第44話 花神の御者

 もうすぐ陽が最も高くなろうかという時間、許靖は花琳と許欽キョキンを連れて行きつけの食堂に顔を出した。


 そこは自宅からそう遠くないところにある食堂で、王順の店の三番番頭だった習平シュウヘイが経営している店だった。


 そしてその隣りにも、同じく習平が経営する雑貨屋が建っている。


 いや、『食堂の隣りに雑貨屋が建っている』と言うよりも『雑貨屋の付属品のように食堂が建っている』と言った方が正確な表現だろう。雑貨屋はかなりの規模だが、食堂はこじんまりとした店構えだ。


 形式上、両方の店で習平が経営者ということになっているが、実質的には遠距離ながら王順の経営する店だ。


 開店資金も王順が出していたし、経営に関しても重要な部分は王順の指示を仰ぐことになっている。


 王順は娘の花琳の結婚が決まったあの宴の最中、頭の中では洛陽らくようでの新規開店をすでに考え始めていたらしい。翌日には下準備を開始していた。


 首都たる洛陽で小さくない店を開くのだから、当然かなり大きな投資になる。しかし王順は失敗することなど全く考えていなかったようだ。


「確実に良い従業員を雇えるし、取引先の人間が信用できる者かどうかも分かるのだ。これで商売に失敗するはずがない」


 巨額の投資に関して心配する周囲に、そんなことを話していたらしい。


 つまる所、許靖に従業員や取引先を選別させようというのだった。許靖の人物鑑定眼があれば商売で最も大切な『人』を見誤ることはない。そう踏んだ。


 そして義父の依頼を断るわけにもいかない許靖は、まったく思惑通りの働きをしてくれた。


 許靖の選んだ従業員はよく働き、客への対応も丁寧で評判が良かった。取引でも大きな失敗をしたことはほとんどない。


 習平もよく働き、店は繁盛していた。


 王順のいる豫州よしゅうの物産も上手く捌けたし、物の集まる首都に支店のようなものがあれば豫州の方でも仕入れなど所持都合が良かった。


 王順は洛陽での店舗経営でかなりの利を上げたはずだ。


 許靖は店の依頼で人を鑑る度、習平からかなりの額の銭を渡された。


 許靖自身は多すぎると思ったし、実際その旨を伝えてはいたのだが、習平は商人らしく、


「従業員が使えなかった場合や取引で失敗した場合、損害はこれくらいの計算になります。そしてそれを避けるための妥当な銭はこれくらいで……」


と、数字を示した上で正当な報酬として押し付けてきた。


 許靖も初めこそ渋っていたが、妻や息子に貧乏をさせるのは申し訳ないという気持ちも当然ある。


 だから途中から花琳に直接渡してもらうことにして、自分からは何も言わないことにした。


 おかげで洛陽に来てから銭に関して困った事は一度もなかった。賄賂もほとんどと言っていいほど断ることができている。


 賄賂に関しては、もし断り切れないような相手や状況があった場合には、


「ではいただいた物をそっくりそのまま孤児院へ渡させていただきます。あなたのお名前で寄付いたしますので、ご一筆ください」


そう答えることにしていた。


 これにはほとんどの相手が閉口した。


 その噂が広まって、今ではあまり賄賂を贈ろうという人間もいなくなっていた。


 しかし、もしこの店から受け取れる銭がなかったとしたら、少額なら受け取ったのではないかと思うこともあった。


 後漢末期の社会ではあまりに賄賂が横行している。役人の生活は完全にそれありきになってしまっていた。


(多くの人がやっている娯楽や教育は、自分の家族にもやらせてやりたい)


