第5話 馬磨き
「ちょっと、お二人とも!!」
従者の娘から甲高い声を浴びせられ、
どのぐらいの時間だったのだろう、どうやら今見た桜の「天地」に包まれて、
見ると、主の娘の方も同じようにはっとした顔をしている。こちらはこちらで何か感じていたのだろうか。
「……驚きました。お二人とも、顔を合わせたとたん急に固まってしまうんですもの。お嬢様、体調でもすぐれないのですか?」
従者の娘が心配そうに主の顔を覗き込む。覗き込まれた主は動揺した声で答えた。
「い、いいえ……大丈夫。どうしたのかしら?何だかぼうっとしてしまって……貧血かもしれません。失礼いたしました」
そう言って許靖に頭を下げた。
許靖も頭を下げ返し、
「いえ、私のほうも貧血を起こしたようだ。最近、食事が偏っていまして……」
そう言って笑いかけた。笑いながら、なぜか顔や耳が熱くなって思わずうつむいた。
そしてそれを見た娘も、なぜかうつむいて黙り込んでしまった。
しばらくそのまま沈黙が流れる。
「……お嬢様?体調も良くないようですし、もう帰りましょう」
従者の娘がそう提案すると、思い出したように主がぱっと顔を上げた。
「し、失礼いたしました。私は
早口で自己紹介する花琳にうながされるように、小芳が軽く頭を下げた。
(王順の雑貨屋というと、大通りにかなりの規模の店を構えていたと思うが……)
何度か許靖も訪れたことがあったように思う。結構な大店で、庶民向けの日用品から富裕層向けの高級品まで、あらゆる品を扱っていたはずだ。
花琳は言葉を続けた。
「この丘に私の親戚が住んでおりまして、本日は父の使いでそちらへ参っておりました。その帰り道にこちらのお宅へ窓から入る人影が見えたもので、念のためお声掛けに来たのです」
花琳の言葉に、許靖の心臓が大きく弾んだ。
(ここで誰もいないと嘘をついたら、匿っていた事を後で罰せられるか?……いや、先ほど言われた通り、脅されていたことにすればいいから大丈夫だ。それに家探しでもしなければあの人は見つからない。さすがに娘が初対面の男の家にずかずか入ってこないだろう)
許靖はそこまで一気に思考してから、精いっぱいの笑顔を作って答えた。
「そうなのですか?ですが、この家には私以外に誰もいません。気のせいでしょう」
「いえ、確かに見たのですが……」
「でしたら空き巣でも入って、裏口から出たのかもしれません。取られたものがないか確認しておきましょう。ご忠告、ありがとうございました」
「しかしつい先ほどのことで、誰も出ていった様子はありませんし……」
「そうですか、では家の中をよく確認しておきます。ありがとうございました」
笑顔のまま、まくしたてるように答える許靖に花琳は怪訝な顔を向けた。
「……先ほど親戚の家でうかがったのですが、何でも脱獄した殺人犯がこの辺りの山に逃げ込んでいるそうなのです。どうも聞いていた背格好が似ていたように思うのですが」
(だったら娘二人が近づくべきではないだろう!)
許靖は心中の叫びをできるだけ温和な表現に変えて答えた。
「では、暗くなる前に早くお帰りになった方がいい」
花琳は明らかに態度がおかしいと感じたのだろう。しばらく許靖の顔を見ながら小首をかしげていた。
が、突然意を決したように、
「無作法ですが、失礼いたします」
そう言って許靖の横を素早く通り過ぎ、家の中に入ってきた。
「お、お嬢様!!」
止める小芳の声も無視して進んでいく。
「ちょ、ちょっと!!」
許靖もあまりのことに止めそこね、声だけを上げた。
(初対面の男の家に、普通にずかずか入ってきた!)
大商人の娘がするような振る舞いではないだろう。
狼狽する許靖に花琳はくるりと振り向き、きっぱりとした口調で告げた。
「あなたは悪い人には見えませんし、殺人犯の仲間ということもないでしょう。ですが脅されているか、隠れているのに気づかないでいるのならこの後あなたの身に危険が及ぶ可能性があります。それを排除いたします」
「排除って……」
もはやどこをどう指摘すればいいか分からなくなっている許靖を尻目に、花琳は次々と部屋の扉を開け放ちながら奥へと歩を進めた。
そして、男が隠れている一番奥の部屋へたどり着き、足を止めた。
「あ、あの、本当に大丈夫ですから。誰もいませんから……」
そう言って後からついてくる許靖へ、花琳は手のひらを向けて制した。
扉をじっと睨み、それからゆっくりと開ける。しばらく探るように入り口から部屋を見回していたが、やがて口を開いた。
「そこの行李の影ですね。出てきなさい」
それは確信を持った口調だった。
(なんで分かるんだ!?)
