はつ恋の足跡

安斎・バルザック

はつ恋の足跡

 

1.


 一体、どれくらいの距離を歩いただろうか。

 炎天の中、足を引きずるように歩いている『ぼく』は、これまでの旅路を回想していた。

 ここ数日の間で、いくつもの見知らぬ街を越えてきた。日夜を分かたず歩き続けた結果、数えて三日目というところで彼の体力はとうとう限界を迎え、音をあげていた。

 紺碧の海を一望できる国道に、ぽつんと建てられたバスの停留所。待合所には、座り心地の悪そうな三人がけのベンチが置いてある。そこへ腰を降ろすと、安堵のため息が自然と漏れて、『ぼく』は思わず苦笑した。


ともすれば死んでしまいそうな夏の暑熱の中、ようやく人心地ついた彼は、疲労のせいで強烈な眠気に襲われていた。


(……少しくらいなら、眠っても大丈夫だろう。こんな田舎のバス停なんかに来る人など、そうはいまい)


 人が羨むような才は何一つ持ち合わせていない彼だが、ただ一つだけ、妙な特技を持っている。

『ぼく』は、所構わず眠ることが出来るのだ。彼は、街の喧噪の中であろうが、『熊出没注意』の看板が立っているような山奥であろうが、僅か一分足らずで眠りにつくことが可能なのだ。


 腰をいたわるように身体を横にして、明くる日に備えることにした。木製の堅いベンチの寝心地ははっきり言って最悪なのだが、この際贅沢は言えないと、一番楽な体勢を見つけるために試行錯誤している。

 古ぼけた待合所で、まるで胎児のように丸くなっている彼は、しかし今年に十九歳の誕生日を迎えた。


 何もかもが輝いて見えるような年頃であるにも関わらず、彼にはこれといったやる事もなく、目的も定まらぬままに知らない土地を歩き回り、時間が限りある財産である事も知らず(あるいは、知らないふりを決め込んでいるのかもしれない)、無為に日々を消費していた。


 いや……無為に日々を消費している、と決めつけてしまうのは、他人の価値観を黙殺した一方的な考えかもしれない。こうして地球を彷徨い歩くことにこそ、輝きが溢れているのだと彼は信じている。

 それに、旅の真似ごとをしているのは、のようなものである。


 彼はしばしば突発的に家を飛び出し、今まで生きてきた中でまだ見たことのない景色を探しに行く。

気分屋の彼は、見慣れた景色を壊したい衝動に度々駆られ、我慢することが出来ないのだ。鬱屈とした十九歳の突飛な行動力は、誰にも止められない。彼に有効なは、何一つとしてないのだ。


『旅の真の目的は、自身の価値観の破壊と再構築である』

 これは、『ぼく』の持論だ。凝り固まった価値観のまま生きていくことは、彼に言わせてみれば、死んでいるのと変わらないらしい。だから彼は今日も歩く。知らない場所で、知らないものを知ろうとする。それが生きることの意味だと、彼は信じて疑わない。



(それに、家に閉じこもってばかりいちゃあ、身体にも悪いしね)



 大きな欠伸を一つ、青く澄み渡った空に投げかける。間抜けな声が、風の音に溶けていった。



(……今頃、心配しているだろうなぁ)


 

 携帯電話を持っていない彼には(というよりも、触った事すらない)、親と連絡を取る術を持っていない。だから、彼の放浪癖が発揮されるたびに、親はまるでこの世の終わりを見たかのような形相で、「うちの息子をみませんでしたか?」などとご近所に聞いて回っているらしい。そのたびに彼はひとりごちるのだ。


もう19歳だぜ、と。


(さて、小一時間……いや、やっぱり2,3時間ほど眠らせてもらおうか)


 茹だるような外気に全身を委ねて、ゆっくりと目を閉じた。

 ブラッドオレンジのような赤みを帯びてきた円い太陽が、瞼の裏にあたたかい色を残す。眩しくて眠りにくいけれど、これもまた、家に居るだけでは味わえない旅の醍醐味なのだ。蛍光灯の光る無機質な天井を眺めながら眠るよりも、ずっと気分がいい。

 うんうん、と頷きながら、やがて彼の意識はうすらぼんやりと霞んでいった。



2.