 誰しもそう思うことはあるし、許靖も例外ではなかった。


 銭で人が幸せになれるわけではないことは分かっているが、それでも家族のために銭があった方が良いことは多い。


 同僚や上司が賄賂を受け取っていることに関して、銭に困っていない許靖が簡単に責められることではないと感じていた。


「いらっしゃい、許靖さん。皆さんもうお着きよ」


 食堂に入ると習平の妻が声をかけてくれた。


 食堂の運営は実質、この妻が行っている。そもそも従業員のまかない飯を作っていた妻の料理が評判で、小規模ながら店を出してみることになったのだ。


 妻の名は美雨ミウという。


 習平と美雨は許靖がまだ豫州にいるころに結婚したのだが、その世話をしたのは許靖だった。その縁もあって、今でも家族ぐるみで仲良くしている。


「お嬢様、こっちです」


 店の奥の卓から小芳が手を上げて花琳を呼んだ。


 小芳の膝の上には七、八歳くらいの女の子がちょこんと座り、母親を真似て手を振っていた。


 小芳も花琳や美雨とほぼ同じ時期に結婚して、一人娘がいる。


 豫州で色々あった時にはまだ少女のようだった小芳も、すでに二十代後半だ。すっかり母親が板についていた。


「やめてよ、もう。お嬢様という齢ではないでしょう」


 花琳は恥ずかしがって苦情を言った。三十路を過ぎると、あまり大声で口にしてほしくない呼ばれ方だろう。


 それに小芳は結婚してから花琳の従者ではなくなっていた。そもそも『お嬢様』という呼び方は立場上もおかしい。


 結婚後は主婦として家庭に入り、生活が落ち着いてからは不定期ながら習平の店を手伝っていることもあった。王順の従業員といえば従業員なので今も主従関係がないこともないが、少なくとも花琳付きの従者ではない。


 だが今でも一緒にいる時には細々こまごました世話を焼き、つい花琳の身の回りのことをしてしまう。呼び方も相変わらず『お嬢様』だった。


 形式上は変わった二人の関係だったが、実質的にはあまり変わっていない。


 変わったといえば、元々姉妹のように仲が良かったが、今は本当の姉妹以上に仲が良いということくらいだろうか。


「欽兄ちゃん!芽衣メイね、ニラを食べられるようになったよ!」


 小芳の娘、芽衣が膝から飛び降り、許欽へと駆けて行った。


 許欽はそれを抱きとめると、持ち上げてぐるっと一周回してやった。子供の明るい笑い声が店内に響く。


「そうか、すごいじゃないか」


「本当ね。欽も早くキノコを食べられるようにならないと」


 母親からの鋭い指摘に、許欽の片頬がヒクリと上がった。


「花琳ちゃん、芽衣はキノコ食べられるよ!」


 芽衣はそう言って元気よく手を挙げた。


 花琳と小芳は本当の姉妹以上に仲が良かったが、許欽と芽衣も兄妹のように仲が良かった。


 芽衣にとって許欽は優しくて大好きな兄だったし、許欽にとって芽衣はよく懐いた可愛い妹だった。


 美雨は二人の様子に微笑みながら提案した。


「じゃあ、今日はうんとキノコを入れた料理を出しましょうか?」


 許欽はそれには答えず、キノコの話題から早く離れようと別のことを言った。


「芽衣、今日はお父さんはいないの?」


「うん、そーさくいよくがわいてるんだって」


 創作意欲が湧いている、ということらしい。


 芽衣の父親、小芳の夫は名を陶深トウシンといい、宝飾品の職人だった。玉や金銀などを加工することを生業としている。


 陶深は基本的におとなしい男だ。


 ただ、職人らしく気分が乗っている時には食事も摂らずに仕事部屋にこもり、石や金属を相手にいつまでも格闘している。


 今日も本来なら昼食を共にする予定だったが、このような時は何を言っても無駄だった。


「まったく……ああなったら本当に仕事以外何もしないんですよ。食事だって口に持って行かないと食べないんですから。何であんなのと結婚したんだか」


 ため息をつく小芳を花琳がからかった。


「何でって、好きだからでしょう?何十人もの候補の中から、あなたが選んだのよ。あれだけ選び放題だったのに、わざわざ陶深さんを選んだんだから」


「あぁ……そう言えば『花神かしんの御者』のおかげで逆・後宮のような状況でしたね」


「小芳さん、その呼び名は口にしないで」


 ぼやく小芳に、許靖が真顔で抗議した。


 小芳の口にした『花神の御者』というのは許靖の二つ名だった。


 いや、『月旦評の許靖』も二つ名ではあるから三つ名とでも言うべきか。


 花神とは山野に花を咲かせる神々のことだ。


 民族単位で花をこよなく愛する中国では、花の神にまつわる様々な伝承が各地に存在する。人々にとって花神は崇高な神であると同時に、愛すべき身近な存在でもある。


 豫州にいた頃のとある事件がきっかけで、許靖はそのように呼ばれるようになった。


 その事件の始まりである美雨は、懐かしい響きに目を細めた。


「その節は大変お世話になりました。許靖さんにとっては終わりのない激務だったんでしょうけど、私みたいに幸せになった人もたくさんいるんですよ」

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