第28話 孝廉
「あ、来た来た。おーい許靖さん、今日はそのまま屋敷の方へ行ってください」
許靖が王順の店の近くまで来たところで、門前の小僧が大きな声を上げた。
言っていることは聞こえていたが、挨拶もせずに引き返すのもどうかと思ったので一応小僧の前まで来た。
「こんにちは。王順さんからそういうご指示が出ているのかな?」
「はい、旦那様が直接来てもらうようにって。何か大事なお客様が来ているようですよ。すぐに行ってあげてください。今日の買い物だって、またどうでもいい物なんでしょ?」
許靖は小僧の遠慮ない言葉に苦笑した。
確かに、またどうでもいいような物を買いに来たのだから反論のしようはない。
「分かった。ありがとう」
礼を言ってから店に背を向け、屋敷のほうへ足を向けた。屋敷は通りを挟んで店の向かいだ。
許靖が来訪を告げると、すぐに奥の一室へと案内された。そこは以前、
扉を開けると、その時の関係者がみな集まっていた。劉翊、朱烈、王順、花琳、小芳、
劉翊は許靖を見るなり、軽く吹き出した。
「本当に来たな。毎日でも花琳に会いたいか。若いということは、良いことだ」
「太守様」
許靖は慌てて拝礼しようとしたが、劉翊に止められた。
「よせ。今日もお忍びだし、今から勝利を祝って宴を開こうというのだ。無礼講でないとつまらんよ」
宴、という言葉の通り、部屋には豪勢な酒食が並んでいた。
許靖は実家を出て以来、このような食事とは無縁で過ごしてきた。普通ならば腹の一つも鳴りそうなところだが、今はそれよりも劉翊の発した単語の方が心を占めている。
「勝利、とおっしゃいますと……」
「決まっているだろう。韓儀のことだ」
韓儀の屋敷に潜入したあの日から、もう一月が経とうとしていた。
捕縛の翌朝、劉翊は韓儀の自白を公表する共に、朱烈の罪を解いて職務に復帰させた。もちろん復帰後の初仕事は韓儀訴追のための証拠集めだ。
朱烈は元々物証を重視することで定評がある。訴追のために証拠を積み重ねていくのは得手中の得手だ。
死んだ部下たちが集めていた証拠はやはり破棄されていたが、残された覚書や朱烈自身の記憶をたどった結果、かなりの物証が得られた。
また、証言に関しては十分すぎるほど得られた。韓儀は朱烈に罪を着せるため、かなりの人間を動かしていたのだ。
冤罪を作り出すために偽証した者たちは、銭や恩赦をちらつかせてやると意外なほど簡単に口を割った。そもそも韓儀に与していた者たちには、
『いつかはこうなるのでは』
という思いがどこかにあったようだった。あまりに派手な不正を行っていたので、みな漠然と不安を募らせてはいたらしい。
証言の代わりに自身の罪を軽くしてやるといえば、ほとんどの人間が韓儀をかばうこともなくその悪事を暴露した。
しかしそれだけの材料を集めても正規の手順で訴追したのでは、どの程度の罪になるのか大きな不安があった。
この頃の後漢王朝では賄賂が当然のように横行している。韓儀の親族などが中央政府でかなり銭をばらまけば、軽い罪で済まされてしまう可能性は十分あった。
ここで韓儀が大きな罪を得ないまま野放しにされれば、必ずまた悪事を働く。考えるまでもない、自明の理だ。
それを防ぐために劉翊が立てた方針は、驚くべきものだった。
「郡全体で、韓儀一人を訴える」
韓儀はかなりの広範囲から賄賂を受け取っていたが、贈賄した全員が自発的にそうしていたわけではない。王順のように要求されたので仕方なく、面倒ごとを避けるために渡していた人間もかなりの数がいた。