 2、3時間……いや、5、6時間は経ったかもしれない。

 彼にはそれを確かめる術がない。なぜなら彼は、腕時計というものを装着したことがないからだ。

 曖昧な意識の片隅で、『ぼく』は何者かの気配を感じ取った。

 遠慮がちな足音が、寄せては返す波の音を縫って、彼の鼓膜へと届く。

 ハッと目を覚ますと、彼の頭のすぐ横に、美しい毛並みの黒猫が、凛とした表情で立っていた。


(……綺麗な顔だ)


 眠気も覚めやらぬままに反射的に生まれた感想は、しかし誰が見ても自然に抱くであろうものだ。これまでたくさんの黒猫を見てきたけれど、これほどまで品のある黒猫は見たことが無かった。艶やかな毛色が、暗闇に挑むように浮き彫りになっている。


 優しい顔つきだ。おそらく雌だろう。彼はそう感じた。

 青白い月の光を浴びたその黒猫は、彼の方に向き直ると、まるで「こんばんは」とでも言うかのように、短く鳴き声をあげた。

 恐る恐る触れてみると、尻尾をぴんと伸ばして嬉しそうに額を擦りつけてきた。首元を優しく掻いてやると、喉をゴロゴロを鳴らして、目を細めて気持ちよさそうにしている。その様子をみているうちに、言い様のない、淡い色の気持ちが芽生えてきた。


 この感情はなんだろう? 


 19年生きてきて、今までに一度も抱いたことのない、神々しい感情だ。

 もう一度、今度は頭を撫でてみようと手を伸ばすと、しかし彼女はひゅっ、と身を翻して、夜の闇の中へと瞬く間に溶けていった。

 最後に見た彼女の表情は、まるで「おいかけてきてごらんなさい」とでも言うかのように、妙に悪戯っぽく見えた。


 誰も居なくなった暗闇を眺めて、『ぼく』はしばしの間想いを馳せる。

(あの猫は……彼女ははどこからきたんだ。ここら辺には、家も見当たらないし……もしかして野良猫か?いや……あんなに美しい野良猫は見たことが無いな)



 あれこれと思案したが、それもつかの間。まだまだ寝足りない彼は、ゆっくりと襲ってくる眠気に耐え切れず、まどろみに落ちていった。




3.


 明くる日、奇妙な感情の残滓を抱きつつ、『ぼく』は再び旅の続きに出ることにした。

 夏は暑いもの。それはゆるぎないこの世界の常だ。そんな当り前のことに腹を立ててしまうほど、今日はまた一段と凄まじい日差しが降り注いでいる。

 焼けるように熱いアスファルトの熱が、足の裏から全身へと伝播する。

じりじりと、焼きたてのパンに落とされたバターのように、溶けていってしまいそうな心地だ。否応なしに神経が尖ってくるような気温だが、しかし、どうしてか今日の彼は上の空だった。


 なぜなのか?


 昨日出会った黒猫の事で、頭が一杯だったのだ。


(またあそこへ戻ったら、会えるかもしれない)


 十キロほど歩いたところでそう思い立った彼は、適当に昼食を済ませて、海の見える停留所へと引き返した。強烈な日光を浴びながら、けれども彼の足取りは軽かった。



(そうだ、彼女がまたあそこに来た時のために、何か、喜ぶものを持って帰ろう)



 しかし、何を贈れば喜んでくれるだろうか。彼は、猫が喜びそうなものを、ぎらぎらと照りつける太陽の下で考えあぐねた。



(なんだろう?鈴のついた首輪?市販のおやつ?それとも、生きた魚?……分からない)

