第64話 心

 その日、花琳は結婚して初めて夫の帰宅を絶句で迎えることとなった。


 毎日必ず『おかえりなさい』を言って迎えてきたのだ。しかし、今日それを口にすることはできなかった。


 無理もない。許靖の衣服は血まみれで、しかも見知らぬ女と子供あわせて十人ほどを連れている。全員がやつれきっており、目に力がなかった。


「花琳、この人たちを奥で休ませてくれ。それから、気持ちが落ち着くようなお茶でも出してあげてほしい」


「……それは分かりましたが、お怪我は?」


 花琳はかろうじてそれだけを口にできた。


 本当ならば色々と聞かなければならないことがあったはずだが、混乱してうまく言葉が出てこない。


「私は全く大丈夫だ。とりあえず湯浴みをしてくる」


 それだけ言うと、許靖は浴室へと向かった。


 が、すぐに引き返し花琳の耳元に顔を寄せ、小声で付け足した。


「もしかしたら、自ら命を絶とうとする人がいるかもしれない。注意して欲しい」


 花琳はうなずいて、女性たちを部屋の奥へと案内した。そしてさり気なく部屋の小さな刃物や紐などを片付けてから、茶を淹れてやった。


 湯浴みを済ませて服を着替えた許靖は花琳を別室に呼び、手短に事情を伝えた。


 あまりにも凄惨なことなので具体的には話せなかったが、周毖シュウヒの親族が皆殺しにされそうになったこと、許靖の反抗心を削ぐために目の前で男たちが殺されたこと、許靖の取りなしで女子供たちは助命されたこと、そして女子供たちが許靖に下賜かしされたことなどを話した。


 許靖が自らの手で男たちを殺したことは話せなかった。許靖自身もまだ受け止めきれないでいる。


「なるほど……董卓様は噂以上の方ですね……」


 花琳は血を浴びるほどの距離で虐殺を見せられた夫を思い、心を痛めた。


 花琳自身は許靖のことを強い人だと思っているが、少なくともこういう行為に対する強さではない。


 だから夫の手に自らの手を重ね、優しく力を込めて、よくよく考えてから言葉をかけた。


「……あの方たちが下賜されてあなたの所有物になったということは、若い女性は妾になるということですね。お綺麗な方も何人かいました。けます」


 花琳はおそらく冗談を言って許靖を慰めようとしたのだろう。


 しかし色んな意味で冗談には聞こえず、許靖は苦笑いもできなかった。


「花琳、あの人たちの世話という名目で小芳さんと美雨さんを呼び出してほしい。例の計画を明朝にでも実行するから、それを伝えよう」


「明朝ですか?確かにいつでも出来るように手配はしてありますが……」


「おそらく今回の件で私に対する監視が強化される。その体制がしっかりと確立してしまう前に洛陽を出た方がいい」


 例の計画、というのは洛陽から脱出する計画のことだ。


 許靖は曹操と袁紹に脱出の算段をつけておくことを提案したが、当然自分に関してもその計画を立てていた。


 計画では許靖の家族だけではなく、関係の深い小芳・陶深の家族や美雨・習平の家族も同時に脱出できるよう手配してある。


 とばっちりを食らうのを防ぐだけではなく、今後の洛陽の状況に大きな不安があるため皆で逃げることにしていた。


 現状でも董卓の兵たちによる暴力、略奪が目に余る。習平の店は早めに隊長級の兵へかなりの銭を渡していたので大きな被害はなかったが、大抵の店は何がしかの被害を受けていた。


 店を経営する習平に関しては、脱出自体が店の放棄に繋がる。だから損失ができるだけ少なく済むよう、すでに資産を出来るだけ外に逃がしてあった。


 残される従業員へもある程度の銭が渡るよう手配済みだ。それに、最低限の在庫は店にあるので誰か店を続けたいものがいれば、それも可能なはずだった。


 脱出計画はかなり周到に練られている。店の商品の物流に便乗したり、陶深の装飾品の愛好家を頼ったりすることにしていた。


 陶深には熱心な愛好家が幾人もついており、有力者も多いのであらゆる場面でかなりの融通が利かせられた。


 脱出計画に関係する人間が信頼できるかどうかは許靖がある程度鑑定できる。その上、要所々々の役人には早くから鼻薬を利かせておいた。


 計画には想定外の事態がつきものだが、所々で何かあった場合の対処も話し合っており、二重三重に予防線を張っている。脱出計画はこれ以上ないほど万全の出来だった。


(……はずだったのだが、さっそく問題が起こったな)


 そう思い、許靖は軽い頭痛を覚えた。


 花琳は目に力を込めて許靖に確認した。


「ということは、周毖様のご親族はここに置いていく、ということですね?」


 計画は多少の人数が増減することも考えて、ある程度の余裕を持たせてある。


 しかし、十人の追加は多過ぎだった。しかも周毖の親族には乳飲み子までいる。


「いや、全員を逃がす。悪いが、連れて行ってくれ」


 許靖の回答をほとんど予想していたとはいえ、花琳はため息をついた。


「無理です。いくらなんでも多すぎます」


「しかし、彼女らには私以外に何の保護者もいない。董卓の兵たちはただでさえ奪い、傷つけることに躊躇がないんだ。保護する者がいない人間をどう扱うかは目に見えている」


 許靖の言い分に花琳は苛立ちを覚えた。


 それは分かっているが、分かっていてもどうしようもないことなのだ。


「何と言われようと、無理なものは無理です。出来ないことは出来ません」


「いや、出来る」


 そう断言する許靖に、花琳は嫌な予感がした。


「私一人が残る。そうすれば監視の目は私の方に向いているから、かなり動きやすくなるはずだ。十人程度なら何とかなるだろう」


 花琳は再びため息をついた。


 許靖の目を見つめた後、しばらく目を伏せて視線を床に這わせた。


 どのくらいそうしていただろう。


 花琳はやがて決心したように、もう一度大きなため息をついた。


 それから目を閉じて、大きくうなずいて見せた。


「……分かりました。ではそのように手配します」


 そう言って、許靖が惚れ惚れする所作で踵を返した。


 許靖は部屋を出ていく花琳の背中へ感謝を伝えた。


「ありがとう。無事で、元気でいてほしい。愛しているよ」


(花琳の瞳の奥の桜も、もしかしたら見納めかもしれないな……)


 許靖はそう思い、瞳を見たくて声を掛けたのだが、最愛の妻は足を止めただけで振り返りはしなかった。


 花琳はしばらく背を向けたままうつむき、やがて何も言わずに歩き出した。

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