劉翊はそれら現実に迷惑を被った有力者たちに会い、洛陽の中央政府へ韓儀による被害を訴えるよう依頼した。
民間から政府へ訴え出る方法として、中央政府にある程度発言力のある人物に働きかけて不正を取り上げてもらう方法がある。そういったことができる権力者は決して多くはないが、劉翊と王順の持つ伝手の全てを使い、できるだけ多くの仲介者から問題として取り上げてもらった。
要するに、劉翊からの韓儀訴追の報告と同時に、民間からの大量の訴えが中央政府に届くようにしたのだ。
不正をもみ消すにしても事実を曲げるにしても、当然それなりに手間や費用が要る。また、いかに腐敗が進んでいるとはいえ、役人の全員が全員賄賂でどうこうなる人間というわけではなかった。
太守直々の訴追に加え、民間からの大量の訴え。劉翊はそれらを同時に韓儀の親族へ叩きつけることによって、その処理能力を溢れさせようとした。
そして実際にそれは有効だったらしく、罪の連座を恐れた親族から今朝、韓儀への絶縁状が届いたという報告が入った。
「そうですか……親族にも見捨てられましたか」
話を聞いた許靖は複雑な表情を浮かべた。
劉翊がそれを見て諭すように言った。
「そんな顔をするな。救われたのは俺や朱烈だけではない。多くの民が救われたのだ」
もちろん、それは頭では理解できているつもりだった。韓儀があのまま行政の要職を占めるようなら、民には不幸しかなかったろう。
だが、たとえ悪人といわれるような人間であっても誰かが不幸になることに、しかも自分の手で不幸に落としてしまったに関して、許靖の心には暗い影が落ちるのだった。
(太守様は郡内の事件に裁きを下すことも仕事としてされているが、人の心でよく務まるものだ)
許靖はそんなことを思いながら、集まった人たちのために出来るだけ明るい表情を作った。
ここで暗い顔をしても皆が嫌な気分になるだけだ。そう思い、笑顔で花琳の隣りの席につく。その場所は、恐らく余計な気をまわされて選ばれた席だろう。
「さぁ、飲もう。食おう。今日は俺も太守は休みだ」
劉翊の乾杯の合図に、七人が杯を上げた。
全員が杯を干す。
太守の同席する宴など、普通なら緊張して味など分からないだろう。しかし、その場にいた全員が旨い酒だと思えた。達成感と連帯感の味だ。
とは言え、高承などはその真面目さゆえか、初めはかなり体を固くしていた。一兵卒と郡太守なのだ。仕方ないことだろう。
しかし、一・二杯の酒を干すと肩の力が抜け、三・四杯になるとすべての骨が軟骨になったかのような頼りない様子になった。そして、朱烈に寄りかかるようにして泣き始めた。
「朱烈様……ご無事で良かった……本当に良かった……」
涙をポロポロとこぼしながら、そう何度も繰り返す。
「あっはっは、何だお前は。大の男がそんなに泣いて」
逆に朱烈はそれを見て、真っ赤な顔で爆笑していた。
普段の朱烈からは考えられないような、明るくあけっぴろげな笑い方だ。ちなみ朱烈は先ほども豆が転がったと言って大爆笑していた。
二人とも平素まじめな分、落差がすごい。
(泣き上戸と笑い上戸か……?しかも、二人とも驚くほど弱いな)
許靖も酒は強くなかったが、二人ほどではないだろう。それに、これほど乱れはしない。
(人それぞれ多少の酒癖があるのは仕方ないが……太守様の前で失礼に当たらないか?)
