第137話 誤解

 その日、許靖は小鳥たちのさえずりで目覚めたのだと思った。


 しかし、よくよく聞いてみると小鳥の声ではないように思う。


 交州に来てもう数年を過ごしているが、どの季節にもこんな鳴き声の鳥には出会わなかった。


(なんの声だろう)


 寝ぼけてはっきりしない頭を持ち上げて、窓の外を見た。もうだいぶ陽が高い。どうやら寝過ぎてしまったようだ。


(昨日は少し頑張りすぎたな)


 昨晩は士燮シショウへの人物鑑定の報告書を作るのに、随分と根を詰めてしまった。仕事はできるだけ気持ちが乗っている時の方がいいと思い一気に仕上げたが、予想以上に時間がかかった。


 今日は特に予定もないのだが、遅く寝て遅く起きるのは体にも良くない気がする。


 まだ麻痺したような頭と体を寝具から下ろし、水場へと向かう。


 その途中、屋敷の中から複数の笑い声が聞こえてきた。どうやら女性の声のようだった。


(お客さんが来ているのかな)


 誰だろうとは思ったが、許靖はとりあえず顔を洗い口をゆすいで服を着替えた。


 それから声のする部屋へ行ってみる。


「あ、許靖さん。おはよう」


 許靖にまず気づいて軽い挨拶を発したのは、凜風リンプウだった。


 その隣りで翠蘭スイランが立ち上がり、頭を下げてくる。


「許靖様、お邪魔しております。朝早くから失礼いたします」


 もう朝早いという時間でもないが、翠蘭は礼儀正しくそう挨拶した。


「あなた、おはようございます。昨晩は遅かったみたいですし、まだ休んでいらしてもいいんですよ」


「ごめんなさい、私たちの声がうるさかったかしら」


 そう立て続けに言ったのは、花琳と小芳だ。その隣りには芽衣もいる。


 女五人が客間に集まり談笑していた。許靖はその声で起こされたのだった。


「いや、小鳥のさえずりで起きたんだ。気にしないでくれ」


 女の談笑も小鳥のさえずりも、同じようなものだと許靖は思った。


 この五人は仲が良く、たまにこうして集まってお茶会をしている。


 許靖からすると、よくもまぁこれだけの時間を話するだけで潰せるものだと思うが、この辺りは性ある生物の妙といったところだろう。


 花琳は立ち上がって台所へと足を向けた。


「朝食を用意しますね」


「いや、自分で適当に食べるからいいよ。せっかくのお茶会だ。楽しんでいてくれ」


 花琳にとってこの面子での歓談が何よりも楽しい時間であることを、許靖はよく知っている。邪魔したくはなかった。


「いえ、そういうわけには……」


「いいから。もうお昼も近くなってしまったし、あまり食べるつもりもないんだ」


 許靖はそう言いながら花琳を席へと押しやって座らせた。


「そう、じゃあお言葉に甘えさせてもらいますね。でもあなた、実はもう一つ甘えたいことがあるのだけれど……」


 花琳は少し言いづらそうに口をまごつかせた。


「なんだ?遠慮せずに言ってくれ」


 許靖はそう言ったが、それでも言いづらそうな花琳に代わって小芳が口を開いた。


「この五人で港町へ旅行に行きたいんです。道場の生徒さんから興行の特別券をいただいたので」


「興行?」


「そうです。芝居や軽業かるわざ、手品、雑技、色々やるらしいんですけど、とっても有名な一座が来るんですよ。前に道場の生徒さんが結婚するのに、私が衣装とか化粧とか色々お世話をしてあげたじゃないですか。その謝礼として、良い席の券をくれたんです」


 生徒の結婚の話なら許靖もよく覚えている。覚えているどころか、例によって許靖が結婚相手を世話したのだ。


 今のところ夫婦仲は上手くいっているようで、許靖自身も随分と感謝された。


 小芳は運動のために道場に参加することもあるので、生徒たちとも顔見知りになっていた。


 服飾や化粧について詳しい小芳は、女性陣の中ではちょっとした人気者だった。


 特に交州の女性は中央への憧れがある者も多い。ただでさえ避難者の女性は洒落て見えるのに、その避難者の間でも洒落者と言われる小芳には、もはや尊崇の念すら抱く者もいた。


「本当なら許靖さんもと思うんですけど、券が使える日取りが十日後の前後二日で……」


「ああ、それだと私は無理だな」


 許靖は十日後に袁徽と共に少し大きめな講義を予定している。今からの日程変更は難しいし、港町までの往復を考えるとまず無理だった。


「陶深も無理なのか?」


「そうなんです。あの人も十日後までに納品しないといけない仕事が詰まってるらしくて」


(そうでなくとも、女五人のほうが楽しいだろう)


 許靖はそう思った。むしろ自分と陶深はいないほうがいい。


「私に気兼ねする必要はないよ。何日でも行ってくるといい。興行だけじゃなく、港町の観光を楽しんできなさい」


 港町は日々寄港してくる船の水夫たちが銭を落としてくれるため、あらゆる娯楽が揃っている。


 許靖たちも交州へ来たばかりの時に一度案内はされたが、観るものや遊べる所はたくさんあったはずだ。


「ありがとうございます。そう言っていただけると助かります」


 花琳は夫が断らないことは返事を聞かずとも分かっていたが、それでも安堵と感謝の笑みをこぼした。


 その隣りで芽衣と凜風、翠蘭の三人が嬉しそうに手を合わせている。


春鈴シュンレイユウは連れていきますから、ご心配なく」


 許靖は言われて初めてそのことに気づいた。


 許靖自身は独身時代、一人暮らしの経験もあるので大抵のことは自分で出来たが、確かに孫たちを置いていかれると大変だろう。


 春鈴も許游も、もうずいぶん動き回るようになったから目が離せない。


「でも春鈴と游がいたら花琳たちが楽しめないだろう?」


「いえ、胡能コノウさんのお宅の奥様にお願いできると思います。以前にもそんな事をおっしゃって下さっていたから」


 なるほど、と許靖は思った。


 胡能は港町で様々な事務処理を行う役人だ。世話好きな男で、許靖たちが交州に来たての時にも親切にしてもらった。


 その後も仕事でたまに城下町までやってくるので会っていたが、相変わらず様々な世話を申し出てくれる。本人も妻も、人に色々としてやるのが楽しいというような夫婦だった。


「あそこなら春鈴も游も楽しいだろうな。私たちがあそこのお宅に世話になった時も、五人の子供たちがずっと二人にかまってくれていた」


 それに、春鈴も許游もまだ母親と長く離れるのは不安な齢だ。できれば連れて行った方がいいのは間違いない。


「じゃあ後は、趙奉チョウホウ殿と袁徽エンキ殿の許可をちゃんと取って……」


 許靖がその言葉を言い終わる前に、玄関からおとないを知らせる声が聞こえてきた。


 聞き覚えのある男の声だった。


「……あの声は士燮様の側仕えの方だな。私が出よう」


 許靖は立ち上がりかけた花琳を手で制して、玄関へ向かった。


 玄関では思った通り、士燮の使用人の男が立っていた。


「許靖様。お休みのところ申し訳ございませんが、士燮様がお呼びです。出来るだけ早くお越しいただくよう仰せつかっていますので、そのようにお願いできないでしょうか」


 男はかなり急いできたようで、言葉は丁寧だが息を切らせている。額には汗の玉が浮かんでいた。


(よほどの急用らしい)


 許靖はもちろん了承したが、男の様子を見て朝食を摂ることは断念した。

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