて出来るだけ節約することになっている。


 張裔は先日自分が率いた戦闘を思い出し、まずは呆然としてから、その後で歯噛みした。


 相手の強さが度を超えていたので、悔しさがこみ上げるのに時間がかかったのだ。


「そうですね……言い訳のようになってしまうかもしれませんが、まるで人間を相手にしているような気がしませんでした」


 張裔は劉備本人と戦ったわけではない。荊州から呼ばれた援軍と戦ってきたのだった。


 荊州から長江を遡って来た劉備の援軍は、巴郡の周辺をまたたく間に攻略していった。


 劉璋はこれを防ぐべく張裔を派遣したが、その勢いを止めることは出来なかった。


 敗れて帰ってきた張裔は敗軍の処理を済まし、ぐったりとしているところへ許靖が訪ねてきたのだった。


「それほどの相手でしたか、諸葛亮ショカツリョウという男は」


 許靖は張裔を下した敵の名を思い出していた。


 諸葛亮。荊州において、劉備に強く請われて仕え始めた男だ。


 世間では、孫権が曹操を大敗させた赤壁の戦いの立役者として認知されている。


 当時、孫権の陣営内では圧倒的な戦力を誇る曹操軍に対して降伏すべしとの論調が強かった。客観的に見れば賢明な判断だろう。


 そんな中、劉備との同盟を説いて徹底抗戦を決断させるのに一役買ったのが諸葛亮だ。


 許靖は諸葛亮に関し、相当な切れ者だという噂もは聞いたことがあった。


 しかし『人間ではない』と言われるまでの認識はさすがに持っていない。


 張裔はまた遠い目をして、先日の戦闘のことを思い起こした。


「まるで、こちらの意図を全てを読まれているかのような戦いでした。牽制には反応せず、本気で攻めた時には軽くいなされる。その一方で、こちらが攻められたくない時、攻められたくない所は必ず攻められます」


「なるほど、よほど頭が良い人間なのでしょうね」


「頭が良い、などという段階は遥かに超えています。あの男の一手は、それが五手先、十手先の布石だったりするのです。後からよく考えていみると、それがよく分かります。軍を引いた帰り道、私はいくつもそれに気がついて震撼しました……」


(それほどか……諸葛亮、恐ろしい男がいるものだ)


 許靖は張裔の話を聞いて恐怖した。その軍勢が許靖たちのいる成都へ迫っているのだ。気が気ではない。


 張裔は表情から力を抜いて、ふっと笑った。


「ですが、私も一矢報いてきましたよ。と言っても、弱い一矢ですがね。頭の良い人間なら気になりそうな罠の痕跡をいくつも残してきました。きっと諸葛亮だからこそ、慎重になるはずです。いくらかの時間は稼げると思います」


 張裔の軍は敗れたとはいえ、それほど大きな被害は出していなかった。そういったやり方で追い討ちされるのを防いだのだ。


 もちろん守る側の成都城にとっても、時間が稼げるのはありがたい。


 許靖は張裔らしい実利の取り方に感心しつつ、ふと聞きたかったことを思い出した。


 それも今日ここへ来た目的の一つだったのだ。


「そういえば、厳顔殿はご無事でしょうか?巴郡は張飛殿に攻められて落ちたということでしたが……」


 劉備の援軍として来た武将は諸葛亮だけではない。張飛、趙雲という歴戦の英傑たちも長江を遡って来ていた。


 諸葛亮、張飛、趙雲はまず巴東郡を落とし、その後は手分けをして各地を平定して回った。厳顔の守っていた巴郡はすでに張飛によって落とされている。


「厳顔殿はご無事なようですよ。確報ではありませんが、捕らえた敵兵からそういった話を聞きました。正面からぶつかり合って負けたのではなく、罠にかかって捕らえられたとのことでしたので」


 張裔は許靖を安心させるように笑って答えてくれた。


 許靖もそれで胸をなでおろした。これは戦で、厳顔は武人であるとはいえ、やはり親しい者の安否は気にかかる。


(とはいえ罠にかかって、か……厳顔殿の悪いところが出たのかもしれない。あの大岩は転がり始めるとなかなか止められないからな)


 許靖は以前にその大岩の転がりに巻き込まれて大アザを作った頬をなでた。


 張裔はさらに笑みを深めて話を続けた。


「無事などころか、張飛に気に入られて賓客のように扱われているという話です。恐らく戒厳令の私たちよりも良い生活を送っていますよ」


「あぁ……確かに、あの二人は気が合いそうです」


 厳顔の「天地」は大岩で、張飛の「天地」は地だ。性質が似ている分、気が合いやすかったのだろう。


 張裔は許靖の顔をまじまじと見直した。


「許靖様は劉備軍の武将たちと過去に面識があるのですよね?」


「面識、と言っても劉備殿、張飛殿、関羽殿の三人だけです。しかも、それはもう二十年以上も前のことですよ」


 許靖は改めてその時のことを思い出した。


 まだ若かった彼らの瞳の奥の「天地」は、関羽が天、張飛が地、劉備が人だった。


 天地人


 その三文字は、中国では古代より世界を表す単語だった。


(あの三人が揃えば、そこに一つの世界が生み出される。それはとてつもない力で、案の定あの三人はこの乱世を駆け上ってこれほどの群雄になった。そして今、また一つ羽化しようとしているように思える。もしかすると、世界の『道標みちしるべ』を見つけたのかもしれないな……)


 許靖は過去に劉備から『自分たちに足らないものを教えてほしい』と請われて、『道しるべを見つけるように』と助言したことがある。


 天地人。劉備たちは三人で世界を作れるほど大きな力を持っているが、世界はただ世界でしかなく、そこには良いも悪いもない。極端な話、世界はその存在自体に意味も目的もないのだ。


 だから世界の『道標』を見つける。それがあれば、きっと劉備たちは世に意味を持って存在できるようになるのだと許靖は思った。


(事実、劉備殿たちは大きな実力がありながら、放浪軍のようにあちこちを渡り歩いていたということだ。しかしここに来て、はっきりとした目的を持って動き始めたように感じる)


 その目的が何なのか許靖には分からなかったが、出来れば益州を攻めるような道程は止めて欲しかった。


 が、そんな事は思っても詮無いことだ。


 許靖は湯を口に含み、飲み下してから大きくため息を吐いた。


 そんな許靖へ、張裔が冗談めかして言った。


「お知り合いなのなら、一つ許靖様だけで降伏してみられたらどうです?きっと厳顔殿以上に厚遇してもらえますよ」


 許靖は張裔へキョトンとした瞳を返した。


 正直な所、劉璋が降伏してくれないかという期待を持ったことはある。しかし自分だけで降伏、という選択肢は考えたこともなかった。


 許靖は笑い声を上げた。


「そうですね、私だけで成都城を脱け出してみましょうか」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る