 迷いに迷った彼は、結局、手ぶらで停留所へ戻ることにしたのだった。



 道すがら、彼は自分の中に芽生えた感情について自問した。

 自分は、誰かを心から喜ばせたいという感情を今までに一度でも持ったことがあったか?と。

 実際彼は、これまで生きてきた中で、そういった感情を持ったことは一度もなかった。それは、果たして自分は誰かの幸福に足る男なのか?という疑問に起因した、自己評価の低さのせいかもしれない。あるいは、単に感情に乏しい個性の持ち主だからなのかもしれない。


 それはともかく、理詰めで考えることが好きな彼は、今、自分が抱いているこの感情に名前をつけるべきだと考えた。だがしかし、彼の良質な脳を以てしても、明確な答えは見つけることが出来なかった。


 煩悶しながら歩いているうちに、昨日の停留所が見えてきた。待ち人のいない待合所には、代わりに一匹の待ち猫が佇んでいる。粗末なトタン屋根の待合所にはどうみてもそぐわない気高き様相。


――彼女だ。


『ぼく』は何だか嬉しくなって、飛ぶように駆けていった。すると、彼女はビックリする様子を微塵も見せずに、澄まし顔で彼の方を見やった。昨日会った時もそうだったが、猫は警戒心の強い動物だと思っていたばかりに、物怖じ一つしない彼女の態度には改めて驚かされた。


「君は、どこから来たんだい?」


 そう呟いて、彼女の狭い額に手を伸ばしてみた。応えはなく、代わりに大きく伸びをした。


「今日は逃げないんだね」


 つややかな毛をくしけずるように撫でる。顔を近づけてみると、日向の匂いがした。凝縮された宇宙のような瞳は、日光を反射させてアルミホイルみたいに輝いている海を見ていた。



(今日もここに泊ろう。寝るだけならさほど困らない。……人も来ないし)



 実際、利用者など居ないのだろう。もしかすると、この停留所に停まる路線バス自体が、廃止されているのかもしれない。三時間に一本ほど通るバスは、凄いスピードでこの停留所を走り抜けて行ってしまうから、その可能性は否定できない。


『ぼく』は、次の日も、そのまた次の日も、周辺の港をぶらぶらと歩いては、彼女の待つ停留所に帰り、一緒にただぼうっと海を眺めて一日を過ごした。


 ……いや、半分は嘘だ。確かに彼女と時間を共にしていたけれど、彼が眺めていたのは、大半が彼女の横顔だった。

 ペンス・ブルーに描かれた女王の横顔のように優雅な表情に、見惚れていたのだ。


 海に浮かんでいる灯台が、蜃気楼のように滲んで見える。数匹のカモメが、空と海の青の境界を自由自在に飛び回っている。彼女はそれらを眺め、『ぼく』は彼女を見つめていた。  


 ここには、『ぼく』達以外の誰も知らない平穏なひと時が流れているのだ。こんな時間がずっと続けばいい。あるいは、時間なんか止まってしまえばいい。神様、どうか今日という一日を48時間にしてください……。このように、『ぼく』は意外とロマンチストなのだ。


4.


 五日目の昼下がり、いつものように用もなく港へ出向いた。横で寝ている黒猫も一緒に連れていこうとしたが、呼びかけても黙して語らない。かなり深く眠っているらしかった。

 諸説あるが、猫はもともと、そのよく眠る習性から『寝子』と表記されていた時代があったらしいから、彼女がなかなか起きないのも無理からぬことだった。


 小さな漁船が何隻も係留された港では、黒々と日焼けした屈強そうな男たちが、丁度網上げ作業を終えたところだった。

 大量の発泡スチロールが並んでいる。彼は身長が低いから、ここからでは中身までは窺い知れない。けれど、そこに猫の大好物が入っているだろうということは予想できた。

 昼休憩の時間なのだろうか。男達がぞろぞろと引き上げていった。

 彼は、その様子を窺いながら、忍び足で漁船の方まで近づいていくと、梱包されないまま放置されている魚に目をつけた。大きさが基準に満たなかったとか、そういった理由で、そのままにしてあるのだろう。



(これは……喜んでくれるかもしれない)



