第97話 折衝
許靖達は眉をしかめて耳を塞いだ。
そうしていても、耳がおかしくなるのではないかというような声量だった。
「……なかなか出てこないな」
王朗はそうつぶやいた。
この言葉はごく普通の音量だったから、許靖は油断して耳から手を離してしまった。しかしその瞬間にまた大声が上げられ、鼓膜に痛みを覚えて顔を歪めた。
「謝倹!出てきて話を……」
「出てきたぞ王朗!一体何の用だ!?」
閉ざされた門の向こうから、王朗ほどではないにせよかなりの声量の返事が返ってきた。
王朗と許靖は目を合わせ、互いに頷いた。
「謝倹!お前の仲間たちが私を襲ってきたことに関してだが……」
「なんの事だ!そんな事はしていない!俺は、俺の店からお前らが勝手に消えたという事を聞いているぞ!」
謝倹はまずそうやって言い逃れをしてみるつもりだった。
それが通るかどうかは分からないが、実際に太守襲撃は未遂で終わっているのだ。付き人を捕まえてどつき回しはしたが、太守自身には何もしていない。
王朗と許靖にとって、その反応は予想済みだった。
そしてそれ一本で来られるとなかなか厄介な話で、下手をすれば許欽を亡きものにしてすべてを隠そうとする可能性もあるだろう。
謝倹は声を上げ続けた。
「太守がやってもいないことで人を罰するのか!?無実の罪で人を裁くのか……」
「待て!まずは話を聞け!」
王朗は謝倹に勝る大音声でその言葉を遮った。
「私は条件次第ではお前の襲撃を不問に処すつもりでいる!それどころか、条件さえ満たせば太守の地位もお前に譲ろう!」
「……何?」
謝倹は一瞬、王朗の言葉の意味を理解できなかった。この男は何を言っているのだろう。
(太守の地位を譲るだと?)
「お前、何を言って……」
戸惑う謝倹に構わず王朗は言葉を続けた。
「太守の地位を譲る条件は三つだ!まず一つ目は、お前の捕らえているであろう私の付き人とその知人女性を開放すること!無事でいるだろうな!?先ほどお前自身が無実の罪どうのと言っていたんだぞ!」
「見くびるな!付き人の方は都合で多少の怪我をさせちゃあいるが、命までは取らねえよ!」
謝倹は反射的に答えてしまってから後悔した。襲って付き人を捕まえた事を自白したようなものだ。
(知人女性ってのが芽衣か。今どこにいるかは分からないが……あの付き人を助けに来たのなら、屋敷のどこかにいるだろう)
謝倹はそれについてはあまり心配していなかった。今は屋敷に人を集めているから、すでに捕まっている可能性も高いだろう。
「ならばそれは良し!……では二つ目の条件だが、郡の成人男女すべてに私とお前、どちらを太守に望むか票を入れてもらう!お前の票の方が多いことが条件だ!民がお前を望むなら、私も太守でいる理由はない!」
(なるほど、こういう男か)
謝倹はそう思った。
この男の言葉は信じるに足る。声を聞いて、そう感じていた。
だから『民が謝倹を望むなら自分は太守でいる理由はない』という言葉で、王朗の人間性が見えたように思った。
謝倹は少し考えた。自分の方が票を多く取れるだろうか?
