第117話 大切なこと

 翌日から許靖は毎朝甲板に出て、花琳の指導のもと体を動かした。


 十日以上ほぼ寝ていたので、自分でも驚くほど体が動かなかった。


 しかもまともに食べていなかったため、筋肉が体に食い尽くされている。今まで見たことがないほどに手足が細くなっていた。


 花琳はまず、硬くなった体をほぐすことから始めた。花琳に押されながら筋をほぐしていると、気分転換に甲板に出てきた乗員の多くから声をかけられた。


「許靖様、お部屋から出て来られるようになったのですね。本当に良かった」


 多くの人がそう言ってくれた。


 許靖と許欽の親子は船を救ってくれた英雄だ。その英雄が息子を失った悲しみで臥せり、まともに動けず食事も摂れないという話は船中が知っていた。


 心配してくれていた人々が許靖回復の話を聞き、快気の祝いと守ってくれた礼とを言いにあらわれた。


 人々の笑顔を見て、許靖は息子の死が無駄ではなかった事を改めて知ることができた。もちろん親としてはそれよりも生きていて欲しかったが。


 許靖が運動しているところに多くの人が来ると、面白いことが起こった。


「なるほど、健康のために体を動かしているのですね。私もずっと船に乗っていると、体を悪くしそうだと思っていたんです。一緒に運動させてください」


 そう言って許靖と花琳に加わる人が多く出たのだ。


 しかも乗員の多くは会稽郡から乗っているため、花琳が女だてらに武術を教えていた事を知っている人も多い。良い機会だから護身のために学びたいという声が上がった。


 甲板の上では、毎日武術教室が開かれるようになった。


 健康のためにも良いし、船酔いに苦しんでいる人間にとっては気を紛らわせるのにも良かった。中には熱中している内に船酔いを忘れてしまったのか、全く酔わなくなった人間もいた。


 船長である陳覧も乗員に勧めた。


「船室に籠もっているのは心身に良くない。それに新人の船乗りも吐きながら仕事に追い回されて、気づけば船酔いしなくなってるものだ。少なくとも気を紛らわせるのにはいいだろう。だが、体調が悪くなるようなら止めろよ」


 そう声を掛けて回った。


 許靖は意外なところで子供たちの人気者になっていた。許靖のおかしな突きの動きを、子供たちが面白がって真似をし始めたのだ。


「こら、ちゃんとした動きを覚えなさい」


 花琳は子供たちにそう言ったが、言いながら花琳自身も笑ってしまっている。


 許靖は頭を掻きながら芽衣に尋ねた。


「どこがどう悪いんだろう?直そうと思えば思うほど、変な動きになるんだ」


 芽衣もグネグネと妙な動きする義父に、肩を震わせた。


 突きをしているというか、新種の生物にでもなったようだった。


 芽衣が肩を震わせるので、二人の赤子もその腕の中で震えている。


「……許靖おじさんは、多分動きがどうとかの問題じゃないんだと思うよ。突きって拳をぶつけて相手を倒す動きだけど、許靖おじさんはそういう想定なしで動いているでしょ」


 つまり、仮定でも相手を倒す気で動こうとすれば、体もある程度それに適った動きをするということだ。


 許靖の意識には誰かを傷つけようという仮定がないから妙な動きになっているのだと言う。


「なるほど……難しいものだな。お前たちは祖父のように間の抜けた人間になったらいけないぞ」


 許靖はそう言って赤子たちの頬をつついた。


 芽衣はその様子に安心したように息を吐いた。


「許靖おじさんは、赤ちゃんが嫌いなのかと思った」


 許靖が部屋に籠もっていた時、春鈴シュンレイ許游キョユウを拒絶しているように見えたから芽衣は不安だったのだ。


「そう思わせたならすまなかった。私のせいでこの子たちの父親が死んだのだと思うと、辛かったんだ。今でもそう思うし、芽衣に対しても本当に申し訳ないと思っている」


 許靖は素直に自分の思いを伝えた。花琳とそう約束したからだ。


 芽衣は許靖の目をじっと見返してから、ゆっくりと口を開いた。


「謝倹さんの屋敷で私たち、一回死にかけたでしょ?その時あと一回でいいから欽兄ちゃんを抱きしめたいって願ったの。でもあの時、許靖おじさんや欽兄ちゃんが頑張ってくれて、それが叶った」


 許靖も三年前のあの日のことはよく覚えている。あの時も助けに行く道中、後悔ばかりが心を埋めつくしていた。


「今回も欽兄ちゃんが死ぬ時、あと一回でいいから声を聞きたいって願ったの。そしたら欽兄ちゃん、脈が止まってるはずなのに目を覚まして、私とこの子たちに声を聞かせてくれた。抱きしめて、大好きだって言ってくれた。だから、私は恵まれているんだと思う」


 許靖は芽衣の言葉に何も返さなかった。


 芽衣もそれを望んでいるとは思えなかったし、これは芽衣が夫の死を受け入れるための、芽衣自身の心の問題なのだ。


「誰も許靖おじさんが悪かったなんて思ってないよ。欽兄ちゃんはとっても素敵な人で、死ぬまでにたくさんの人を幸せにしてくれた。それでいいじゃない」


 芽衣は指にはめた指輪に触れた。そこには最愛の夫の名前が彫ってある。夫がそこにいるような気がして、少しだけ幸せな気持ちになれた。


 許靖は芽衣の言葉に涙が溢れてくるのを感じた。


 しかしその涙がこぼれ落ちる前に、花琳の気合の声が響いてきたのでそちらを向いてごまかした。


 見ると、花琳が船の護衛兼船員の男を投げ飛ばしている。ここ数日行われている、鍛錬の組手だ。


 しかも、今日は五人が同時に花琳へとかかっているらしい。


 花琳は複数の男たちを物ともせず、華麗に立ち回って次々に倒していく。周りの人間たちから驚きと称賛の声が上がっていた。


「……もしかして、私と欽が何もしなくても花琳が全員倒したんじゃないかと思ったりもするんだがな」


 許靖のつぶやきを芽衣ははっきりと否定した。


「それは素人考えだよ。しっかり武装した数百人の兵士相手に、私たちを守りながら戦えるわけがないでしょ。相手にも強いのがいるかもしれないし、少なくとも花琳ちゃんが戦ってる間に私たちは皆殺しだよ」


 芽衣がそう言い終わる頃、花琳は最後の一人を驚くほど高く投げ上げていた。そして怪我をさせないように、地面につく前に両腕で受け止める。


 まるで雑技団の芸を見ているようで、歓声と拍手とが甲板を満たした。


「……まぁ、もしかしたら花琳ちゃん一人だけなら何とかなったかもしれないけど」


(いや、まさか)


 許靖は自分で言い始めておきながら、心中で芽衣の発言を否定した。


 しかし日々強くなっていく花琳に対し、いつか聞いた『一騎当千』という言葉が浮かんでくるのだった。

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