 周りに誰も居ない事を確認してから、彼はその零れ落ちている魚の数匹を、くすねた。

 確かに、人のものを盗むのは悪いことだ。けれども、あのまま放っておいたら、直射日光にさらされてすぐダメになってしまうだろう。であれば、誰かに食べてもらった方が、この魚も幾分か報われるのではないか。そう結論付けて、帰り道を急いだ。


彼は論理的ではあるけれど、少々自分勝手な結論を導くきらいがあるのだ。




 停留所へ戻ると、黒猫は依然として涼しそうな面持ちで、海を眺めていた。

 彼女の前にまだ息のある魚を差し出してみると、訝しげにくんくんと匂いを嗅いだ。それから、パクリとその小さな口で咥え、身を乗り出して食し始めた。

 豪快に咀嚼するその姿をじっと見ていた彼は、だんだんと、自分が抱いている感情の正体に気がつきはじめていた。



 バス停の待合所で、一人の男が紫煙をくゆらせている。

 寂しそうな目をした、初老の男だ。皺の無い純白のカッターシャツが、船の帆のように風にはためいている。不潔な印象は抱かせないものの、どこかくたびれた雰囲気が漂っていた。


 ここ数日の間で、このバス停に人が来たのは初めてだ。

 普通に考えれば異常な事なのだが、ここに限って言えば、むしろ利用者がいることの方が異常に感じられてならなかった。


『ぼく』はというと、人が近づいてくる気配を感じ取るや否や、すんでのところで物陰に身を隠したのだった。彼は対人恐怖症の気があるのだ。


 男は『ぼく』の存在に気がついていない。

 彼は、待合所の裏で息をひそめながら、失敗した、と独り舌打ちした。


(彼女もいっしょに隠せばよかった)


 それが、彼女を危険から守ろうという感情から来る舌打ちなのか、あるいは独占欲から来るものなのか、今の彼には今一つ理解できていない。

 草いきれを鼻に通わせながら、二人の様子を窺う。

 煙草を吸い終えると、男がベンチに腰掛けた。吸いがらを地面に捨てずに、持参していた空き缶に入れたところには、好感が持てる。



 胡麻塩頭を撫でている男の隣には、黒猫。彼女は、まるで警戒する様子を見せずに、背中を丸めて日向ぼっこをしている。穴の空いたトタン屋根から漏れた日差しが、二人を祝福しているみたいに煌めいている。

 昨日、自分が居た場所に素性の知れない男がいる――。

『ぼく』にはそれが、何だか無性に悔しく感じられてならなかった。

 男がふいに横を向いて、彼女の耳を優しく撫でた。ぴんと尖った耳が水平に傾いている。


 その様子を見ていた『ぼく』は、胸が締め付けられるような思いがした。男の慈しむような手つきもまた、彼の心をことさらに苦しめた。

 これは――嫉妬。やきもちだ。

 けれど、この複雑な感情は、嫉妬のみで構成されているものではない。これは……この感情は……。


 小一時間ばかり経った所で、停留所にバスが停まった。

 ここ最近寝泊まりしているこのバス停が、現役で利用されているという事実を目の当たりにし、『ぼく』は驚きを隠せずにいた。


(廃止になっていた訳では無かったのか……)


 男は彼女に小さく手を振ってから、バスに乗って去って行った。彼がどこへ行くのか、そんなことは知る由もない。


 もやもやと煮え切らない気持ちもそのままに、『ぼく』はその日も黒猫と戯れて過ごした。あの男に触れられている時と、『ぼく』に撫でられている時の彼女は、寸分の違いもない、実に気持ちよさそうな顔をしている。

 その様子を嬉しく思う反面、『喜んでいる』あるいは『気持ちがいい』という、表面的なものでしか、彼女が感じていることを捉えることが出来ないことに対して、もどかしさを感じていた。そこには、男に撫でられているときと『ぼく』に撫でられているときの、決定的な差異が無いのだ。


――彼女の心が分からない。


 煩悶する一方で、彼はこのようにも思う。

 自分以外の誰かの心など、理解しようがないのだ、と。何故なら、自分自身の心の正体でさえ、完全には理解できない不明瞭なものなのだから。

 であれば、突き詰めて考える必要はない。考えれば考えるだけ詮無いことだ。彼女が傍に居て、その円いお腹を撫でていられれば、それだけで十分だ。

『ぼく』にとっての喜びは、黒猫のお腹に詰め込まれているのだと、自分を納得させた。



5.