許靖が困ったような視線を劉翊に送ると、いかにも可笑しそうな笑みが返ってきた。
「面白かろう。いつもの朱烈とあまりに違う。そもそも、それが面白くて俺はこいつが気に入ったのだ。しかし高承の泣き上戸というのも面白いな」
まったく気にしないようだ。劉翊の人柄というものもあるだろうが、虚礼にとらわれない合理的な思考回路を持っているからだろう。
そんなことを考えているところへ、王順が声をかけてきた。
「ところで許靖様」
王順は酒が入っても落ち着いた様子だった。
仕事上も酒で乱れるわけにもいかないのだろう。まったく普段通りの様子でいる。
「とりあえずの決着がついたようなので、例の件のご回答をお聞きしたいのですが」
「なんだ、例の件というのは」
王順の言葉に劉翊が割って入ってきた。
例の件、というのは許靖が王順の店で働いてはどうか、という提案を指していた。
許靖はあの後、韓儀の件でバタバタしていたのをいいことに回答を保留していたのだ。落ち着くまで少し考えさせてほしい、と伝えたまま今日に至る。
「実はお誘いを受けていまして。王順さんのお店で……」
「待った。そんな気はしていた。それ以上は言うな」
劉翊は片手を上げて許靖の言葉を遮った。
そして真剣な顔で王順へと向き直り、頭を下げた。
「すまんが王順、許靖は国がもらうぞ」
頭は下げているものの、きっぱりとした口調でそう告げた。
予想外の言葉に、許靖は目を丸くして劉翊を見た。
王順はというと、無言で頭を下げる劉翊をただ黙って見つめている。
普段の王順なら太守に頭など下げられれば、すぐに『おやめください』くらいは言うだろう。だが、今はじっと次の言葉を待っていた。
劉翊は頭を上げて言葉を続けた。
「お前も分かっているだろう。許靖の人の本質を見抜く能力は、本物だ。言ってみれば、異常なほどだ。これはきっと意味があって天がこの男に与えたものだと思う。その力、国のため、民のために使わないわけにはいかない」
「国のためと民のためは、分けて考えるべきだと思いますが」
王順は太守相手にぴしゃりと言ってのけた。
王朝や行政機関と民の幸せは必ずしも一致しない。特に今は政府の腐敗がひどい。それに、民間にいながら民に幸福を与えている人物も多いはずだ。
劉翊はそういった王順の言葉の意図を正確に理解しながらも、己の意思を曲げるつもりはなかった。
「お前の言うことは分かっているつもりだ。だが許靖なら、きっと民のためになる
王順はその言葉に肯定も否定も返さなかった。何も答えないまま、ただ残念そうに溜息を吐く。
劉翊はそれで、王順に対して最低限の義理は果たしたと思った。
先に許靖へ声をかけていたのは王順だ。それを横から奪い取ろうというのだから、きちんと断りを入れておくのが礼儀と道理だ。
それでも最後まで同意らしい言葉や態度を作らなかった王順には、
(これを太守様への貸しだ)
という形をとるという、商人らしい計算も頭にはあるのだった。もちろん半分以上は本気で残念だからではあったが。
劉翊は許靖へと向き直った。
「許靖、お前を次の
孝廉とは、地方長官による役人の推薦制度である。郡の規模に応じたごく少人数の有望者が、定期的に中央政府に推挙される。選ばれた人物は経験を積み、重要な地位を占めていくことが多い。
孝廉に挙げられるということは、国で要職に就くための第一歩と考えてよかった。
「私を、孝廉に」
許靖は呆然とした。自分は一介の馬磨きに過ぎない。それが突然、役人の登竜門をくぐることになるというのだ。
「私ごときがそんな……」
「もちろん、馬磨きからいきなり孝廉というわけにはいかん。とりあえずは
許靖の戸惑いは劉翊の強い口調で拭い取られた。そして最後の言葉は質問の形ではあったが、否定を許さない断固とした意思が感じ取れるものだった。
許靖は手元の酒杯に目を落とし、沈思した。
自分はそのような立場がふさわしい人物だろうか、自分はそこで何ができるだろうか、自分はそれで幸せだろうか、様々な思考が頭に渦巻く。
(いや、そんな事よりも大切なことがあったな)
そう思い至った。自分がどうこうよりも、まず確認しなくてはならないことがあったのだ。結果的に、それが自分にとっても一番価値あるものになるはずだった。
許靖は隣りに座った花琳の瞳へと目を向けた。
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