第3話 馬磨き

 瞳の奥に「天地」が見えたのは、いつからだっただろう。


 許靖キョセイの一番初めの記憶は、母の瞳の情景だった。


 母の「天地」は凪いだ大海原で、ただ広く、ただ静かで、それがどこまでも続いていた。海などというものを見たことがない赤子の許靖にとって、それはただただ心落ち着く風景でしかなかった。


 母はまさにそのような人である、ということを、青年になるまでは考えたこともなかった。


 「天地」がその人物の人格を映すことはなんとなく分かっていた。


 しかし生まれつきそれが見えていた許靖にとって、あまりにも当たり前すぎて理性的に意識することがなかったのだ。例えば道に水たまりが見えれば避けて歩くように、ただ身体機能の一つとして使っていただけだった。


 それがある時、自分の中で母の人格と凪いだ大海原が理性的に結びついた時、従兄弟の許劭キョショウと共に月旦評げったんひょうを開くことを考えついた。


 許劭は許靖のように「天地」が見えるわけではないものの、人間の本質をずばりと言い当てる、というか、言ってしまうような鋭い感性と少しの癇の強さがあった。


 初めはただの学生二人が暇に任せて開いていたお遊びの会だったが、それを友人に話す内に仲間内で大いに盛り上がりを見せた。


 その盛り上がりが師事する先生の耳に入り、そこからは先生の人望が大きかったこともあり、瞬く間に世間に広がっていった。


(今となっては過去の栄華に過ぎないが)


 許靖は夕暮れの帰り道をとぼとぼと歩いていた。


(筋肉痛など、いつ以来のことか……)


 体中が痛かった。


 もう働き始めて二十日になり、要領もだいぶ良くなってきたのだが体の方はなかなか慣れてくれない。


(皆のように武術をしたり、狩りなどに出ていればよかったかな)


 学生時分の友人たちは皆あり余った気力を発散するように、なにかしら体を動かす活動を行っていた。


 が、許靖は武術にしろ、狩りにしろ、何かを傷つけるような事には身がすくんでしまい、数度参加してそれっきりだった。


(……いや、やはり向いていないのだ。向いていないことを無理にする必要もなかっただろう。馬磨きは、きっと向いている。ようやく私向きの体を動かす活動に巡り合えたのだと喜ぼう)


 そう無理やりにでも思わなければ、明日から峻の巨体を世話する苦労と、より酷い筋肉痛に悩まされるであろう未来とを受け入れられなかった。


 何とか思考を前向きにしようと努力している内に、夕日に照らされた我が家と先割れの松が見えてきた。


 松が雄大なのはともかくとして、許靖の家も馬磨きで生計を立てる貧乏人の家としてはなかなかに立派なものだった。


 土間を含めて五部屋もあり、うち三部屋は使うあてもなく荷物置きになっている。


(父母に感謝だな)


 自立を命じた父は、世間勉強のためにも職探しから息子本人に行わせた。


 が、さすがに生活自体は心配だったらしく、住む家は用意してくれた。


 それに母もひどく心配だったようで、商売ができそうなほど大量の保存食や、一人分には多すぎる衣服を用意してくれた。おかげで貧乏ながら、当面の衣食住には事欠かないでいられる。


(少なくとも「食」はそのうち無くなるだろうが……)


 やはり骨を折って働かねばならない。


 そうでなくとも、そろそろ保存食は食い飽きてきた。塩が強いものが多いので、だんだんときつくなってくるのだ。最近、塩辛さで水ばかり飲んでいる気がする。


(ん?)


 許靖はふと、違和感を覚えて足を止めた。


(窓を閉め忘れたか?)


 今朝、家を出た時には閉めたと思っていた窓が、一つ開いている。


 閉め忘れたとしたら不用心だった。脱獄犯もこの辺りに逃げたらしいというのに。


(いかんいかん、何のために一人で暮らし始めたのだ。もっとしっかりせねば)


 戸締り一つとっても、家の人間に任せきりだったということだろう。


 そう自戒しながら家の錠を開けて玄関に足を踏み入れた。


 そして、その足が地面に着くかどうかの所でいきなり首筋をつかまれ、引き倒された。


「ぐぁっ」


 仰向けに倒れた許靖は、胸と腕に圧迫感を覚えた。誰かが自分に馬乗りになったようだ。


「声を上げるな」


 その誰かが素早く言った。


(まさか、脱獄犯!?)