 自分自身の心の正体さえ、完全には理解できない。だから、考えるだけ無駄なこと――。

 その諦観じみた考えが彼の中から消え去ったのは、明くる日の事だった。

『ぼく』が黒猫に対して抱いている感情が一体何なのかが、霧がはれてゆくように明瞭になっていったのだ。

 

 七日目の朝。

 寝ぼけまなこを擦ると、隣で寝ていたはずの黒猫が居なくなっていた。

 彼女が身体を丸めて眠りこけていたはずの場所に、潮風の匂いだけが空虚に香っている。

『ぼく』は焦燥感に駆られつつも、きっとまたひょっこりと姿を現すだろうと自分に言い聞かせて、ただただじっと、帰りを待ち続けていた。

 しかし、待てども待てども、彼女は帰ってこない。

 太陽が茜色に変わり、やがて空全体を覆うネイビーに星が瞬きはじめても、とうとう彼女が姿を現すことはなかった。


 待合室の椅子に残された小さな足跡が、どうしてか霞んで見える。少し砂を払えば消えてしまうであろうそれを、彼は儚げな瞳で見つめている。

 どうして……こんなにもぼんやりと見えるのだろう。

 苦しい……なぜだろう。

 やがて、涙だけがどこまでも正直に、彼の頬を伝ってゆく。

 ふと『ぼく』は、あの黒猫の住んでいる所も、名前さえも知らない事に気がつき、愕然とした。


 あの男は、彼女の名前を知っているのだろうか?彼女がどこに住んでいて、何をあげると喜ぶのか、知っているのだろうか?

『ぼく』は……彼女の体毛が黒曜石のように美しいということ位しかしらない。彼女の事を殆どといっていいほど、何も知らないのだ。



 彼は堪らない気持ちになって、停留所を飛び出した。

 夜の中を全力で走る。鬱蒼と木々の生い茂った山中を駆けずりまわり、昼間の熱の余韻を残す固いアスファルトを踏みしめ、めったに通らない車のヘッドライトに驚いて目を眇めた。

 彼女に呼びかけるように叫び声をあげる。何度も何度も、自分に気がついてほしくて、声を上げる。

 何がそこまで君を突き動かすんだ、『ぼく』。

 君の心は何を感じているんだ、『ぼく』。

 彼はもう既に自分の『心』を理解していた。これが恋というものなのだ。

 彼女を呼ぶその声は、風にざわめく木々に阻まれて、誰の耳にも届かない。

 必死になって探しまわっている彼の姿を、誰かが認識することはない。誰もが気づかない。

 もどかしくて、切なくて、苦しかった。誰もが彼に気がついてくれないのは、誰かの策略や陰謀ではない。この見知らぬ夜の中に、彼がたった独りであるという事実に過ぎない。


 世界から自分だけが見はなされてしまったような感覚に陥って、彼はただただ悲しみに沈んでゆく。動かす脚は鉛のように重く、胸臆は厚い雲に覆われているかのように薄暗い。

 途方にくれ、縁石に腰掛ける。煌々とした満月が『ぼく』を憐れむように、夜空に居座っていた。




6.