(おそらく取れるだろう。王朗の評判が良いと言ったって、所詮はよそ者だ。親父のことを慕ってくれる人間は多いし、地元民である俺の方が有利だ)
謝倹はそう思った。
「……いいだろう!その条件も飲める!三つ目は何だ!?」
王朗はひと呼吸おいてから答えた。
「最後の条件は、お前のお父上である
謝倹は笑った。
この男、親父の許諾と言ったか。親父が自分のことをどれだけ溺愛しているか、知らないのだ。
(俺にとことん甘い親父が、俺の太守就任を拒むはずがない)
「分かった!その条件も飲もう!だが、お前は今の話をどう保証するつもりだ!?」
謝倹は王朗の言葉を信じるつもりでいたが、念のためそれを聞いた。
王朗は曇りのない声で答えた。
「今ここにいる兵、お前の屋敷の人間たち、かなりの人数がいるが、全てが証人だ!私はその証人たちの立会いのもと、天地身命・父祖の名誉にかけて誓おう!」
この大音声だ。屋敷周辺の全ての人間に聞こえているだろう。
謝倹は満足した。
「分かった!俺も了承する!」
王朗の隣りで、許靖はとりあえずのだが、安堵の息を漏らした。
しかし、許欽が帰ってくるまではまだ安心できない。
「ではまず、私の付き人とその知人を返してもらおう!」
王朗の言葉に応え、謝倹は近くの仲間に命じた。
「例の付き人を連れてこい。それと、酔っぱらいの女が屋敷のどこかにいるはずだからそれも探して……」
「その女でしたら離れの広場で大立ち回りを演じてるって話ですよ。無事ならいいですが……」
「何!?」
(……さすがに女相手に殺すようなことはないだろうが)
芽衣の強さをその片鱗しか知らない謝倹はそう思ったが、念のため仲間を走らせた。
それからだいぶ待ったが、なかなか二人は現れない。
謝倹がしびれを切らして自分が行こうと思った時、許欽と芽衣がお互いを支え合うようにしてゆっくりと歩いて来た。
謝倹は芽衣の様子を見て絶句した。着物はぼろぼろで、露わになった肌も傷ついている。
(女相手にこうまでしなくちゃならなかったのか!)
やった人間を後でしめてやろうと思った。
許欽も謝倹が見た時よりも、明らかに重症になっているように見える。
(……まぁ、死んじゃいねえから条件は満たしてるよな)
一抹の不安を覚えながら、謝倹は門を開けるよう命じた。
すぐに許靖、花琳、陶深、小芳の四人が許欽と芽衣に駆け寄ってきた。
ぼろぼろになったそれぞれの子供を抱きしめる。
小芳が泣きながら芽衣の頭を撫でた。
「この子は……なんて無茶するのよ!」
「ごめんなさい。でもそれより、欽兄ちゃんを早くお医者さんに診せて。背中に穴があいてるの」
許欽を抱きしめていた花琳は、ゆっくりとその場でうつぶせに寝かせた。
「軍医を!」
王朗の命令ですぐに軍医が駆けつけた。服を破り、すぐに治療が始まる。
謝倹は王朗に向かって正直に謝った。
「すまない、多少の怪我じゃなかったみたいだ。俺が見た時にはこうじゃなかったんだが……」
謝倹の仲間が来て耳打ちした。
「……いま仲間から聞いた話じゃ、背中の刺し傷はぎりぎり筋肉までで止まっているみたいだ。恐らくだが、命に別状は無いらしい」
王朗が軍医の方を見ると、その見立てに軍医も同意らしく頷いて肯定した。
王朗は少し考えてから口を開いた。
「……お前の言う通り命に別状がなければ、一つ目の条件は満たしたこととしよう」
「すまない」
謝倹としても不本意なことだったので、再び謝った。
「では、三つ目の条件も今片付けておきたいのだが良いか?」
王朗は後ろを振り返った。
その視線の先から、一人の男が歩み出てきた。
白髪混じりのその男は、齢の割に腕が太く、たくましい体つきをしていた。
「親父!?」
謝倹は驚いた。まさか父の
謝煚は無言で息子へ向かって歩いて来る。
謝倹は驚いたが、嬉しくもなった。自分は太守になるのだ。父も自分を誇ってくれるはずだと思った。
「親父、喜んでくれ!俺は太守になれるんだ!あんたの息子が、会稽郡の太守になるんだよ!」
謝倹の満面の笑顔は、しかし父親の太い腕から繰り出される鉄拳で歪められた。
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