許靖はそんな叫び声を上げそうになった。こうなっては、もはや隠し立てはできないだろう。
あの男に花琳も小芳も縛ってもらい、ついでに許靖にも累が及ばないように縛ってもらってから、食料を持って出て行ってもらおう。あの人なら、娘二人を不用意に傷つけることはしないはずだ。
男もそう覚悟を決めたようで、すっと立ち上がり姿を見せた。右手には短刀、左手には干し肉などを縛っていた紐を握っていた。
許靖はその紐を見て感心した。
(拘束等、あらゆる可能性を考慮して準備していたのか。やはり賢い人だ。この人ならきっと逃げ切れるだろう)
よく見ると、食料も一袋は詰め終わっているらしい。
男の瞳の奥の「天地」。純白なだけでなく、理路整然と並び形作られていく街。これが男の知性を表していた。
男は静かだが、言い含めるような低い声を出した。
「お嬢さん、怪我をさせたくない。壁の方を向いて、腕を腰の後ろに回してくれ。縛りはするが、取るものを取ったら危害を加えずに出ていく。約束する」
その声は、普通ならば小娘を恫喝するには十分すぎるほどの迫力を含んでいた。
実際、小芳は許靖の後ろでひっ、と小さな悲鳴を上げてへたり込んだ。
が、花琳は動じた様子もなく、落ち着いた声で答えた。
「いやだと言ったら?」
ぴくり、と男の眉が上がる。
「……多少、手荒なことになるな」
「なら、そうなさい」
花琳は三歩、無造作に部屋の中に足を踏み入れた。
男はしばらく黙って花琳を見ていたが、やがて諦めたように息を吐き、
「やむを得ん」
そう言って、漬物の壺を飛び越えて花琳に襲い掛かった。男の腕が花琳の肩を掴もうとする。
と、そう見えた瞬間。
「おぉお!?」
「……うわぁあ!!」
男の叫びと許靖の叫びが続けざまに上がった。
花琳に触れるか触れないかの瞬間、男の体が宙に舞い上がり許靖めがけて飛んできたのだ。
「ぐぇっ」
男に押し潰された許靖の肺から小動物のような声が上がった。
「あら、失礼」
花琳はこともなげに謝った。
男は狼狽しながらも素早く起き上がり、短刀を構えなおした。
「ぶ、武術の心得でもあるのかね、お嬢さん」
「この程度で心得とは言えませんわ」
動揺を隠せない男とは対照的に、花琳はいたって平静に対峙した。
「……そうか。私は一応、兵を指揮する程度の身ではあってね。多少の心得はあるつもりだ。次は油断せず、きっちり押さえさせてもらう」
男は呼吸を整え、先ほどとは違いじりじりと距離を詰めていった。そして、けん制するように短刀を素早く前へ出す。
その瞬間、許靖にはほとんど見えない速度で花琳の手刀が短刀を弾き飛ばした。短刀が前に出されるのを知っていて、待っていたような動きだ。
花琳は続けざまに一歩踏み込んだ。その踏み込みとほぼ同時に放たれた拳が、男のみぞおちに深々と刺さる。そのまま流れるような動きで肘が顎をとらえ、さらに蹴りが飛んできて男が再度吹き飛んだ。
男は壁にぶつかったことで何とか倒れるのは堪えたものの、はた目にもふらふらになっているのが分かった。
花琳はさらに踏み込んで拳、肘、膝、蹴りと次々に繰り出し、男は防戦一方になった。
防ぐことに集中し始めてからはいくらか攻撃をしのいでいる。
が、許靖が見ても分からないような駆け引きがあるようで、何発かに一発は男が防御した方向とは別方向からの攻撃をもろに食らっていた。
(あ、駄目だこれは)
そう感じた許靖の脳裏に、この後の男の末路が浮かんだ。捕まったら当然死刑だろう。それも、罪状から考えるとかなりきつい刑になるはずだ。
男はもう立っているのがやっと、といった状態になっている。もう一、二発で起き上がることができなくなるだろう。
(冤罪で死刑など……あんまりではないか!)
そう思った瞬間、許靖の体は本人の意思とは関係なく花琳の背中へ突っ走り始めていた。
「……あ、足が滑ったぁあ!」
「えっ?」
許靖はもはや苦しい言い訳にすらならないことを叫びながら花琳に抱きつき、そのまま押し倒した。
「……ちょ、ちょっと!!」
許靖は狼狽する花琳を体の下に敷き、男を振り向いて必死に目配せした。
男はボロボロの顔で、
(すまん!!)
と目だけの返事をし、最後の力を振り絞って窓まで走った。
そして身を投げるように飛び出していく。抜け目なく窓の下に置いてあった食料の袋をつかんでいったのは、さすがといったところだろう。
(……よかった)
あの一袋でも食料があれば、しばらくは山中でも生きられる。追及が緩くなる程度まではもつだろう。あの賢い男なら、きっと逃げ切れるはずだ。
(私には冤罪を晴らしてやれるような力はない。この程度の手助けがせいぜいだろう。だが、それで罪のない人が死ななくて済むのなら本当に良かった)
ほっと窓の外を見つめながら、許靖はしばらくそんなことを考えていた。その背中へ小芳から声がかかった。
「……あ、あのっ」
振り向くと、小芳はまだ廊下にへたり込んだままだった。しかしその姿勢とは対照的に、咎めるような視線を許靖へ向けている。
「お嬢様はまだ嫁入り前です。そのように押し倒して、跨っているのはやめてください。早く降りて」
はっと気づいて下を見ると、耳たぶまで真っ赤に染まった花琳の顔が、何とも言えない表情で許靖を見上げていた。
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