 結局彼女は見つからずじまいで『ぼく』が再び停留所に戻ることはなかった。

 彼女が居なくなった後には、深い悲しみだけが残った。

 恋は、砂で作った城のようなものなのだ。崩れた時にはじめて『そこに砂の城があったんだ』と強烈に想起する。恋も同じだ。彼は、彼女が居なくなった事で、『彼女に恋をしていた』という事に気づかされたのだ。


 朝日が昇り始めたころ、彼は早々とこの港町を去ることにした。

 道中の事はよく覚えていない。覚えているのは、ただ暑くて、長い長い道のりだったという事だけだ。

 失意のまま、しかし忽然と姿を消した彼女の事をほんの少しだけ想い、覚えている道を淡々と機械的に歩いた。


 夜になり、辺りの景色が見えなくなっても、彼は休むことを知らなかった。明滅する街路灯を道しるべにして、ただひたすら歩いてゆく。

 途中、黒猫を何匹か見かけたが、彼はそのたびに「もしかしたら彼女なのではないか?」と目を凝らさずには居られなかった。そうでないことは分かっているのに。


――あの黒猫はどこへ行ったのか。


『ぼく』は知らない。あの男ですらも、恐らく知らないだろう。それどころか、彼女以外の誰もが知らないことなのかもしれない。




7.


 そして、いつもの日常に戻ってきた。

 生まれた時からずっと住んでいる街。見慣れた住宅街。平坦な毎日。

 文句を垂れつつも、戻ってくるのは結局、自分の家なのだ。

 とぼとぼと、脚を引き摺るようにして歩きながら、暗いため息をついた。


『どこ行ってたの!』


 お母さんの物凄い剣幕が脳裏に蘇り、『ぼく』は戦慄した。

(かなりきつく叱られるんだろうな)

 進まない気持ちとは裏腹に、彼はとうとう自宅の前まで来ていた。

 文句のつけどころが無いほどに手入れされている花壇。陶製のオーナメントと、人の手で植えられた草花。ルーフ付きの駐車場と真っ赤な軽自動車。芝生に群生したクローバーの中には、多分、四つ葉は混ざっていない。

 混ざっていたとしたら、それは誰かが忍ばせた偽物だ。今の彼の気分と、幸福の象徴はあまりにもかけ離れているからだ。



 整えられた日常は、彼女との出会いという非日常の余韻を色濃くして、容赦なく彼の胸を締め付けた。

 家屋まで続くアプローチを、重い足取りで歩く。

 こうべを垂れて、憂鬱な気分で玄関の前に立っていると、扉が開いた。


 現れたのは、ひどく驚いた顔をした女の人。


――お母さんだった。


彼女は口に手を当て、大仰そうに驚いて、



「まあ!帰ってきてたのね!まったくもう、心配掛けて……」



 サンダルをつっかけて、それから柔らかな笑みを湛えながら歩み寄ってきた。

 ふんわりとパーマのかかった茶色の毛。『ぼく』なんかでは及びもつかない背丈と、自分との根本的な差異を感じさせる、体毛の無い白い肌。甘いお菓子のようなコロンの匂い。



「いつもいつも、困った子なんだから」



 薄い唇が紡ぎだす言葉は、ゆりかごのように彼を包む。暗澹とした気分をふるい落としてくれる。




(……おいおい、ぼくはもう十九歳だぜ。いつまで子供扱いするんだよ、まったく)




 心の中で毒づきながらも、お母さんの優しい声色にこの上ない安心を覚えている『ぼく』が居る。

 ところが、心の片隅で、不思議に思うことがあった。



(……なぜ、怒らないんだ)



 叱責されることを危惧していた彼は、拍子抜けしたのと同時に、訝しさを覚えていた。

 心配をかけたのに、どうしてそんなに優しいのだ、と。

 しかし。


(――あぁ、そうか、なんとなく、分かる気がする)



 お母さんのその優しさは、『愛』という感情なのだ。無事に帰ってきた『ぼく』に対して向けた、愛なのだ。何日間かの旅路を終えて、彼はほんの少しだけ『心』というものを理解できたような気がした。






 お母さんが嬉々として『ぼく』を抱き上げると、彼の首にぶら下がった鈴がりん、りん、と小気味のよい音を鳴らした。

 疲れ果てた『ぼく』は、柔らかい腕に抱かれながら、ゆっくりと夢の世界へ誘われてゆく。

 眠りに落ちる寸前、彼は初恋の足跡を思い出して、ほんの少しだけ、鳴いた。

 



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