 そう心の中で叫んだ許靖の首筋に、冷たい感触が触れた。おそらく短刀か何かだろう。


「すまないが、大人しくしていてくれ。物は拝借せねばならないが、お前を傷つける理由はない」


 許靖は身をすくめながらも、了解した旨を伝えるため小刻みに頭を縦に振ってみせた。


「ありがとう」


 首筋の刃物とは対照的な言葉をかけられた許靖の目に、だんだんと相手の姿が認識されてきた。


 三十代半ばぐらいの、やや大柄で精悍な顔つきをした男だった。


 髭や髪が乱れており、ここ数日は何の手入れもされてないことが分かった。しかしきちんとした身なりをしていれば、よほど見栄えのする男だろう。


 許靖と男の目が合う。自然、男の瞳の奥の「天地」が許靖の目に飛び込んできた。


 その瞳の奥に広がる「天地」は、ただひたすらに白い街だった。


 道路も白、建物も白、街路樹も白で、それらが碁盤目状に規則正しく並んでいる。そこを行き交う人たちも真っ白で、街のあちこちでその白い人たちが新たな白い建物を造っている。美しく、品性と規律を感じられる純白の「天地」だった。


(これは……違う)


 そう感じた許靖は、ためらいながらも震える声を出した。


「た……尋ねてもよろしいですか」


「なんだ?」


「あなたは、今話題になってる脱獄犯ではないのでしょうか」


 男は少しだけ考えて、逆に聞き返した。


「『ではないのでしょうか』、というのはどういうことだ?」


 脱獄犯かどうかを確認したければ「脱獄犯ですか」でいいはずだ。何かしらの疑念があるから「ではないのでしょうか」という聞き方になる。


(賢い人だ)


 そう感じながら、許靖は答えた。


「私は初め、あなたが脱獄犯だと思いました。この辺りの山に逃げ込んだと聞いていましたから。だが、どうやら違うらしい」


「なぜだ」


「それは……」


 許靖は言葉に詰まった。


 瞳の奥の「天地」を見たところ、どうも聞いていたような罪を犯す人間には思えなかったのだ。だが初対面の人間にそんな説明をしたところで頭がおかしいとしか思われないだろう。


 男は答えに窮した許靖をしばらく見つめていたが、やがて口を開いた。


「残念ながら、私は脱獄犯だ。一昨日牢を抜けて、お前の言う通り山に逃げ込んだ」


「では、冤罪ですね」


 許靖は間髪入れずそう言った。


 言われた男はさすがに面食らっていた。


「だから、なぜそう思う。なぜそう断言できる」


 許靖は言葉を交わしたことで徐々に落ち着いてきている自分を自覚した。


「私の聞いた話では、脱獄犯は五人殺したということでした。それだけでしたら、あなたでもやりうるでしょう。正義のために必要があれば、あなたは五人でも十人でも殺せる人です」


 突然そう言われた男はまた驚きながらも、口元に苦笑を浮かべた。『お前は大量殺人を犯しかねない』と、面と向かってそう言われたのだ。


 だが許靖からすれば、そう断言できるほど極端な「天地」が見えたのだから仕方ない。正直に思うままを言っただけだった。


 あのように真っ白な「天地」を持つ人間は自分の倫理観に潔癖な反面、それを侵されることを許さない。許靖はそういった内面を感じ取り、本人の思う『正義のため』であれば何人でも殺せるだろう、と見たのだ。


 許靖は言葉を継ぎ足した。


「ですが、殺された五人は顔を岩で潰されていたそうです。あなたは不必要に遺体を損壊したり、侮辱するような真似はできない」


 あれだけ美しく潔癖な街を持つ人間は、そのような残虐行為はできないだろう。そう感じたのだ。


 男はしばらく間、許靖をじっと見つめていた。初めは冷たかった首筋の刃物が許靖の体温で少しずつ温まってくる。


 やがて男は口を開いた。


「……分かった。理由ははっきりしないが、お前はどうやら本気で今の言葉を口にしたようだ。だが、それならお前はどうする?それでも私は追われている脱獄犯には変わりないぞ」


 問われた許靖はしばらく思案してから答えた。


「そうですね……とりあえず冤罪の方を役所に突き出すような真似はしませんので首の刃物をしまっていただきたい。それからもし良かったら、干し肉や漬物はいかがですか?うちには保存食なら嫌というほどあるので」

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